斯く闘えり
メキシコ移民抄史

historia de la inmigración japonesa a méxico.

一幕 移民の時代

最初の移民交渉

 日本からメキシコへの最初の移民交渉、外務省を通してのそれが行なわれたのは一八八九年のことだった。前年にメキシコと日本との間に通商条約が結ばれたことがきっかけになっている。メキシコの太平洋運輸会社の代理人ヴォーゲルがメキシコと日本の通商航路の開設と同時に日本人移民の導入を日本外務省に出願したのだった。ただ、日本政府は通商条約締結からまだ日が浅かったことや特別な移民条約がないことを理由に許可しなかった。

 メキシコ側が必要としていたのはテワンテペック鉄道建設のための労働力で、実際の建設はもちろんアメリカ資本によるものだったが、すでに中国からは同じ太平洋運輸会社の代理人だったマロが設立した移民会社の仲介で千二百人前後の移民が送られていた。ただ、かれらのほとんどは数年後には当のマロの会社が倒産したために契約が履行されずに流浪するという情況に追い込まれている。

 次に交渉してきたのはソノラ州のニッケル鉱山への移民導入の代理人になっていたゼームスだった。この計画は立ち消えにとなったが、同時にかれはバハ・カリフォルニアのボレオ銅山への導入計画を日本吉佐移民合名会社との間に進めていた。一八九二年二月に両者の間に仮契約が結ばれている。その仮契約「日本吉佐移民会社トボレヲー会社トノ契約証」によれば、導入予定数は五百人、契約期間は三年。一日十時間労働で賃金は一カ月十五ドルから二十ドルで、食費やメキシコ(グァイマス)到着後ボレオまでの交通費などはボレオ側の負担だった。このあとの「ボレオ移民」の項で、その後に行なわれたいくつかの契約パターンを具体的に取り上げるが、それらと比較しても特徴的だったのは、契約満了者のうち帰国を希望する者にはその帰国渡航費の半額として五十ドルを支給、一方、引き続いて残留を希望する者にはソノラ州あるいはシナロア州の未開拓地十ヘクタールとその営農資金として百ドルを支給するというものだった。

 これに対し、外務省から調査指令を受けたメキシコの日本領事館書記生藤田敏郎の報告(一八九二年三月五日付、外務大臣榎本武揚宛書信)によれば、まず、契約満期者に対して百ドルを支給するというのは一見すれば大変な優遇のように受け取れるが、実際には雇主側が移民から毎月二・六ドルを差し引いて貯蓄させたものを払い戻すだけのものであること、また、十ヘクタールの土地支給については、メキシコでは、移民を導入し、のちにその移民が定住する場合は、導入した移民会社は「移住民」一家族に対し五ヘクタール以上の土地を支給しなければならないことが政府から義務づけられていること、そして、ソノラ州の未開拓地の土地価格は一ヘクタール当たりわずか一ドルに過ぎず、雇主にとってはそれほどの出費にはならないもので、これは別段、好条件にはならないとしている。

 ただ、それよりも問題なのは賃金だった。一カ月十五ドルから二十ドルというのは日給にすれば〇・六五ドル前後で、メキシコではペオンのそれに当たるものであること、一方、炭坑労働者の場合、子どもでも〇・五ドル、熟練労働者の場合は一・二五ドルというのが相場であることからすればかなり条件の悪いものであること、さらに、注意しなければならないのは、メキシコの鉱山会社は大資本であっても倒産することが多いとして、次のように結論している。

「最初に於て綿密周到の注意を加ふること大切と存候。もし日本人怠惰不紀律なる土人同様の給料を受け、単に他人の使用に甘ずるの前例をしめし候へば行末不可言不利益をこうむる事とぞんじ候。(略)支那人の近来当国に於て軽蔑を受け候は単にマロにあざむかれたる故のみに無之これなく所謂いわゆる給料のみの目的を以て渡航致次第と波及候へば、日本人は当初より其体面を不損よう此其永遠の利益を享有するの契約にあらざれば渡航御許可無之様」

 メキシコ人はいうまでもなく中国人移民とも一線を画して、日本人移民が低賃金で雇用される前例をつくることを警戒したのだった。

 また、うがって見れば、契約満了者に対する土地と百ドルの支給というのは、一方でそれを満了する者がいないことを想定してのものだったともいえる。先の契約書第九条に次のように規定されているからだ。

「ボレヲ会社は日本移住民を就役する内は無論、其他如何いかなる場合といえど墨国メキシコに於ける懲役囚徒と混同せしめざるべし」

 労働に囚人が使われていたことを明らかにしているもので、のちの東洋移民合資会社による同じくボレオ移民に見るようにかなり厳しい労働だったことがわかる。結局、外務省は藤田の数度にわたる報告をもとに、このときのボレオ移民は許可しなかった。

 しかし、移民地としての対象からメキシコを排除してしまったわけではなかった。メキシコとの貿易の可能性という形で領事館レベルで何度か調査している。そうした背景があって榎本の殖民計画も生まれたのであり、一九〇〇年代の大量移民の時代もはじまるのである。

 日本吉佐移民合名会社というのは、一八九二年、日本郵船社長の吉川よしかわ泰次郎たいじろうと秀英舎の代表佐久間貞一ていいちによって設立されたもので、外務大臣だった榎本は両者の仲介役となり九五年頃までは深く関係していたといわれている。また、移民仲介についてはそれ以前にも横浜や神戸の、いわゆる移民宿がおもにハワイ移民を対象とした渡航手続きや旅券取得の一部代行業務をするなど個人レベルでの移民業務を行なっていたが、組織的な移民会社としてはこれが日本で最初のものであった。九一年には海外同志会の、また、翌年には日本明治移民会社の設立がすすめられたがいずれも未完に終わっている。

 ハワイへの元年組以降、この時期までに日本からの移民があったのは、八三年のサースデー島(木曜島)へのダイバーのあと、八五年からの、いわゆるハワイへの官約移民、そして、八七年のカナダへの漁業移民、八八年のオーストラリアのクインズランドへの砂糖耕地移民と、ハワイ移民のほかはいずれも小規模のものだったが、少しずつ移民地は拡大されていた。

 一方、アメリカではすでに八二年に中国人移民に対する排斥法が成立し、八五年には契約移民の入国も禁止され、やがてそれが日本人移民にも及ぼうとしていた。日本吉佐設立の背景には、ハワイ、アメリカ以外への移民地拡大という狙いがあり、その主な目的は新しくブラジルに移民を送り出すことにあったという。ただ、最初のブラジルへの送出計画は契約問題がこじれたため失敗に終わっている。

 吉川との共同事業とはいうものの実際の移民業務のほとんどは佐久間が行なっていた。かつて国内的には北海道への移民事業に手を染めたこともあるかれである。日本郵船とタイアップしたのはハワイ、アメリカ以外への移民地拡大には船会社の協力が欠かせなかったからで、日本郵船側には南米航路と太平洋航路の開拓という狙いがあった。

 同社は九二年に、ニューカレドニアのニッケル鉱山とクインズランドの砂糖耕地にそれぞれ最初の移民を送り出したあと、九四年にはフィジーとカリブの小島グァドループに砂糖耕地移民を送り出している。すでに述べた榎本殖民地に草鹿砥くさかどの後任として入った小林直太郎はこのクィンズランドへの移民監督として出発したのだった。しかし、クィンズランド以外は現地での労働条件が悪かったためにほとんどが数カ月で帰還。また、その後、九七年にはクィンズランドへの移民が禁止されたために太平洋各地への送り出しはニューカレドニアに絞られることになる。また、こうした日本吉佐の失敗が移民保護法を制定させることにもなったのだった。

 その後、一八九八年(明治三一年)までに生まれた移民会社は計画だけに終わったもの、あるいは短期間に廃業となったものも含めて、九三年に海外渡航株式会社、横浜移民合資会社、九四年に移民取扱人小倉幸、神戸渡航合資会社、横浜海外殖民合資会社、移民取扱人森岡眞(森岡商会)、九五年に大日本移民株式会社(廃止)、九六年に広島海外渡航株式会社、東京移民合資会社、移民取扱人椿本俊吉、鎮西移民株式会社、日本移民合資会社、東洋移民合資会社、移民取扱人小山雄太郎、神戸郵船移民株式会社(廃止)、厚生移民株式会社、九七年に中国移民合資会社、九州移民株式会社、日本殖民株式会社、帝国移民合資会社、そして九八年に熊本移民合資会社、帝国植民合資会社と実に 二十二社の多きにのぼっている。

 このうち九六年の東洋移民合資会社は日本吉佐が名称変更し新たに設立されたもので、ほかに一九〇三年に中央移民会社を中心に中外殖民合資会社、東北移民合資会社、厚生移民株式会社など七社が合併して設立された大陸殖民合資会社や、森岡商会とともに三大移民会社と呼ばれるようになる。最初はニューカレドニアへの送出を一手に行なっていたが、あとで詳しく述べるように、その後、大陸殖民合資会社とともにメキシコへの移民を取り扱うようになる。そして、この両者の参入によって日本からメキシコへの大量移民の時代がはじまるのだった。

日本人移民一万人

 榎本移民以後、日米戦争までの時期、日本からメキシコに入った移民は、単独でのそれを除けば、オアハケニャ、ブエナ・ビスタなどオアハカ、ベラクルス二州にまたがったテワンテペック地峡沿いの砂糖耕地への移民と、コリマ州の通称コリマ鉄道(セントラル鉄道コリマ線)建設工事への移民、そして、北部コアウィラ州のラス・エスペランサスやフエンテなどの炭鉱移民の三つに大別できる。送出にかかわったのは大陸殖民合資会社(以下、大陸殖民)、東洋移民合資会社(以下、東洋移民合資)、熊本移民合資会社(以下、熊本移民合資)の三社で、オアハケニャ、ブエナ・ビスタ、コリマなどへの移民は大陸殖民、そして、ラス・エスペランサス、フエンテなどへのそれは熊本移民合資、東洋移民合資によるものだった。

 最初は一九〇一年十一月、熊本移民合資によるラス・エスペランサスとフエンテへの八十二人で、同社はその後も十二回にわたって送出しているが、さらに一九〇四年からは東洋移民合資も加わり、前後十二回、移民数は両者合わせて約四千三百人にのぼっている。

 これに対し大陸殖民による移民は一九〇四年からはじまっている。第一回から第七回(一九〇六年四月)までの移民数は、それぞれ百六十一人、九十三人、百十八人、百二十七人、四十人、十四人、三人の計五百五十六人。移民地はラ・フンタ、ラ・ソレダー、ドス・リオス、ラ・クロッセなどメキシコ南部ベラクルス州テワンテペック地峡に散在する砂糖耕地や、麻・ゴム栽培のプランテーションだった。ただ、数カ所にわたる耕地との移民供給契約総数は千人を超えるものであったのに対し実際の取り扱い数は少なかった。一九〇六年前半までの段階では、アメリカへの転航にもまだまだ余裕があったから、移民たちの眼にメキシコは有利な稼ぎの地とは映っていなかったことと、もう一つは、南部砂糖耕地は北部炭鉱とは異なり、アメリカ国境からはあまりにも遠く離れていたため、転航の地としての条件が悪いと見たからだろう。

 数として急激に増えたのは一九〇六年十月の第八回移民からだった。このときには総数千二百五十四人が送り込まれ、うち五百四十七人がコリマ鉄道の建設工事に、残る七百七人がオアハケニャに入ったとされている。そして、同年十二月の第九回移民千三百四十五人のあと、翌年四月の第十回移民千二百五十二人を最後に大陸殖民によるメキシコ移民は終わっている。総数四千四百七人で、第八回以後は供給契約を二倍近くも上回る過剰輸送だった。さらに、第十回のあと、第十一回移民も送り出しているとする記録もあるが、それは日本国内で募集されたものではなく、コリマ鉄道建設工事が完了したあと、契約半ばで解約された第八、九回移民の一部を北部ソノラ州の金鉱山、通称ブラック・マウンテンに転労させたものだった。

 この移民会社三社によってメキシコに入った日本人移民は約八千七百人、その九割近くが、一九〇六、七年に集中している。外務省通商局作成の「移民年表」から統計をとれば、その後、一九〇九年から四一年までの時期に先行移民による呼び寄せや単独渡航によってメキシコに入った日本人移民は、男性二千七百三人、女性七百五十三人の計三千五百十八人となる。もちろん、これには再渡航者も含まれ、また、これは横浜あるいは神戸からの出航者数のトータルであって、さらに、そのすべてがメキシコに入っている確証はない。だが、それらを勘案しても、一九〇一年から四一年までの時期、メキシコへの、いわゆる戦前移民の総数は約一万人から一万二千人前後にのぼると考えていいだろう。同じ時期のラテンアメリカへの日本人移民のうち、二万六千人を超えるペルーや、十八万人を超えるブラジルと比べればわずかな数だが、時期的な集中度はいずれにも匹敵するものだった。

大陸殖民合資の初期移民

 大陸殖民による送り出しは一九〇四年にはじまっている。そのため、同社は机上での調査はかなり綿密に進めていたようで、メキシコ事情に詳しいアメリカの医師ワッソンが根本正ねもとただしの質問に応えたメキシコの衛生状態についての回答書などにも目を通していたようだ。ただ、結果として同社自身による実地調査は不十分だった。最初の実地調査は前年の一九〇三年に業務担当社員村上泰蔵をメキシコに派遣して行なわれた。かれは南部オアハカ、ベラクルス州境の砂糖耕地や麻、ゴム栽培のプランテーションを周回し、現地会社支配人との間で交渉。渡航費は雇主負担で日給一・五ペソという条件を提示するがまとまらず、結局一ペソ十二・五センタボス(約〇・五ドル、一円)で契約をまとめた。当時、メキシコ人労働者の日給は〇・七五ペソから一ペソであり、収穫期には一・五ペソを支給される者もいたが、かれらは請負制に組み込まれ、作業のない時期にも食にありつけるかわりに、雇主からは毎月五ペソ前後をその給料から差し引かれていた。そのため、このときの契約は決して不当な額ではなかったと村上はその報告に記しているが、メキシコ人労働者の場合は別に〇・二ペソ前後の食糧支給もあったことから考えれば、とりわけ有利といえる条件ではなかった。

 このように同社の現地調査は、現地の気候や地勢などの労働環境条件の調査に向けられたのではなく、ただ、現地会社との間の送出契約条件の交渉、主に供給数の交渉のための調査に過ぎなかった。こうして、村上の報告をもとに大陸殖民はその年のうちに現地砂糖耕地会社七社との間に移民供給契約を結んでいる。その耕地名、経営会社名、契約供給数は次の通り(カッコ内、うち女性数)

 ラ・フンタ メキシカン・ミューチュアル・プランタース・カンパニー、百(十五)

 不明 コリセオ・シュガー・プランテーション・カンパニー、三十(九)

 ラ・ソレダー オアハカ・アソシエーション、三十(五)

 ドス・リオス メキシカン・ガルフ・コマーシャル・カンパニー、百二十五(二十五)

 リオ・ビスタ オアハカ・ツレージング・カンパニー、百(十五)

 ラ・クロッセ メキシカン・プランテーション・カンパニー・オブ・ウィスコンシン、五十(十五)

 ラ・カスカハル カスカハル・プランテーション・カンパニー、五十(四)

 計 四百八十五(八十八)

 契約日はそれぞれ順に一九〇四年一月二十五日、二月一日、同二十日、四月六日、同十九日、同二十三日となっている。一方、募集の対象府県とその数は、広島県二百十五人、岡山県五十人、和歌山県五十人、山口県五十人、福岡県五十人、熊本県五十人、福井県二十人の計四百八十五人、うち女性八十八人だった。

 ただ、この数で募集をかけたわけではなく、もちろん予備を見込んでいた。しかし、移民保護法には募集規定があって、むやみに予備数を増やすことはできなかった。のちには二倍を超える過剰募集と輸送によって莫大な利益をあげる大陸殖民にしてはかなり控えめな数字だが、「予備人員数」は、広島県十二人、岡山県十二人、和歌山県七人、山口県二十一人、福岡県二十八人、熊本県十一人、福井県八人の計九十九人、うち女性十九人となっている。

 このほか同年には、コモンウェルス・メキシカン・プランテーション・アソシエーション(五月十八日契約、アシエンダ・デル・インヘニオ、百人)、ワッジャー・プランタース・カンパニー(六月十六日契約、ラ・フロレンシア、六十五人)、テワンテペック・ラバー・プランテーション・カンパニー(同十七日契約、プランテーション・ルピラ、五十人)、また、翌一九〇五年には、テワンテペック・ナショナル鉄道会社(六月七日契約、三百七十人)、ブエナ・ビスタ・デベロップメント・カンパニー(七月二十九日契約、百二十人)とも供給契約を結んでいて、両年合わせた契約総数は千百九十人にのぼっている。しかし、予定したほど集まらず、実際に送り込まれたのは約半数の五百五十六人に過ぎなかった。内訳として、第一回から第七回までの移民数、出航日、移民船名を記しておこう。

 第一回 百六十一(十三)人、一九〇四年十一月七日、コレア丸

 第二回 九十三(七)人、 一九〇四年十二月十一日、チャイナ丸

 第三回 百十八(一)人、一九〇五年一月十五日、コレア丸

 第四回 百二十七(二)人、一九〇五年十月二十六日、チャイナ丸

 第五回 四十(〇)人、一九〇六年一月十六日、チャイナ丸

 第六回 十四(〇)人、一九〇六年二月二十日、コレア丸

 第七回 三(〇)人、一九〇六年四月四日、チャイナ丸

 いずれも、送り先のほとんどは、すでに述べたようにドス・リオス、ラ・フンタ、リオ・ビスタなどベラクルス州テワッテペック地峡中央部にあったアメリカ資本の砂糖耕地だった。

 かれらのその後についてはほとんど明らかでない。ただ、そのはじめから大陸殖民のいうところと現地の労働条件との間にはかなりの違いがあったようで、たとえば第四回移民のうち、

七十九人が入ったリオ・ビスタでは就労まもなく雇主との間に争議が起きている。そして二カ月も経たない一九〇六年一月には、一部が雇主の意向を受けた大陸殖民によってのちに述べるオアハケニャに転労させられている。そのことを、当時メキシコ・シティにいた村上泰蔵は公使杉村虎一に次のように「具申」している。

「爾来雇主移民間に兎角とにかく面白からざる感情を有し甚だ円熟を欠くの表兆あるを認め、本社は直ちに相互の意志を疎通せしめ、且つ百方融和を計りし結果、一時平穏に帰し成績すこぶる良好に至りしも、元来雇主は未だかつて日本労働者を使役せし経験なき為め日本労働者の事情にくらく事々物々就労者の感触を害せる為め、就労者は常に不満を懐きて精励ならざるに至りついに雇主より就労者の移転方を請求するに至り、移民一同もまた切に転耕を懇請致候に付き、とくと事情取調候所、此際強いて相互の間を調和せしめ一時を糊塗候も到底永続の見込無之むしろ此際雇主移民の請求をれ該耕地就労者を他転せしむる方相互の得策と存じ、本年一月二十日を以て該耕地を引揚げベラクルス州オハケニヤ耕地へ転労せしむるの止むなきに立ち到り申候。而してオハケニヤ耕地は日給おしなべて一日壱弗五拾仙、組長は特に壱弗八拾五仙を支給し、其他の条件は凡てヴエノビスター耕地と同一に有之候。而して転耕后の移民はく業務に服して雇主も非常の満足を表し居候」

 争議の原因は雇主側の移民に対する接し方にあり、大陸殖民にはなんら責任はないといわんばかりで、転労には移民の「懇請」があったとしている。もちろん、移民たちは斡旋を要求しただろう。しかし、かれらをオアハケニャに移した村上のねらいは、新しい移民地の開発だった。

 こうして、大陸殖民による第七回までの送出は、第一回から第四回までは九十人から百人を超えるものだったが、このオアハケニャ転労を境に第五回からは急激に数が減っていく。明らかに同社によるメキシコ移民送出の試みは一九〇六年はじめの段階で失敗してしまっていた。

移民供給地を探せ

 そのため現地代理人としてメキシコ・シティにいた村上は新たな就労先の開発に奔走しなければならなかった。結果として、大陸殖民による移民送出はオアハケニャとその周辺の砂糖耕地、そしてコリマ鉄道だけに終わっているが、送出計画はいくつもあった。その一つが北部コアウィラ州のラス・エスペランサス炭坑へのものだった。当時すでに北部炭坑への日本人移民の送出は熊本移民合資と東洋移民合資によって続けられていたが、逃亡が激しかったため労働力不足になり、ラス・エスペランサスの炭坑会社は二社以外にも移民取扱会社を求めていたのだった。

 契約相手はメキシカン・コール・エンド・コークス会社で、直接の交渉相手はエドウィン・ラッドローという現地支配人だった。公使杉村虎一の一九〇六年三月二十日付外務大臣宛公信によれば、ラッドローは熊本移民合資、東洋移民合資の二社と交渉したが十分な結果が得られなかったため日本公使館に二社以外の「信用ある」移民会社の紹介を依頼、それに応じて日本公使館は当時メキシコ・シティに駐在していた村上を紹介したという。それによって両者の間に話がまとまり、導入移民数は五百人、また、契約期間については逃亡を極力避けるために二年に短縮、さらにその後の交渉でそれを一年とすることで話がまとまった。そして、杉村から同炭坑について「炭坑一般の状況就中其衛生状態及特に移民逃亡の原因の査察方」を命じられた村上は現地調査に出かけている。その報告「メキシカン・コール・エンド・コークス会社属炭山情況取調書」から当時の就労地の様子を見てみよう。

 ラス・エスペランサスはコアウィラ州の北東部、国境の町ピエドラス・ネグラスからは南西に約百四十キロ離れていた。メキシカン・コール・エンド・コークス会社の開発によって開けた町で、同社は本拠を置いていた。銀行、郵便局、電信局のほか、劇場、クラブ、病院、学校などの施設も整い、ホテルは二つ、一つはフランス人の、もう一つは中国人の経営で、上水道も引かれ、さながら小都会のようだったという。また、労働者住宅は約千五百棟、人口は優に一万人を超えていた。同社はそのほか付近のサビナス、ムスキス、パラウなどにも多くの炭坑を持ち、その鉄道は現在も使われているが、バロテランを基点にラス・エスペランサス、パラウ、ムスキスに至る三十数キロの私設鉄道も持っていた。採炭量はさまざまだったが、もっとも多くて日産三千五百トン、坑内労働者数は二千二百人を超え、うち二百二十二人が日本人、残りはすべてメキシコ人だったという。

 実際の労働はタレア制一本で、一トンの石炭を掘り出し、それを炭車に積み込めば〇・六ペソ。しかし、坑内で使用する発破用の火薬、発火機(約二十八ペソ)や鶴嘴(二・三ペソ)、シャベル(三・二五ペソ)、ランプ(〇・五ペソ前後)、ヘルメット(〇・六ペソ)、灯油などはすべて自前だった。

 採炭量は日本人労働者の場合は一日平均三・八六トン。日曜、祭日以外は続けて就労したため一カ月の採掘高はメキシコ人よりも多かった。ただ、この「情況書」のなかで気になるのは福島県出身者と沖縄県出身者との採炭高を比較していることである。

「熊本移民会社の取扱にかかる福島県人と東洋移民会社の取扱にかかる琉球人との比較を見るに福島県人の採炭高は一日平均三噸八分六厘余なるも、琉球人の採炭高は三噸八分八厘なるを以て、一見琉球人の採炭高多く成績稍々やや良好なるが如く見ゆるも、右は却て良好ならざるのみならず遥かに福島県人に劣るの事実あり。之れが理由は琉球人は常に徳義を重んずるの心少なく、稍もすれば自己の前借金(渡航費)、其病院費を会社に差引かれざる為め、二、三人迄共同して採炭し之れを一人の名義として賃金を受くるもの往々あり。一人にして一カ月百五十噸、二百噸など採炭するものあるが如しといえども、右はかかる狡猾手段に出でたる者多しと云ふ。元来琉球人は懶惰らんだにして一段福島県人に及ばざるが如し」

 沖縄出身者の採炭量は福島出身者のそれよりも多いが、それは前借りの渡航費や病院費用を差し引かれないようにするため二、三人の採炭量を一人の名義で行なっているからだというのである。一人の名義で登録すれば、前借金などを差し引かれるのは一人分で済むからだが、なぜ、こうした比較を報告しなければならなかったのか。日本人移民の間ではもちろんのこと、村上のなかにもこうした沖縄出身者への差別感情が充満していたのだろうが、逆に、このことがこの村上の調査そのもののほとんどが、実際にかれがその足で調べあげたのではなく在留日本人移民の口から聞き留めたものであったことがわかる。

 家屋は二部屋構造の一戸建てで、一部屋の大きさは縦約七メートル、横約三・五メートル、その一部屋に四人が収容されていた。家賃は一カ月四ペソで、炊事場が付属している場合は五ペソ五十センタボスだった。しかし、東洋移民合資による移民たちは同社の要求で大部屋構造の家屋に二、三十人いっしょに収容され、一カ月五十センタボスの家賃を支払っていたという。浴場は日本人のためにとくに設けられ、使用料は一人一カ月十センタボス。炊事場も日本人用のものを別棟に設置し、二十五人毎に一人の炊事係を置き、その給料は各自負担させられた。

 坑内に持って入る昼食には米飯ではなくパンを焼いた。高温の坑内では米飯は半日ともたなかったからで、一カ月九ペソで炊事を請け負う者もいたという。昼食には副食として羊肉と野菜を煮込んだものを、朝夕には米飯を主食としていた。食糧は会社経営の売店で購入、その物価は米一キロ約〇・三ペソ、牛肉一キロ約〇・三ペソ、羊肉、豚肉一キロ約〇・二五ペソ、精白砂糖一キロ約〇・二八ペソ、玉子一個約〇・〇七ペソ、玉蜀黍一キロ〇・〇七ペソ、コーヒー一キロ約〇・七ペソで、一カ月の食費として十ペソ前後必要だったという。

 そうした結果、村上は日本人移民の一カ月平均の収支を次のように報告している。収入は一日四トンを採炭したものとして六十五ペソ、それに対して支出は、食費十ペソ、渡航費前借金返却十ペソ、会社への手数料・病院費六・五ペソ、発火機・ランプなどの道具修理費や火薬・灯油代合わせて十二・五ペソ、入浴料他〇・四五ペソ、積立金二ペソの計四十一・四五ペソで、差引残高は二十三・五五ペソになるという。ただ、これは一日四トンの採炭を二十五日間続けたと前提してのもので、採炭量が一カ月百トンを超えた場合には一トンに付き〇・〇五ペソを上乗せした〇・六五ペソが支払われるという奨励法を適用したものだった。しかし、現実には日本人移民の平均採炭量は四トンに遠く及ばなかったというから、この奨励法が適用されなかった場合には、一カ月二十五日間びっしり働いたとしても収入は六十ペソにはとうてい届かないことになり、手元に残る金も二十ペソをはるかに下回ることになる。

 また、いくら体力があり、日々休まず励んだとしても、坑内システムがそれについていかなかったため奨励法の一カ月百トンはおろか、一日三トンも難しかった。というのは採炭された石炭はラバが引く炭車に乗せて地上に運び出されるのだが、その炭車が少ないうえに、坑内には採炭したものを置いておくスペースがなかったため、採炭量が限度を超えると積み出しが終わるまで採炭を中止せざるを得なかったからだった。ただ、炭車が少ないというのはその絶対数ではなく、それもシステムからくるものだった。坑内労働は採炭と運搬とに分かれ、ラバを使っての運搬はメキシコ人労働者が多かったが、かれらはかれらで独立していて、採炭する者は積み出しにかれらを雇うというシステムだった。そのためかれらは「請負師」たちに専有され、日本人移民のような単独の採炭者までは十分に炭車が回らなかったのだった。

ナコサリへの導入計画

 もう一つ、村上が進めたのはソノラ州ナコサリ銅山への導入だった。ナコサリはアメリカとの国境の町アグァ・プリエタから約百キロ南、アグァ・プリエタからまっすぐ延びる鉄道の終着駅。ニューヨークに本社を置くモクテスマ・カパー・カンパニーが開発した銅山で、鉄道はその輸送のために同社によって敷かれたものだった。銅山はさらにナコサリ郊外約五キロのところで、同社によって一九〇一年に開かれ、一九〇六年当時は七百人前後のメキシコ人が就労していたという。

 移民供給契約は一九〇六年七月六日に大枠が締結され、その後、細部の変更が行なわれたあと同年十月までに同社代表ダグラスと村上との間で正式に交わされている。その内容のおおよそを見ておこう。

 まず、移民供給契約数は坑夫七十五人。十八歳以上四十歳までで、うち二十五人は妻を同伴することが義務づけられていた。供給期限は契約成立後五カ月以内だった。

 契約期間は二年。労働時間は一日十時間で、労働日は週六日。労働の実際はタレア制で、一フィート採鉱すれば〇・三ペソ。順調にいけば一日二・五ペソの収入があるように賃金基準が定められていたという。ただ、賃金のなかから毎日〇・二ペソが逃亡の場合の保証金として差し引かれ、契約満了のときにはそれが帰国費用にあてられることになっていた。また、就業中の事故による入院治療費としても毎月一・五ペソが差し引かれることになっていた。

 労働は二十五人をグループとして、さらに、そのなかから組長一人を選びその監督のもとに就労する。組長の日給は三・五ペソだった。

 また、住宅は会社側で用意されていたが、これも毎月家賃をとられることになっていて、五人用一室付きのものが五ペソ、十二人用二室付きのものは八ペソだった。その他、大陸殖民と移民との間の契約書によれば、出発前の体格検査費は大陸殖民の負担、渡航費は移民負担、グァイマスから就労地までの費用は雇主負担だった。そして、大陸殖民への手数料は二十五円。ただ、移民の資格として農夫でも可能となっていた。労働が採鉱者と運搬者とに分かれていたからだろうか。

 その後、大陸殖民によって移民の募集地が愛媛一県と決められ、男性七十五人、女性二十五人を募集する由の「移民募集通知」が一九〇六年十月二日に警視総監安楽兼道宛に提出されている。ただ、実際に募集が行なわれたのかどうか明らかでなく、大陸殖民の取り扱いとしては、先のラス・エスペランサス炭鉱同様、ナコサリ銅山へも日本人移民は一人も入っていない。のちに述べるように、すでにこの時期、タバスコ・ランド・エンド・ディベロップメント・カンパニー(オアハケニャ)との間の移民供給契約が同年五月十九日に、また、ハンプソン・エンド・スミス・カンパニー(コリマ鉄道)とのそれが七月十一日(あるいは六月十一日)にそれぞれ成立していたからで、契約数はそれぞれ千六百五十人と三千人であり、ラス・エスペランサス炭鉱やナコサリ銅山へのそれとは桁違いだった。メキシコへの大量移民送出をねらった同社は、大量供給に手数料の旨みを見たのと、熊本移民合資と東洋移民合資との競合する北部鉱山への移民送出を避け、コリマ鉄道と南部砂糖耕地とを独占的な導入地にしようとしたのだった。

オアハケニャ

 メキシコ南部ベラクルス州テワンテペク地峡を南北に走るテワンテペク鉄道、そのほぼ中央のヘスス・カランサ(旧、サンタ・ルクレシア)駅のすぐ横を流れるのがハルテペク河で、それを六キロほど下るとコアツァコアルコス河に出る。そして、さらに二十キロ前後蛇行しながら下航すると、左手に最大時には面積約百平方キロという広大さを誇ったというオアハケニャ耕地跡が見えてくる。

 コアツァコアルコス河に張り出すように三方を水に囲まれたデルタ地帯で、肥沃なだけでなく、水運の便もよく、縦横に通じた水路によって生産物を直接メキシコ湾側の輸出港コアツァコアルコス(のち、プエルト・メヒコ、さらに現在、コアツァコアルコス)に輸送できるという、プランテーションとしては絶好の条件にあった。一九一二年、同地を訪ねた荒井金太はその報告「墨国ヴェラクルス州オハケニヤ耕地移民状態視察報告」のなかで「理想的農場と称すべき」と述べ、さらに、そうした耕地を見い出したアメリカ資本の調査力を賞賛して次のように記している。

「今より十数年前に於て交通の便なき此の未開の地方に侵入しく好個の土地を選択して之を事業地と定めたる事実は彼等米人が独り殖民地事業に潤沢なる経験を有することを証するのみならず、又事業に関して如何に熱心なるかを示すものにして、彼のいたずらに殖民熱に駆られ軽々しく外国に土地を取得し失敗を招きたる本邦一派の輩とは全然其趣を異にせり。故に未開の地に土地を発見し事業を起さんとする者はすべからく同耕地の如きを参考とすべきなり」

 コアツァコアルコス川を延々二十数キロにわたって船に揺られてきたかれは、まず製糖工場周辺の環境の整備ぶりに驚嘆したのだろう。「本邦一派の輩」とはいうまでもなく榎本殖民を計画、実行した者たちのことで、かなりのこき下ろしだが、アメリカ資本がかれの絶賛する調査力を身につけるには、十九世紀半ばから続いていたメキシコへの資本投下があったからだろう。

 付近にはアメリカ資本のものとしてオアハケニャのほかにドス・リオス、リオ・ビスタなどの耕地が開かれていたが、同じく荒井の報告「墨国移民地調査報告」によれば、同耕地はアメリカ資本のタバスコ・ランド・エンド・ディベロップメント・カンパニーが経営するもので、土地そのものを所有していたのはタバスコ・プランテーション・カンパニーというアメリカの会社だった。タバスコ・プランテーション・カンパニーはメキシコ政府から同耕地を一エーカー当り十ドル前後で購入、その開発資金として五百万ドルを予定し、開発とその後の経営をタバスコ・ランド・エンド・ディベロップメント・カンパニーに委ねていたのだった。一九一一年を期限に開発を完了すれば、開発資金の残部はタバスコ・ランド・エンド・ディベロップメント・カンパニーのものとなるという契約だったという。のちに述べるが、そのためタバスコ・ランド・エンド・ディベロップメント・カンパニーは耕地の開発を急ぎ、日本人移民にも請負制での開発、耕作をすすめたのだった。同社は周辺に約五千エーカー(二千ヘクタール)の農地を所有、その製糖工場は当時ベラクルス州で最大規模を誇っていたという。

 それだけに、耕地内設備もかなりのものだった。先の荒井の報告「墨国ヴェラクルス州オハケニヤ耕地移民状態視察報告」によれば、中心の製糖工場と付属施設は比較的小高い丘の上に、そして、その周囲の一方には事務所や専属の技師、従業員、医師たちのなどの住宅、ホテル、クラブ、図書室、売店などが、また、他の三方には労働者用のキャンプが建ち並ぶという整備ぶりだった。さらに、病院は大平原を見晴らす高台にあったという。首都から赴いた荒井の眼にも、さながら小都会のように映ったのだろう、「耕地内道路は馬車の通行し得る幅にて往来甚だ容易なるのみならず夜間は一町毎に大電灯の点火あるを以てあたかも都会にるが如く、尚ほ道路の両側にはことごとく園庭を設け常に三、四人の日本園丁を使役し年中草花緑芝の絶ゆることなからしむ」と記している。といっても、これらはセントラルとしてのオアハケニャの中心部のことであって、周辺の広大な砂糖耕地の状況や、そのなかでの労働者の生活環境とはかなりの違いがあったことはいうまでもない。

 生産面では、広大な砂糖耕地で収穫された砂糖黍は専用社線を使って工場内の圧搾機に送り込まれるという、いわゆる近代的セントラル方式で、日産百トンの粗糖を生産。それらは四百トン前後の自社船でコアツァコアルコスに輸送されていた。また、六千トンを収納できる倉庫があり、副産物としてラム酒も製造していた。一九一一年度の粗糖生産高は五千トンで、うち千五百トンはニューオリンズを経由してイギリスに輸出、その他はメキシコ国内用に輸送していた。

 また、当時の労働者としては、日本人移民や朝鮮人移民のほか、近隣のメキシコ人労働者に加えて、ソノラ州のヤキ族、ハリスコ州のトルカ族などもいた。ヤキ族はディアス時代にソノラ州の知事をしていたラモン・コラールによって送り込まれたものだろう。合わせて九百人前後が働いていたという。

過剰輸送と契約解除

 このオアハケニャに日本人移民がはじめて入ったのは一九〇六年一月のことだった。その数四十人。すでに述べたが、大陸殖民によってわずか数カ月前の一九〇五年十二月に入った第四回移民百二十七人の一部で、最初、ドス・リオスに入ったが、契約をめぐって雇主との間に争議が起きたため大陸殖民によって転労させられた者たちだった。

 これに対し、日本から直接やってきたのは一九〇六年の第八回移民が最初で、千二百五十四人が十月二十五日、川崎汽船の第二琴平丸で神戸港を発ち、十二月七日にサリナ・クルスに上陸、うち、コリマ鉄道建設への移民を除いた七百七人が、即日、あるいは翌日のうちにオアハケニャに入っている。

 その後、第九回移民千三百四十五人が同年十二月十日、東洋汽船の満州丸で横浜港を発ち、翌年一月二十三日にサリナ・クルスに上陸、うち千百十人がコリマ鉄道に、残る二百三十五人がオアハケニャに入っている。そして、同年六月到着の第十回移民のうちの三百四十四人(うち幼児七人)と続いて、それを最後にオアハケニャへの移民は終わる。ただ、いずれも、その数は確定できるものではない。というのは、日本出航前の移民と大陸殖民との間の「契約」による数字に過ぎないからで、実際にはコリマ鉄道移民として契約した者がオアハケニャ移民として契約変更している者がかなりいる。その後、第十一回移民を送り出しているとする記録もあるが、これは日本で募集したものではなく、のちに述べるように、コリマ鉄道建設工事が完了したあと、そのために契約半ばで一方的に解約された第八、九回移民の一部を北部ソノラ州の金鉱山、通称ブラック・マウンテンに転労させたものだった。

 明確に数字が確定できないのは、過剰輸送と、その結果としての契約解除があったからで、ほかの移民会社の場合もそうだが、とりわけ大陸殖民の場合は杜撰だった。第九回移民の場合、サリナ・クルスに着いたところでオアハケニャから大陸殖民の現地代理人がやってきて、現地での移民過剰を理由に移民に契約解除をすすめている。契約解除とはいうものの、実際は大陸殖民による契約放棄だった。ところが、「解除」という解雇に、逆に移民が「手数料」二十円を支払わされている。現地雇用の過剰を知り尽くしたうえでの過剰輸送と、移民を手玉にとった詐欺にも等しい手数料稼ぎだった。にもかかわらず、移民が応じたのはアメリカ密入国という最後の手段に望みをかけていたからだった。このときのオアハケニャでの雇用過剰数は明らかでないが、同船のコリマ移民の場合は約半数が過剰輸送になっていた。

 のちに、オアハケニャでは最大時千五百人を超える日本人が働いていたとする報告もあるが、少しオーバーな数字のような気がする。日本からのオアハケニャ移民は、出航時の名簿通りに就労していたとしても総数千二百八十六人で、先のような「解約」によって、少なくとも第九、十回移民の半数近くは現地には足を入れていない。とすれば、多くみても千人を超えなかったのではないか。解約された者の多くはアメリカとの国境をめざして北に向かっている。だが、目的を果たした者はどれほどいたか。

「契約」の実際

 一方、「契約」通りにオアハケニャに入った者のその後はどうだったのだろうか。問題となったのは、大陸殖民との間に交わされた契約内容と現地状況との相違だった。まず、その契約とはどのようなものだったのか、第九回移民の場合を見てみよう。日本での契約には、現地雇主と大陸殖民とのものと、移民と大陸殖民とのものの二種類あるが、ここに示すのは後者のもの。そのにも、第一条にみられるように雇主と移民との間の契約もあったと考えられるが、実際には、それは大陸殖民と移民との契約に含まれるものだったと思われる。

[墨契第〇〇〇号契約書]

 移民〇〇〇は墨西国ベラクルーズ州オハケンヤ砂糖、珈琲、麻等の耕地叉は製造場に於て労働する目的を以て同国に渡航せんが為め左記二名を保証人に立て移民取扱人大陸殖民合資会社に其取扱方を申込みたるに付、双方の間に左の条件を契約す。以下、大陸殖民合資会社を単に会社と称し、〇〇〇を単に移民と称す。

 第一条 会社は移民の旅券下付の出願其他渡航に必要なる諸般の手続をなし、尚該渡航地に到着したるときは該地にある会社の代理人をして会社が予め契約をなしたる雇主に紹介し業務に就くの手続を懇接(切)に周旋せしむべし。移民は雇主の使役の下に耕地もしくは製造工場に於て移民と会社との契約条項及移民と雇主との契約条項に基き誠実に且つ勤勉に従事することを承諾し、会社は此契約に記載する移民と会社との間に於ける条項は誠実に之を履行すべく、其雇主と移民との間に於ける契約条項に付ては会社の責任を以て契約当事者をして誠実に履行せしむることを承諾せり。

 第二条 本邦〇〇港より墨国サリナ・クルーズ港に至る移民の渡航費実費、今回の計算に於て金百十六円は移民の負担とし、墨国サリナ・クルーズ港より就業地に至る一切の費用及移民一人に付六貫七百目を超過せざる手荷物の運搬費用は雇主をして之を負担せしむべし。

 第三条 移民は本契約締結の際、手数料として金二十円を会社に支払ふものとす。

 第四条 移民は出発前乗船港に於て体格検査を受くべし。検査医若し之を不合格と認めたるときは会社は此契約を取り消すものとす。此場合に於て乗船港迄の往復費用は移民の負担として会社は移民より徴収したる手数料を全部返却するものとす。但し、体格検査費は会社の負担とす。

 第五条 雇主は移民の中より毎日二十センタボス(約十八銭)宛を差引、毎月末其氏名及金額を詳し、其総額を会社に差出すべし。会社は移民の帰航船賃及第十六条の行為(「逃亡」あるいは「同盟罷業」による労働拒否)ある場合に於ける保証金として之を墨国帝国官庁の指定する銀行に預け入れ、該銀行の預金利子[年二歩を下らざる利子]を併せ、第十七条の規定(契約期間満了後ただちに預金を払い戻す)り之が払戻を為すものとす。但、会社は其出入計算は在墨国帝国領事及本社所在の管轄官庁へ報告すべし。

 第六条 契約年限は移民就労の日より起算し満二ケ年とす。

 第七条 移民は旅券及医師の健康証を会社に提出し、会社は契約満了後ただちに之を移民に返付するものとす。

 第八条 移民の雇主より得べき賃金は、男一日墨貨一ペソ五十センタボス(約一円三十銭)、女同八十センタボス(約七十銭)とし、毎月末、又は雇主の定むる賃金支払日に於て現に労働したる日数に照し、之を計算して支払ふものとす。

 第九条 十時間を以て一日の労働時間とす(耕地での農作業の場合は十時間、製糖工場では十二時間)。雇主及労働者両者の都合に依り協議の上、双方の便利と認めたるときは労働に請負の方法を以てすることあるべし。

 第十ー十五条 (略)

 第*条 会社と雇主との契約に依り、移民就労後漸次に雇主より会社に対し支払わるき米国金貨六十ドルは総て移民の取得となすべし。然れども、会社は雇主に対し、移民の逃亡其他不当の行為に付、損害を支払ふ可き責任あるを以て、其賠償につる為め前記雇主より漸次領収す可き米国金貨六十ドルは領収毎に保証金として之を会社に預り置き、会社は右に対し預り証を移民に交付し、該金額は之を確実なる銀行に預け入れ相当の利子を付し、第二十一条(保証金は移民契約期限満了の後は直に其元利金悉皆を移民に払戻し帰国旅費に充てしむべし)の規定に依り之が払戻を為すものとす。但し、其出入計算は在メキシコ帝国総領事館及本社所在の管轄官庁へ報告すべし。(この項は一九〇四年の契約書に明記されていたもの)

 第十六条 移民逃亡し若くは同盟罷業を為し若くは理由なくして労働を拒みたる時は第五条に規定したる預金を没収して会社の蒙りたる損害賠償に充て、尚不足あれば移民又は其保証人は連帯して弁償の責に任ず。

 第十七条 第五条に規定せる預金は移民契約期限満了の後はただちに其元利金悉皆を移民に払戻し帰国旅費に充てしむべし。

 第十八条 (略)

 第十九条 移民二十五人内外の団体を監督する為雇主より組長に指名せらるゝときは一日墨貨一ペソ八十センタボス(約一円六十銭)より少なからざる給料を得、組下労働者の労働に対し責任を有し、同時に他の労働者と同じく規定の労働時間労働に従事すべきものとす。

 第二十ー二十一条 (略)

 第二十二条 移民は雇主より家屋[器具を除く]を備へ必要なる燃料及水を無代価にて給与せられ、沐浴所及食物を準備するに必要なる設備其他病人に対する医薬は無料にて給与せらるべし。

 第二十三条 (略)

 第二十四条 労働者の数五百人を超過するときは雇主は相当の病院を設置し医士(師)及看護人の設備をなすべし。看護人は労働者中より医師之を採用す。看護人の給料は労働者の正当賃金より下らざるものとす。

 第二十五条 (略)

 第二十六条 雇主は自己の耕地内に糧食品及日用品の店舗を設け、其売価は最近市場の市価を基礎として計算したる相当の価格を以て移民の需めに応ずること。

 第二十七ー二十九条 (略)

 右契約は双方の合意を以て締結す。よつて後日の為証書二通を作製し各自記名調印の上、各一通を所持するものとす。

 まず、移民たちの旅券を契約満了時まで取り上げておくという第七条は逃亡防止のためであり、続く第八条は賃金について述べられたもので、それが規定通りに支払われたかどうかは別としても、もっとも移民たちが問題としたのは第二十六条だった。耕地内での専用の売店の物価のことを述べたもので、これを見る限りでは、あたかも移民たちの利便のために設けられていたかのように見えるが、その実、移民の稼ぎをふたたび雇主の手中に回収するためのものといってもいい。遠く市街から離れた耕地にはほかに店舗もなく、さして豊富でもない物品の多くは市価に比べて格段に高価だったが、地理に不慣れなうえに、時間に余裕のなかった移民たちにはそれを利用するしかなかった。毎日の食料や日用品は付けで買えたが、毎月末に賃金から差し引かれたあとにはいくらも残らなかったという。

 第十六条は、逃亡とストライキに対する罰則の条項で、大陸殖民と雇主との契約のなかでもかなりの部分を占めているのは次に述べるように雇主と移民との間にさまざまなトラブルが絶えなかったからだった。逃亡やストを行なった場合は「預金」を没収し、会社の損害賠償にあてるというのは、移民供給数が契約数に満たなかったときは大陸殖民は雇主に仲介料の残金を返済しなければならなかったからで、過剰輸送はそのための対策の一つでもあった。

 そして、第二十二、二十四条は移民にとってはもっとも関心のある、耕地内での生活環境についてのものだが、これもほとんど空文句に近いものだった。移民たちは耕地に着いたものの、そこには住居も何もなく、食事をするにも炊事道具はもちろん食器さえもなかった。さらに驚かされたのは先に述べた耕地内の専用店舗での異常な価格だった。こうしたことがかれらに不安をつのらせることになった。

最初の「暴動」

 最初に行動を起こしたのは福岡県出身者を中心とした十数人だった。契約内容と現実の違いに驚いたかれらは、一週間とたたない一九〇六年十二月十三日に、契約内容の実行を求めた「請願書」を認め、耕地支配人に手渡すよう大陸殖民代理人に求めた。要求は三点だった。

 一、契約年限の短縮

 二、賃金の増額あるいは「店舗」物価の一般市価水準への引き下げ

 三、生活設備の改善

「契約年限の短縮」というのは現地の気候条件の厳しさから契約の二年を短縮しようとしたのだろう。先に耕地内設備のよさを述べたが、それはセントラルとしての設備であって、製糖工場に供給する砂糖黍を栽培する農場労働者としてのキャンプとなれば話は別だった。キューバでもそうだが、工業労働者としての製糖工場労働者と農業労働者としての砂糖黍農場労働者との労働環境は対照的といっていいほどちがっていた。実際には、契約に示された「家屋」や「沐浴所及食物を準備するに必要なる設備」もなく、炊事道具はもちろん食器さえなかったという。稼ぎを二の次に、まず身を横たえる小屋作りからはじめなければならなかった。その結果としての「生活設備改善」の要求だった。だが、一番問題だったのは、要求の第二としてあげている耕地内に設けられた雇主経営の「店舗」の商品価格が一般市価よりもかなり高額なことだった。「物価は異常に高価にして其位にては到底故国に送金することはあたはざるは勿論、故郷に通信せしにもよしなきが如き、実に言ふに不堪たえざる」と、一人は記している。

 これに対し、大陸殖民代理人は要求を耕地支配人に伝えたうえで月末までに改善を図ると口約するが、逆に「請願書」の中心メンバーを拘禁したため、それを救出しようとした移民たちと代理人、支配人との間に傷害を含んだ衝突が起きている。「オアハケニャ暴動」と呼ばれている事件だった。

 当時、大陸殖民との間の契約にもあったように移民は二十五人ごとに組を編成して働いていた。労働監督上都合がよかったからで、のちに、契約期間を終えた残留者たちが「組合」と呼ばれるものをつくったときもこの単位をもとにしていた。事件にはこの四つの単位が加わり、百人前後がストライキに入ったが、ミナティトランから軍隊を導入した雇主側によって九十三人が拘禁され、そのうち、野瀬俊太郎、法月毎蔵、柳儀平、古賀久五郎、四ケ形亀太郎、平田源造、土井熊太郎、橋本喜太郎、鎌倉庄三助、波佐間磯次郎の十人がミナティトランのカジカク監獄に拘束され、雇主側からの賠償金請求となって終わった。法月(静岡)、鎌倉(宮城)以外、すべて福岡県の人だった。

 こうした契約と現地状況との食い違いによって何人の移民が耕地を去ったか、実数は知れないが、当然のことながら、かれらは「逃亡」として扱われることになった。

 ところが、この「逃亡」にも一つの裏があった。一九〇八年五月五日付で、当時、オアハケニャにいた第八、九回移民のうち九十四人による「請願書」が在メキシコ特命全権大使荒川巳次宛に提出されている。かれらは入耕以来、大陸殖民の現地出張所(代理人)を通じて郷里に送金を続けてきたが、一九〇七年七月以降の分がまったく郷里に届いていないというのだった。九十四人の不着送金額は九百五十四六ドル(約二万円)だった。ところが、不思議なことに、かれらのほとんどが大陸殖民によって一九〇七年七月前後に「逃亡」として処理されていた。そうすることで、送金と積立金を着服、流用し、さらに、郷里ではかれらの保証人に、「逃亡」の損害賠償を請求するという二重の荒稼ぎをしていたのだった。

 この「逃亡」の実際について、福岡県八女郡大渕村からオアハケニャに入った内藤庄五郎が福岡県知事に宛てた「請願書」の全文を掲げておこう。大陸殖民第十回移民の一人で、「請願書」の日付は一九〇八年五月七日となっている。

「東京大陸殖民合資会社の取扱に依る第九回移民福岡県八女郡大渕村大字北大渕八千三百七拾八番地内藤庄五郎謹て閣下に請願仕候。庄五郎は愚妻併愚息を従へ父子三名にて昨年四月故郷を出発し、当墨西哥国ベラクルーズ州オハケンヤ耕地へ昨年六月四日来着仕候者に有之。爾来今日に到る迄正実に契約の義務を守り労働罷在候。其間粒々辛苦寒熱を冒し風雨をまどはず日々僅かに餘す処の金員ようやく墨貨参百五拾八弗五拾仙を国に遺せる家族のもと(受取人は同村愚兄月足金五郎に有之候)送付方大陸殖民会社当地出張事務所へ委託仕候。其送付の委託は都合四回に分ち、即ち第一回は昨年九月六日墨貨六拾弐弗五拾仙、第二回は同十月七日墨貨拾六弗、第三回は同十一月五日墨貨百七拾弗、第四回は本年一月十四日墨貨百拾弗に有之候。然るに未だ着金の報知一回も着せず、余り延引致候間、庄五郎は再三再四当地大陸会社の事務所へ掛合談判をなしたるも該事務所は確かに当国首府のメキシコにある同会社出張所へ送付したる旨答へられ、其メキシコの出張所よりの答弁がはなはだ曖昧にして要領を得ず今日に及び申候。右会社よりの答弁の概要は即ち下の如くに有之候。曰く、目下業務代理人村上氏帰朝中なれば暫時待つべし、其内送金の報あるべしと。又頃日の答弁に曰く、東京の本社は本年三月十日発の電報を以て移民の送金は夫々各自の受取人へ送達を了せりと。又曰く、本年三月三十日付を以て移民の送金は夫々送付済に付、此報の達するときは各自移民送金者側の実家より同様受取済の通知来るべし。然れども其日付后故郷発の紙面を見るも着金のこと更に無之候。顧みれば送金の初回即ち昨年九月以降九ケ月間の長き日数を費し荏苒今日に及び申候。如何に庄五郎愚なりと雖もまことに怪訝の至り堪へざる処に有之。啻に庄五郎一個のみならず当オハケンヤ耕地にある百余名の日本移民送金者一同も昨年七月以降未だ一人も着金の報に接したるもの無之候。昨年七月以前の送金の分は早きは五十日、如何に遅きも百日以内に着金せしと聞及申候。之れが為め遂に送金者一同は止むを得ず当国駐箚の大日本公使館之許へ訴へ調査方出願致置候。日墨両国の間普通の信書の如きは六十日以内を以て往復し得べきが故に庄五郎より家族に対し送金の通知を発し爾来九ケ月后の今日未だ一回も着金せざるが為め遂に虚偽空言の如く見做され、親籍朋友を初め家族親子の間信を失ふに至る嘆すべき事に有之候。庄五郎は渡航の際、大陸会社福岡出張所より一時借入金をなし、漸く渡航費を作り老母及び幼児を遺し当分のしのぎを付け、渡航后必至労働勤勉し貨金を貯へ故郷に遺せる家族の生計を初め右借入金の償却に充てん考を以て数回に分ち送金致たる次第に有之候。然るに送金の到達せざるが故に遂に会社より訴訟せらるゝに至り、或は差押へとなり執行となり非常の経費と利息を要し、保証人等には大に迷惑を掛け言語同断の始末に相成申候。右送金にして間違なく予定の通り家族に到達したらんには如何に困難も蒙らず迷惑にも立到らざるべく相考へ候。老幼の家族惨憺の状を聞き轉た痛心の極みに有之候。於是乎庄五郎等は会社のみに信頼し何時迄も放任するに忍びず公使館に訴ふると同時にここに閣下の明断を仰ぎ度候間、何卒庄五郎の窮情を察せられ格別の御詮議を以て大陸会社の処置に対し御調査方御取計被成下候はば独り庄五郎一個の幸福のみならず福岡県移民一同の大に喜びを共にする処に有之候。移民の身を以て尊威を汚すの恐れありと雖も事情を具し請願仕候。恐惶謹言」

 この請願にも示されているように、同様に一九〇七年七月以降の送金がまったく郷里に届いていないのだった。それ以前にかれらを「逃亡」として処理していたからだった。オアハケニャ移民について、耕地到着早々の逃亡が多かったことを指摘する報告、また、その半数が逃亡したとする史料も多いが、先のように入耕以前の段階で一方的に解約された者も多く、また、入耕以後の「逃亡」には、こうした大陸殖民による、「作られた逃亡」が少なくなかった。両者を合わせれば優に移民総数の半数近くになるのではないか。

オアハケニャその後

 オアハケニャ移民のその後はどうだったか。たしかに逃亡した者も多かっただろう。契約年限は二年だったが、どれほどの期間にわたって就労を続けたのか、さまざまだが、短い者では数カ月、あるいは長くとも一、二年で耕地を出た者が多かった。もちろん、北の国境に向かった者もいただろう。しかし、全体としてのそれはごくわずかで、多くはオアハケニャ周辺のサンタ・ルクレシアやミナティトラン、コアツァコアルコス、コルドバ、ベラクルスなどに出て商売をはじめたり、あるいは当時盛んになりはじめていた石油精製工場、たとえば、イギリス資本のロイヤル・ダッチ・シェルの経営していたアギラ石油精製工場に労働者として入ってもいる。

 一方、そのままオアハケニャで働き続けた者も少なくなかった。ただ、大陸殖民との契約を満了した者は一人としていない。満了期日以前に大陸殖民の方が「解散」してしまったからだった。その時点での残留者は百人に満たなかったのではないか。ただ、それは砂糖耕地労働者としてではなく、先に述べたように、大陸殖民は現地での労働単位として、通称、二十五人組を組織していたが、それを基本に「組合」を結成した者、また、セントラルとしてのタバスコ・ランド・エンド・ディベロップメント・カンパニーの製糖工場で働いた者や、支配人邸にハルディネロとして入った者もいた。

 二十五人組から発展した「組合」と呼ばれたものはいくつあったのだろうか。なかにはそれぞれが組合員として出資しあって土地を購入し、独自に農産物を生産し、ミナティトランやコアツァコアルコスの市場に出荷するという独立農場もあったようだが、多くはタバスコ・ランド・エンド・ディベロップメント・カンパニーから土地を提供されたうえで「請負」という形で荒地を開発し、農場経営をはじめたと思う。そんな一つを組織した小川富一郎の場合、請負耕作からはじめ、のちには米作にも挑戦している。三年あるいは五年間耕作を続ければ、請負った土地はかれらのものになるという条件だった。

 オアハケニャにペルーから日本人移民が呼び寄せられたのはそうしたなかでのことだった。一九〇七年の紳士協約以後、日本からメキシコへの直接渡航は途絶えていたが、そのため労働力不足にあったオアハケニャでは残留日本人の仲介で日本人移民の導入を図ったのだった。小川は四歳上の小島正三郎とともに一九一一年十一月十八日、メキシコの日本公使館にペルー視察という名目で渡航を申請、ペルーに渡って日本人移民のなかから転労者を募り、応じた二十五人が翌年一月二十五日にオアハケニャに入っている。

 では、かれらの転労の条件とはどのようなものであったのか。のちに、その一人が語っている(「墨国ヴェラクルス州オハケニヤ耕地移民状態視察報告」)。それによれば、オアハケニャでの予告された賃金は一日一・五ペソ、ペルーからオアハケニャまでの旅費は自己負担だったが、三年間就労を続ければそれは返されるという小川の口約束があったという。しかし、ペルーでの日給一・二ペソとの差額はわずかに〇・三ペソで、旅費分を埋め合わせるだけでも少なくみても八カ月はかかる賃金だった。それでも、あえて転労に応じたのは、ペルーでの困窮を越える地はほかにないと思ったからだろう。また、行く先がアメリカにもっとも近い地続きのメキシコだったからだろう。

 もう一つ、そうしたオアハケニャ残留組の日本人がはじめた農場にオハパ耕地があった。テワンテペク地峡北部、オアハケニャの北方約五十キロの、アシエンダ・コレアとも呼ばれた二百八十ヘクタールの、四方まっすぐな直線によって区切られた広大な農場だった。地味は肥沃で農耕に最適で、また、すぐ横をコレア川が流れていたから潅漑や排水の便もよく、米作にはうってつけの土地だった。さらに、近くを走るテワンテペク鉄道を利用すればコアツァコアルコスの市場にも簡単に出荷できた。

 一九一二年に同地を訪れた外務書記生荒井金太の報告「墨国ヴェラクルス州オハパ日本人耕地視察報告」によれば、一九一一年二月十一日、一町歩十三円の割で約三千七百円で購入。ただ、二十五人組の出資総額九千六百十七円十八銭については規定の手続きを踏んだものではなく、ただの口約束だけのもので、組合長長野三次郎名義で組織した協同組合も具体的なものではなかったらしい。

 開拓はまず森林の伐採からはじめ、そのあとに玉蜀黍、米、芋、豆、その他の野菜を栽培した。収穫は上々で、なかでも玉蜀黍はコアツァコアルコスの市場で評判になったため、販売店を設けて二人の組合員を常駐させていたという。そして、この販売店で一九一二年一月から三月にかけて約千円の純益を上げる成功ぶりだった。玉蜀黍の収穫は年二回、雨期には三カ月半、乾期では四カ月半で成熟し、米にいたっては一町歩あたり二十五石から三十石の収穫があったという。

 このオハパ農場がどれほど続いたのか。一九一五年前後からはベラクルス州でも革命の動乱が激しくなったため落ち着いた営農もできなくなっていたにちがいない。瀧の大著『大宝庫メキシコ』によれば、長野がそこで共同経営を続けたのは約三年、その後は十分な収穫が望めなくなったため、付近で農場を手に入れ独立したという。ほかの仲間たちもオハパを離れたのだろうか。長野は独立したもののゲリラの襲撃が続いて農場経営を断念、テワッテペック鉄道のオハパ駅近くに出て商店経営をはじめたが、それもゲリラの襲撃のために失敗。すべてを整理して南のチアパス州ウエタンに引き揚げたあと、さらに数年後にタパチュラに移っている。

 一方、タバスコ・ランド・エンド・ディベロップメント・カンパニーも一九一五年にその製糖工場を閉鎖。オアハケニャも荒れるままにもとの原野に姿を変えていった。三〇年に同地を訪れた在メキシコ日本公使館員大谷弥七の報告によれば、「本耕地も数次の革命の為荒廃に帰し製糖工場の如きも閉鎖のままとなり、今はかつて同地支配人の給仕たりし朝鮮人某が同耕地の監督の任にあたる」という情況で、付近に残留していた日本人移民は十三家族五十人。岡村謙一(広島)、上原満茶(沖縄)、島袋武雄(沖縄)、山入端嘉多(沖縄)、羽野市右衛門(福岡)、両角三吉(長野)、新垣次郎(沖縄)、玉那覇牛(沖縄)、久保田蒲戸(沖縄)、大島貞喜(熊本)、白石仁八(熊本)、池上才八(山口)、横田晋太郎(香川)など、横田を除いてはいずれも大陸殖民による移民だった。うち、第八回移民が一人、第九回移民が五人、第十回移民が六人。また、六人はコリマ鉄道移民として契約していたが就労前にオアハケニャ移民として契約変更している。職業別にみれば農業五人、農業労働者三人、雑貨店経営二人、食料品製造、牧畜業、工場労働者それぞれ一人となっていたが、以前は盛んだったサンタ・ルクレシアやコアツァコアルコスとの定期船もすでになく、ほとんど孤立した状態で自給自足の暮らしをしていたという。

コリマ移民

 次に大陸殖民によって送り込まれたのはコリマ鉄道の建設工事への移民だった。コリマ鉄道はメキシコを南北に縦貫して走るセントラル鉄道の支線の一つで、ハリスコ州グァダラハラとコリマ州マンサニージョとを結んでいる。現在では一日上下一本ずつのダイヤしかない地方鉄道だが、かつてはサリナ・クルスに次ぐ太平洋岸第二の港湾都市としてのマンサニージョとグァダラハラ、メキシコ・シティを結ぶメキシコの経済動脈の一つだった。

 日本人移民が入ったのはその一部、コリマとその北のツスパン間約六十八キロの工区で、マンサニージョとコリマ間はすでに一九〇六年以前に完成していた。建設を請け負っていたのはアメリカのハンプソン・エンド・スミス・カンパニーで、ほかにもメキシコの各地の鉄道建設を手がけて、カリフォルニアでの排斥に追われた中国人移民も大量に送り込んでいた。

 大陸殖民と同社と間で移民供給契約が結ばれたのは一九〇六年七月十一日で、直接それにあたったのは先の村上だった。まず、その主な内容を見ておこう。

 第一条 会社は当日付後四ケ月以内に墨西哥太平洋岸の一港マンサニーヨ港に三千名の健全なる男労働者を供給し、雇主は茲に前記労働者を鉄道工事に使用し且つ就労に必要なる器具を供給することを約す。

 第二条 労働者は年齢十八歳以上四十歳以下とし心身共に健全にして労働に経験を有するものたるべし。

 第三条 契約期限は二ケ年とす。但し労働者が実際労働を開始せし日より起算するものとす。

 第四条 雇主は一人一日墨貨一弗五十仙の賃金を支払ふべし。其支払は毎月末又は雇主所定の支払日に実際就労時日の割合に於て為さるゝものとす。労働時間は一日十時間とす。契約者相方協議の上、請負仕事を為さしむることあるべし。必要なる場合には雇主は規定の十時間外に労働を為さしむべし。此場合に於ける賃金は普通賃金の五割増しの割合をもって支払はるべし。(略)

 第五条 雇主は労働者一人一日二十仙づつを保留し、氏名、金額を記載して毎月之を会社に送付すべし。移民の帰国旅費として移民の名義にて預金となし契約終了の際移民に還付すべし。

 第六条 移民疾病に罹りたるときは自己の所得金中より食費、其他の必需品を支弁するものとす、但し必要の場合には普通賃金の三分の一を超過せざる範囲内に於て前金を支払ふべし、此金額は労働賃金中より引去るものとす。移民若し之を支払ふこと能はざる時は第五条規定の金額中より引去るものとす。

 第七ー九条 (略)

 第十条 相方便利の為め労働者二十五人、若くは二十五人内外を以て一労働団体を組織し、各団体を適当に監督する為め雇主は該団体中より日本人組長一人を採用す。組長は毎月墨貨一弗八十五仙を下らざる給料を受け其指揮下に労働を忠実に為さしむるものとす。

 第十一条 雇主は雇主及労働者間の通訳を無さしむる為め日本人通訳一人を採用す。該通訳者は一日墨貨二弗五十仙を下らざる給料を受け、寝室、寝台、机及椅子を給与せらるべし。

 第十二条 二十五人もしくは二十五人内外の各団体に付、該団体の食事を調理する為めに内一人に充分なる時間を与ふべし。此時間は労働時間中に併入せらるべきものとす。

 第十三条 雇主は家具を備へざる居宅、家内用水、水浴場及掃除設備併に食物調理の設備、疾病の際医薬を無料にて移民に支給すべし。該地域に於て燃料の採集を得べき場合には移民は自己の使用の為め之を採用することを得、若し燃料を採取することあたはざる時は無料にて之を支給するものとす。

 第十四条 (略)

 第十五条 雇主は移民の数五百人若くは其以上に達する場合には適当なる病院を設立し医師其必要認めたる時は看護人を付すべし。医師は労働者中より該看護人を選択すべし。各看護人は労働者が受くる普通賃金を下らざる日給を得べし。

 第十六条 上陸港より就業地に到る移民運搬費用は雇主の負担とす。又移民の携帯品各一人に付二十五キログラムを超過せざるものは無料にて運搬さるべし。移民の要求する場合には雇主は該労働者が就業地に到着後三日間は移民に食物を供給すべし。右食料は一食墨貨拾仙とし賃金中より之を引去るものとす。

 第十七ー二十条 (略)

 会社とは大陸殖民で、雇主とはハンプソン・エンド・スミス・カンパニーのことだが、もちろんこれは移民との契約ではないから「逃亡」に対する保証金の条項はみられないが、移民との契約の第十六条には「逃亡」やストの際には第五条で規定された移民の預金を没収し、それでも不足の場合は保証人から取り立てることを明記しており、全体としてはオアハケニャのそれとほとんど内容も同じだった。

 ただ、ここで注目しておきたいのは供給数で、契約上は三千人となっているが、それは「逃亡」を見込んだうえでの予備を含めたもので、実際に雇主側が必要としていたのは千人あまりだった。それは契約成立一カ月後に行なわれた募集の数によってもわかる。

 広島県五百人、福岡県三百人、熊本県二百人、岡山県、山口県各百人、福井県、滋賀県各五十人、石川県、愛媛県、高知県、徳島県、香川県各二十人の計千四百人となっている。ほかの地域へは大量の移民を出している和歌山、三重といったところは見あたらないが、これによって当時、移民県とされていたほとんどの府県は網羅されていた。そして、残余の千六百人の募集地は未定となっていた。

 ただ、これは募集予定地であり、実際に行なわれた府県とは異なるが、ともかくこうして移民が集められ、一部は第八回移民として一九〇六年十月二十五日、神戸港を出発。総数千二百五十四人、うち五百四十七人がコリマ移民だった。そして、二回目は第九回移民として一九〇六年十二月十日、横浜港を出発、総数千三百四十五人のうち千百十人がコリマ移民となっていた。

笠を被り徹宵せる

 第八回移民の五百四十七人はそのままコリマ鉄道建設現場に入ったとみていいだろう。だが、それから一カ月余りののちに第九回移民として千百十人が出発したのだった。たちまち五百人前後が過剰になることは目に見えていた。そのため、第一寄港地だったサリナ・クルスでまずオアハケニャへの転労が検討された。しかし、オアハケニャにもそれほどの余地はなく、ほとんどがマンサニージョに上陸、その際に「解約」として解約金をとられたうえ、一方的に契約を解除され、「逃亡」として処理されている。大陸殖民の記録では、コリマ移民の「逃亡」の多さが強調され、また、「逃亡」を謳った史料も多いが、それはこうした過剰輸送の結果だった。ではその労働情況はどうだったのか。移民の一人の証言に見てみよう。

 一人あたり「十二箱」の岩を掘削し、「凡そ三百間余の処まで」運搬する。これが一日のタレア(雇主から決められた労働量)で、これに一箱でも不足したときは、その日の賃金から四分の一を差し引かれた。また、朝は五時から工事にかかり、契約には一日十時間の労働と明記されていたにもかかわらず、この間に一日のタレアをこなすことはとても困難で、日没にかかることも多く、ことに掘削の難しい硬い岩盤の工区にあたったときは日没を過ぎてもタレアをこなせず、働けば働くほど賃金が差し引かれるばかりだったという。

 一方、キャンプでの生活はというと、荒川己次の「墨国移民地調査報告」(「第一回移民調査報告」)は次のように報告している。

「ツスパン、コリマ間には鉄道工夫隊キャンプの数約三十あり。各キャンプには工夫数十名、多きところには百五十もあり、日本人は目下第三号キャンプに五十二人、第九号キャンプに二十七名、第七号半に四十五人、総計百二十四人を剰すのみ。(略)キャンプは仮設のものにして、各キャンプ所属の区域に於ける工事落成次第之を引上げ他に移転するを以て諸般の設備も不便を極め、就中其住居の設備に至りては殆ど言語同断なり。移民会社契約書には移民に家具を備付けざる住家を給することゝなり居るも、其所謂家屋なるものは単に竹頭木片を以て造り、藁を以て屋根を蔽ひたる高さ三メートル余、幅二メートル、長さ六メートルの小舎に過ぎず、其の小舎の前後に入口を設くるの外窓なきが故に室内は昼尚薄暗く、而して固より床あるなく、移民は唯一枚のアンペラを供せられ、之を室内に敷き僅に座臥の場所となすが故に地上に起臥するとほとんど異なることなく、乾燥期には之を忍ぶべしとするも、雨期には舎外泥土となり雨水浸潤して室内に入るが故に、或る小舎の如きは移民自ら舎壁を環りて小渠こみぞを造り、僅かに降雨の室内に流入するを防ぎしものもありと雖も降雨甚しきときは雨は藁屋根を漏りて点滴室内に遍く、第九号キャンプの如きは移民はこの点滴の為めに夜中眠に就くあたはず、笠をかぶり蟠居して僅に徹宵せることもありたり。而してかかる小舎に大抵十人より多きは二十人を容るゝが故に、一見して豚小舎に劣るの感を為す。住居の不都合如斯なるが故に、移民中下痢症に罹るもの多く、而して病院の設備亦不完全、殊に六十八キロメートルの距離の中間、第三号キャンプに唯一の病院と名づくるものあり、愛蘭アイルランド人の如何はしき医師一人に本邦人の助手一名あるのみなるを以て、単に第三号キャンプのみの病人をも収容する能はず」

 こうしたなかで命を落とした者も少なくなかっただろう。だが、生き残った者にもまた苦難の道が待っていた。第九回移民が入ってのち、四カ月もたたない一九〇七年五月には工事もほぼ完成し、契約期間の六分の一足らずで解雇されてしまう。そして、一部はふたたび大陸殖民の手によって北部ソノラ州の金鉱山ブラック・マウンテンに送られることになったのだった。

 さらに、その後、第十回移民の一部として九百十一人が一九〇七年四月二十六日に横浜を出発、五月下旬にはサリナ・クルス着いているが、コリマ鉄道建設終了後に就労地があろうはずもない。先にみたオアハケニャ残留者のように、渡航者名簿上はコリマ移民となっている者が南部各地に多いのはこうした背景があった。

ブラック・マウンテン

 ブラック・マウンテン鉱山はソノラ州マグダレナ東方約五十キロ、カナネアからもそれほど遠くない。エルモシーヨを通りカリフォルニア湾に流れるソノラ川の最上流で、隣のチワワ州と比較すればいくらか降雨も多いからか、付近にはアメリカ人所有の農場も多く、鉱業だけでなく、ソノラ有数の農業地帯でもあった。

 所有していたのはブラック・マウンテン・マイニング・カンパニーで、もちろんアメリカ資本だった。一九〇三年に資本金二百五十万ドルで創業、株の大半はユナイテッド・スチールが所有し、サウス・パシフィック鉄道なども経営に参加していた。

 労働者は一九〇六年前半の時点で約二百五十人、ほとんどがメキシコ人で、一日の生産規模は五百トン前後だった。規模はそれほどでもなかったが、労働条件に関してはソノラ州の鉱山のなかではもっとも条件がよかったという。

 大陸殖民との仮契約は一九〇六年六月二十五日に結ばれているが、正式に締結されたのは暮れに近いころか、あるいは翌年だろう。支配人N・C・バンクスとの間に結ばれたという六月二十五日付の仮契約書には日本人鉱夫七十人と一般労働者三十人の計百人を供給することが記されているが、供給期限は明記されていない。日本からの直接募集供給ではなく、コリマ鉄道への過剰移民の転労地としてしか考えていなかったからだった。では、どのような条件だったのか、仮契約書に見ておこう。

 まず、契約期間は二年。一日の労働時間は十時間で、採掘賃金は一フィート〇・二五ペソから〇・四ペソ。ただ、実際の賃金はタレア制だった。採掘量は一日十フィートは確保できるとして、平均賃金二・五ペソ、「壮健」者なら四ドルを稼ぐことも難くないとしている。また、一般労働者はおもに鉱石を運搬するのが仕事で、この場合でも一日二・二五ペソは下らないというものだった。ほかの条件としては、総額百二十ペソに達するまで毎日〇・二ペソずつを差し引き、逃亡の際の保証金あるいは帰国費にあてること、また、病院治療費として毎月十五ペソが差し引かれることが記されているが、いずれもメキシカン・コール・エンド・コークス・カンパニーやモクテスマ・カパー・カンパニーなどと同じである。

 住居については、一戸一室のものと二室のものがあり、それぞれ五人、十二人ずつの収容で、家具はなかったが家賃は無料だった。

 一方、実際の労働はオアハケニャやコリマ鉄道の場合と同じで、やはり二十五人一組で行なわれ、組長の日給は三・五ペソ以上、また、一人を炊事係としてその日給は十五ペソ、そして、百ペソ以上の月給で日本人通訳をつけることになっていた。ただ、注目したいのはこの通訳で、オアハケニャやコリマの場合もそうだったが、通訳とは多くの場合、大陸殖民が一種の現地代理人として派遣していた監督だったことである。ために、さまざま特別な待遇が保障されていた。移民がまず対立したのはこの通訳で、ブラック・マウンテン・マイニング・カンパニーとの場合、机、椅子、ベッドや洗面所の設備のある特別の一室を与えられることが記されていた。また、生活条件として、物価はラス・エスペランサスなどとほとんど変わらなかったが、鶴嘴つるはしやシャベルなど坑内道具はすべて雇主側から与えられることになっていた。

 実際、このブラック・マウンテンに何人の日本人移民が入ったのか、また、コリマからの契約更改転労者は何人いたのかは、もちろん明らかでない。しかし、少なくみても三百人は下らなかっただろう。

最初のエスペランサス移民

 メキシコへの日本人炭鉱移民はラス・エスペランサスへのものが最初であったろう。コアウィラ州北西部、現在のピエドラス・ネグラスから南東約百四十キロ。すでに述べたようにアメリカのメキシカン・コール・エンド・コークス・カンパニーが開発した鉱山だった。ディアス時代の外国資本導入政策によって大量の資本投下のもとに開かれたもので、当時、アメリカ資本によって半独占的に採掘されたメキシコの北部鉱山には良鉱が多かったが、なかでもラス・エスペランサスはその代表ともいえるもので、鉱脈も比較的浅く、三メートル前後に及ぶ鉱脈が十数キロにわたり、何本も続いていたという。

 同社は資本金一千万ドルで一八九九年にニューヨークで創業。ラス・エスペランサスは総支配人としてエドウィン・ラッドローがすべてを取り仕切っていた。規模は創業当初でも七、八坑あったが、一九〇六年には近隣のコアウィラ、フエンテ両鉱山も併合し、採炭量は一カ月八万トンにのぼり、直接契約下にあった労働者も含めた人口は一万二千人にふくれあがっていた。坑数は本部のあったラス・エスペランサスに三本、コヨテに四本、コンキスタに二本、また、コークス高炉はコンキスタとの間に約五百あり、生産量は一カ月平均一万トンに達していた。

 一方、生活環境としては、公園、劇場、闘牛場のほか、教会、学校、病院、ホテル、郵便局、電報局など、ロシータ、サビナスとは比較にならないほど充実していた。また、当時、ラス・エスペランサスの中心にはテアトロ・ファレスという劇場があり、現在も労働組合の集会場として使われているが、これは一九〇五年に日本人移民が中心となって建設したものだった。

 このラス・エスペランサスに日本人移民を最初に導入したのは、アメリカのユタ州ソルト・レイクにいた橋本大五郎(和歌山県西牟婁郡串本町出身)だった。一九〇〇年にソルト・レイク近在の日本人移民二十人を集めていっしょに入っている。メキシカン・コール・エンド・コークス・カンパニーの資本下にあったメキシコ・インターナショナル鉄道はアメリカのサウス・パシフィック鉄道が所有していて、以前から橋本はそこに大量の日本人移民を仲介していた。ほとんどがアメリカでの鉄道建設に従事していた者だった。

 その後、橋本はさらに炭鉱側と交渉、日本からの直接導入を計画している。おそらく日本での募集をしようとしたのだろうが、外務省の認可が下りなかった。そのため、権利義務を山口熊野ゆやの熊本移民合資に譲渡し、その現地代理人になった。ただ、現地にはほとんど足をとどめていない。

 そうして熊本移民合資は、は和歌山、三重の二県で百人の募集を行ない、八十二人を一九〇一年十一月に送出している。その「土地情況書」によれば、横浜を出航したあと、サンフランシスコからサウス・パシフィック鉄道でテキサス州を経てピエドラス・ネグラスからエスペランサスに入っている。費用は六十一ドル前後だっただろうか、海路十七日、鉄路二日半の行程だった。

 契約期間は三年、日給は一日平均四・五トンを採掘した場合二ペソ四十七センタボスから二ペソ七十センタボス、これで一カ月二十五日間労働すれば六十一ペソ八十七センタボスから六十七ペソ五十センタボスになり、一方、一カ月の食費、家賃、諸道具費、雑費を合算しても二十五ペソ前後だからかなり余裕のある生活ができるというものだった。しかし、現実はどうだったのか。まず、そのときの契約書を見ておこう。

 〈契約書〉

 移民〇〇〇〇(以下移民と称す)は墨西哥国に赴き炭鉱坑夫として労働契約に依り就業するの目的を以て該国に渡航するが為め左記二名を保証人と立て移民取扱人熊本移民合資会社(以下会社と称す)に其周旋を申込み会社は其申込みに応じ相互の間に左の条項を契約す。

 第一条 会社は日本帝国移民保護法の規定に準拠し移民保護法の責務を負ひ渡航に必要なる諸般の手続をなすは勿論、移民渡航地に於て業務代理人橋本大五郎をして左記の周旋をなさしむべし。但し、移民は就業上総て橋本大五郎の指揮命令に従ふ事を承諾するものとす。

 一、炭坑坑夫として労働契約に依り就業せしむる事。但し、労働時間一日十時間、一週六日間とす。

 二、日本移民の為め設備したる住居にして一家二室を有するものは一ケ月 墨国銀貨四弗、同三室を有するものは同八弗以内の家賃を以て貸与せしむる事(一家一室の定住を四人とすれば一人五十仙の割合也)。但し、寝室、食堂及炊事場は無料にて使用せらるべし。

 三、飲料水、浴湯用水及家内用水を自由に供給せしむること。但し、此他の生活費は移民の自弁たるべし。

 四、採掘炭一トンにつき墨国銀貨五拾五仙より六拾仙の賃銭を得せしむる事。

 五、其他契約中は諸般の周旋監督を為す事。

 第二条 契約期限は渡航地に於て雇主と移民と契約締結の日より満三年とす。但し、移民と雇主との協議に依り契約期限を伸長することを得。

 第三条 移民は手数料として金弐拾円を会社に支払ふべし。但し、会社は手数料の内金拾円は渡航前之れを徴収し残金拾円は契約満期後之れを徴収するものとす。夫に伴ふ婦女の手数料は金拾円とし渡航前会社に支払ふべし。携帯児拾五歳迄は無手数料とす。会社は移民と書面契約をなす時渡航前に徴収すべき手数料の内金五円を領置し諸般の手続を経て乗船の節残額五円を受取るものとす。若し正当の理由なくして破約したるものは会社は已につくしたる手数に対し領置したる金額は還付せざるものとす。

 第四条 移民は乗船前の諸費及往復旅費は自弁たるべし。但し、往行旅費に要する金貨七拾弗は会社に於て貸与の周旋をなし就業後其収得すべき賃銭の内より毎月墨国貨拾弗宛十四ケ月間に償却せしむるものとす。

 第五条 移民は労働契約期間其収得すべき賃銭の内より男子は毎月墨貨二ドル宛を積金として会社に預け置き帰国旅費又は不時の費途に充つべき事を承諾するものとす。但し、会社は毎月保管証書を移民に交付するは勿論、該積金は横浜正金銀行桑港支店へ預け入れ満期の節之れを還付すべし(若し利子あれば共に)

 第六条 移民が雇主より領収すべき賃銀は会社代理人に於て移民に代り之れを受取り代理人は移民より支出すべき月賦償却金、積金等を差引き其残額は直ちに移民に払渡すべきものとす。

 第七条 移民は渡航地に於て病院費、通弁人雇入費として毎月収得金の拾分一以内を負担すべきことを承諾するものとす。但し、其費用移民負担額を超過する時は会社の支弁たるべし。移民前項の病院費を負担する上は疾病の場合には無料入院せしむるものとす。

 第八条 移民渡航地に於て疾病に罹り又は労働に堪へざるものあるときは会社は相当の救助をなし、又は状況にり会社の費用を以て帰国の取計をなすべし。但し、自己の怠慢又は不正の行為に原因したるものは会社に於て費用を支出する限りにあらず。

 第九条 移民若し在外帝国官憲の保護を受け又は保護に依り帰国したるときは当該官庁に対し会社は移民に代り其一切の費用を弁償すべし。

 第十条 前二条の場合に於て会社が移民の為めに立替支出したる救助費、帰国費用、其他の費金に付ては相当の理由あるときは移民及び保証人に対し弁償を求むることを得。

 第十一条 移民は契約期限中会社代理人の指揮命令に従はず別に定むる所の移民と雇主との契約を履行せず、又は如何なる事情あるも会社代理人の承諾を経ずして就業地を去りたるものは会社は往行旅費米貨金貨七拾弗及び其他之に依りて蒙りたる損害賠償を移民又は保証人に要求すべし。

 第十二条 保証人は移民の品行方正を保障し其一身上の出来事に関しては其原因の故意、悪意、過失のいずれより生ずるを問はず総て其責を負ふは勿論前各条の場合に於て会社より損害賠償の請求ある時は移民と共に速に償還するの連隊義務を有するものとす。

 第十三条 本件に関する管轄裁判所は東京地方裁判所とす。

 右の条項確守の証としてここに本契約書弐通を作り会社及び移民に於て各壱通を分有するもの也。 

 かなり簡潔なものだが、これまでのいくつかの契約書の内容を漏れなく数えあげている。まず、熊本移民合資による移民とはいうものの、それは募集と送出に関してだけであって、現地炭坑会社との具体的な契約など実質はほとんど橋本の手に任されていたことがうかがえる。

 手数料は二十円、うち十円は契約時に、残りは三年の契約満了時に徴収するとなっているが、契約時の十円というのは熊本移民合資に、残余は橋本の手に入るものだったのか。無理のない手数料の徴収の方法とも受け取れるが、実際にはどうだったのか、契約満了時の十円をあてにしなくとも毎月の給料のなかから積立金としてそれに見合うものを取り立てていたことはいうまでもない。

 渡航費七十ドルはもちろん移民の負担。もしそれを熊本移民合資から借金した場合は毎月十四カ月にわたって給料から十ペソ(一ドル=二ペソ)が差し引かれた。ほかに積立金二ペソ、住居費が〇・五ペソ、病院費が六ペソである。それに対し一日三トンの割で一カ月七十五トンを採炭したとしても収入は四十五ペソ以下になり、手元に残るのはわずかに二十六・五ペソ。さらに食費の方はいくら節約しても十二、三ペソかかり、契約にはいっさい触れられていない坑内道具代や修理費用、燃料費などを差し引けば、ほとんど貯えとしては残らなかったのではないか。渡航費を自前で払い込んでいたとしても残るのはわずかにその十ペソそこそこだった。なのに、たとえば和歌山県での募集に使われた広告では次のように謳われていた。

「一、坑夫一ケ月の賃銭は、当分二三ケ月間は、日本銀貨七、八拾円、追々業務の熟するに従ひ、一ケ月百円以上壱百参四拾円の収得ありとす。一、坑夫一人一ケ月の自費は、食料共、総金拾円までなりとす」

 熟練前の者でも収入は一カ月七、八十円。それに対し出費は十円前後に過ぎないというのだった。これでは、契約違反だと不満が起きるのも当然だった。この広告は熊本移民合資によるものだったのか、あるいは橋本自身が関係していたものだったのか明らかでない。しかし、どちらにしても移民保護法に違反した募集広告だった。もちろん、契約書を見ればその誇大表現に気づくはずなのだが、どうだったのだろう。

裁判仰がん其為に

 熊本移民合資による第一回移民のうち、まず三重県出身者が橋本の責任放棄と契約違反、そして雇主側の虐待を訴えた。

「情況案に記載ある賃表ほどの金設はなく且移民と会社との分有契約に違反したること数ケ条、反して物価高値大凡おおよそ一日の労働賃金五、六十銭より七、八十銭位、食料一日三十八銭位、鉱内の諸費合計すれば移民其日の口過ぎのみなるを以て移民の我等会社の代理人橋本大五郎氏に掛合せんとするも右同人は最初移民を当地へ送り付けたるまま来らず故、移民失望の折柄平山勝熊と云ふ人に再度掛合へども未だ好結果を見ず。今度初めて橋本氏の代人加藤亀之助氏見来候へども同人も種々掛合すれども今度も掛合相付かず。斯の如くにして当地にて何年も働くも一厘も国元へ送金致すこと不能あたわず。我等は漸くにして我身の口過ぎはすれども在故郷の親妻子を養ふこと不能。且斯様なる所に彼等の惨酷なる取扱(彼等とは炭鉱会社を云ふ)悲憤に堪へず。又前記の如く故郷遺族の糊口に困しむを見るに忍びず候故、一度金設ある地に到り労働致すべく候間右様御了承下され度此段御報申上候也」

 岩城九三郎ほか四人による県知事宛の訴状だが、現実は契約条件とは異なり、賃金が少ないうえに物価が高くてやっていけないため、何度も現地代理人に掛け合ったが、橋本はかれらを送り込んだあとは姿を消してしまい、まったく埓があかない、よって、少しでもいい条件のところに移るという。故郷出立のときには一カ月五十ペソは残せると算段していたのだった。

 ところが、炭坑会社はかれらを拘束することで応える。昼夜の別なく銃をもった数人の「番人」をつけてかれらを監視、そのため「実に家屋より一寸も出ること不能」という情況だった。そこで、「今数日経過するときは最早死するより外なし」と窮したかれらはメキシコ・シティの日本公使館に助けを求める「振義団」を結成する。少しオーバーな気もするが、十二項目からなる同団の総則を決め、次のような「門出の唱歌」までもつくっている。

「頃は明治三十五年 春の弥生の青空に 旭輝く日本の 大和男子の移民等は 国土更りし外国の 墨西哥国炭鉱の 鉱主は移民 惨憺至極の扱や 条約違反数々や 果ては死子よの蛮遇は 悲憤慷慨血の涙 耐袋も今は裂け 正義の二字を本となし 救命且つ正当の 裁判仰がん其為に 八十余名の移民等は 死する覚悟の意を決し 公使館に門出する 鳴呼ああ勇しや勇しや 正義団は成立てり 見よや正義の旗風を 見よや男子の魂を」

 一方、あてもないまま、アメリカに逃亡する者もいた。そんな一人、和歌山県東牟婁郡新宮町出身の東徳之助の逃亡行をサンフランシスコの『日米』(一九〇二年八月二八日付)は次のように伝えている。

「徳之助も矢はり米国加州へ行けば面白きことありと聞き国境まで逃げ来ると、相憎あいにく米国移民官に見付けられ一度メキシコへ送り還されたれど、屈せず再度の逃走に首尾く成功し、昼は寝、夜は歩むと云ふ風にて汽車へも飛び乗りするなどあらゆる辛苦艱難をめて或時は三昼夜も食背座しょくせざりしことありたる程なり。斯くて行けども行けども一人の日本人には会はず、アリゾナ州ウィンスローまで来りたるに同所にて柳沢秋三郎と云ふ人の方へ辿り付き丁寧に七重の腰を八重に折り、アナタは日本人ですかと云ふより柳沢は喫驚してインデアンにあらざるかと疑ひたる程なれど言葉は正しく日本人なるより、一体お前さんはいずれより来りたるかと云へば、東南の方を指しアチラの方よりと云ふ(略)ドウぞ助け給はるべしと神か仏に願ふ様なれば、柳沢は東の困難したるを察し髪を剪るやら湯に這入らせるやら見すぼらしい着物を取替へさして一両日休息したれば東も大分元気付き、若し恰好の働き口あらば世話して呉れまじきかとのことなりしも格別面白きことなく加州に行けば今が金儲けの真盛りなりと教へ、尚数日滞留せしめたる上汽車賃を与へたけれど、前月取纏とりまとめて日本へ送金したれば詮方なしとて着物とブレッド、砂糖と金二弗を貸してくれと云はねど与へたることとて東の喜びたとふる物なく同所を出発したるは去七月八日の午後八時頃なり」

 その後、さらに熊本移民合資は一九〇七年十月まで十二回にわたって移民を送り続けたが、紛糾は絶えなかった。まず移民が問題にしたのは、現実が移民会社の前宣伝とは異なり、あまりにも稼ぎの少ないことだった。そして、もう一つ、訴えの対象となったのは坑内環境の劣悪さだった。ほかの鉱山会社に比べれば天と地ほどの近代設備を導入していたといわれたラス・エスペランサスだったが、決してすべての鉱区にわたってそうした近代設備が行き届いていたわけではなかった。比較的労少なく採炭できるという条件のいい鉱区はすでに先行移民に占有されていたため、後続の新参移民は取り残された劣悪な鉱区に入るしかなく、当然ながら、そうした鉱区では採炭効率も悪く、事故も多かった。契約書には毎月、病院費が差し引かれることが明記されているが、それは坑内事故の多発を会社側が認めていたことになる。だが、それさえも比較的環境の整った鉱区を対象にしたもので、取り残された廃坑寸前の鉱区ともなればまったく論外だった。最初のころは、賃金の低廉さと物価の高さを問題にしていた嘆願書、請願書も、送出が重なるにつれ、訴えの焦点も坑内設備の劣悪さに移っていく。

募集代理人への憤り

 次に、福島県出身者三十四人連署で日本公使に宛てられた一九〇三年十二月三十日付の「嘆願書」を見ておこう。かれらはその月の八日に到着、十二日から仕事についたばかりだったが、早くも二十四日からストライキに入っていた。

「過般熊本移民合資会社が移民募集するに当り福島出張事務所長五十嵐力雄が種々巧弁を以て該炭坑の構造の完全たること及び衛生上我国炭坑に比較するに最も良好なる事情の説明をなし勧誘したるに付き、余等該言を信じ募集に応じ当目的地に来り炭坑の情況を実視するのみならず採掘に就業したるに、坑内気候甚だ不順にして灼暑湧くが如き蒸発熱気なるを以て、坑内に入れば労働せざるも満汗全身をおおあまへ坑内之構造を日本国小野田付近の諸炭坑に比較するに甚だ廉造にして、通路にありては梁木折断し上装より岩石之墜落すること数回にして、一二口の如きはガス噴出し一面火を以て蔽へ為めに魔障の浸す所となり顔面及び全身に膨満を来し、加ふるに腹痛症及び下痢、吐瀉としゃ等の患者激烈にして危険と衛生とは実に甚だ敷境遇に有之候。翻て五十嵐力雄が我々を勧誘する当時の説明とことごとく皆相反するを推考するに私利を得るの目的を以て我々を欺きたる事実明瞭なるに付き、余等一同就業し能はざる事を移民会社代表者に申込みたるに、強迫の手段を取り、汝等金銭なくして何処に向て行きしか、いわんや我等目的の失敗を来されたるに付き、汝等を此地に捨て立去る等の言語を吐き余等の願趣を聞入れず」

 問題としたのは、やはり前宣伝と現実との違いで、実際は雇主というよりもむしろ欺かれたことに対する移民会社募集代理人への憤りだった。それは甘い勧誘にのせられた自らの愚かさへの歯痒はがゆさでもあった。かれらはメキシコをアメリカ同様の地と考えていたのではなかったか。だから熊本移民合資との解約を求めたのだった。それに代理人が応じなかったためグループを組んで労働放棄に入った。一人では不法ととられ、熊本移民合資から保証金を請求されることは目に見えていた。

 次に問題としたのは代理人たちの不正行為だった。「嘆願書」を受けた日本公使館は書記官国府寺新作を派遣、現地での折衝にあたらせたが、そのときの報告によれば、代理人たちは会社設備の食品販売所で、移民に物品を売り渡すのにも、いくらかの手数料を取っていたという。また、坑内での採炭道具は会社からは分割払いで受け取ることになっていたが、その仲介をしていた代理人は一括払いでなければ分配しなかったという。そして、もう一つ、移民への賃金計算はかれら代理人によって行なわれていたため、さまざまな不正が入る隙があった。

 実際、嘆願書には坑内設備の劣悪さがさまざま述べられているが、炭坑会社との間にはほとんど紛糾は起こっていない。会社側が恐れたのは移民たちがストを続けること、また、そうした行動がほかの労働者に広がることだけだった。熊本移民合資と移民との間の契約は成立していたが、炭坑会社と移民たちとの契約はまだ締結されていなかったからだった。

 ほかの移民会社による移民の場合も同様だが、雇主であるメキシカン・コール・エンド・コークス・カンパニーと熊本移民合資との間の契約には、移民の預り知らぬところがたくさんあった。その最たるものが次の二項目だろう。

 第十六条 甲は乙に対し手数料として労働者が採掘し且炭車に積込みたる石炭一トンに付き墨貨五仙を支払ふことを承諾す。

 第二十条 甲は乙に対し乙の供給せる労働者が三年の契約を誠実に履行したる上は満期の際往航費に該当する金額を給すきことを特約す。

 これは一九一〇年に結ばれたメキシカン・コール・エンド・コークス・カンパニー(甲)と東洋移民合資(乙)とのものだが、熊本移民合資との場合は、手数料はトン当り一ペソ、渡航費給与は三年後ではなく、就労四カ月後というふうにかなりの好条件だった。

 第十六条はある意味では当然のものだった。だが、第二十条は見過ごしにできない。つまり、会社側は移民導入のための費用をその移民が契約満了した場合には負担することになっていた。だが、移民と熊本移民合資との契約では渡航費は移民負担となっていた。先の嘆願書のなかで代理人が移民に吐いたという「我等目的の失敗を来されたる」というなかの「我等の目的」とは、メキシコにおけるかれらの移民事業の成否云々ではさらになく、こうした特約による濡れ手で粟の利鞘マージンのことだった。

 その後、かれらのうち十八人はほかの鉱山に逃亡。すぐさま会社側によって連れ戻されているが、うち七人はふたたび逃亡、イーグル・パスに向かったという。

ボレオ移民

 東洋移民合資がメキシコ移民送出に参入したのは一九〇四年のことだった。六月十九日に、東洋汽船の明保野丸で五百人の契約移民をバハ・カリフォルニアのエル・ボレオ銅山に送っている。

 エル・ボレオ銅山はカリフォルニア半島のほぼ中央、カリフォルニア湾側のサンタ・ロサリア郊外約三キロのところ。のちに日本人漁業移民の漁業基地になるバイア・トルトゥガスとはほぼ同緯度のところだった。当時、日本公使にあった杉村虎一の報告によれば、同山を所有していたエル・ボレオ銅鉱会社はフランスのロスチャイルド系の鉱山会社で、一八八五年に千二百万フランで創業。九二年にはサンフランシスコ領事だった珍田捨巳も実地調査に出向いて、将来の移民地として有望視されていた。ソノラ、シナロア州のメキシコ人を中心にインドからの移民も含めて約四千人が働いていて、産出量は年間三十万トンにのぼり、十二万トン前後の銅を産出していた。その規模はメキシコ随一とまではいかなくてもソノラ州のカナネアに次ぐものだった。

 東洋移民合資と移民との契約については、それ以前の熊本移民合資と異なっていたのは、東洋移民合資の場合は、雇主である現地会社との契約に直接あたらず、ラ・コンパニア・ハポネサ・メヒカナ・デ・コメルシオ・イ・コロニサシオン(日墨殖民会社)というダミー会社を通していたことだった。そのため、移民との契約もこのラ・コンパニアを通じて結ばれるという形になっている。熊本移民合資の失敗から、移民と雇主との紛糾が自社に及ぶことを警戒したのだろう。といっても、実際は派遣社員との間の契約に過ぎなかった。

 移民との契約は熊本移民合資のものとほとんど変わらない。ただ、違っていたのは移民のほとんどは渡航費を東洋移民合資から借り入れていたこと、そのために毎月三・七五ドル(約七・五ペソ)を給料から差し引かれることになっていた。そのほか、帰国準備金あるいは保証金として二百ペソに達するまで毎月十ペソ、また、共同保険として毎月一ペソなどが差し引かれることになっていたほか、日給もよくみても一日一・五ペソだったから一カ月二十五日の労働として月収は三十七・五ペソとなり、残りは十九ペソ。ここから住居費や食費がさらに出ていくのだから、残りは確実に十ペソを切ってしまうことになる。

 かれら、鹿児島、宮崎、福岡、広島、和歌山五県からの移民五百人は一九〇四年六月十九日、神戸港を出発、サンタ・ロサリアには七月中旬に到着しただろう。だが、ほとんど労働につかないまま、残留者四十人、行方不明者十人をのぞいてエル・ボレオを去っている。のちに横浜に帰還した移民からその経過を訊いた神奈川県知事周布公平の報告から、そのあとをたどってみよう。

 まず、かれらが問題にしたのはやはり東洋移民合資による情況書、契約書の内容と現実との違いだった。現地の様子は、同社の「渡航地状況書」によれば、「気候は暑き時は九十五度以上に達し、寒き時は六十五度内外に降ることあり。乾燥にして年に依りては雨滴を見ざる事あり。然れどもカリフォルニア湾に近き為め絶へず軽風の暑をぐるありて、厳暑の候に在りても尚日本に於ける如き苦熱を覚ゆることなくひとしく気候順当なり。(略)物価は極めて低廉にして従来坑夫の食物は玉蜀黍、牛肉、野菜、魚類等にして移民一ケ月の生活費は墨銀七、八弗位にて足るべし」とある。

 だが、実際は、外気温は華氏百二十度(約摂氏四十九度)から百三十度(約摂氏五十四度)前後、雨は六年前にたった一度降っただけ、大地は乾燥しカリフォルニア湾から吹き込む「軽風」はかえって砂塵を巻き上げ歩くこともできず、四人以上が一列にならんで歩けばあとに続く者は息もできなかったという。また、食料面では米の価格も約二倍、日用品も数倍にのぼり、さらに、鉱山設備はきわめて劣悪だったという。

 そのため、代理人に「協議」しようとしたが拒絶され、日本公使館に嘆願書を郵送しようとしたが、現地郵便局では移民からの郵便物は受け付けられなかった。そこで、サンタ・ロサリアに「斥候」を出したところ、明保野丸がまだ港沖に係留していたため、泳いで渡り、救助の嘆願書を船長に手渡した。そして翌朝には同船が出航するというので、急ぎ同鉱山を出たのだった。ただ、脱出も容易なことではなかった。

「一同旅装を整へ時に発程せんとするに際し該地の警吏四、五十名余一行の前路をさえぎり大声を発し、且つ銃剣を擬して強制せしも一同は既に決死の折柄とて之れに臆せず前進を続行せしに、警吏は銃剣を其の胸に当て杯して極力之れを拒止せんと企てしも尚ほ屈せず、打たば打て、切らばりくされと自ら胸をあらはし、又は首を伸して其の決意を示したるに、彼等警吏は其決心の固きに恐れてか其侭そのまま放任するに至れり」

 もしも仲間の一人にでも「警吏」が傷害を負わせるようなことがあれば、みんなで「警吏」を「撲殺」する決心までしていたという。

 それでも、港まで馬に乗った「警吏」数人が追いかけてきたのを振り切り、海に飛び込み「四、五〇町」ばかり沖に停泊していた明保野丸まで泳いで救助されたのだった。その後、明保野丸事務長の仲介で、いったん船を降り代理人との間で契約解除の交渉をしたあと、自由の身となり帰国の途についている。

 一方、こうして八月二十七日に横浜に着いたものの、移民の下船の意向に反して東洋移民合資側は神戸への回航を要求、しばらく対立が続いたが、移民の主張が通り、翌二十八日午後五時から下船をはじめ真砂町の旅館に入ったという。その数は周布の報告では、和歌山県出身者二百十五人、福岡県出身者百十九人、鹿児島県出身者五十二人、宮崎県出身者四十四人、広島県出身者二十三人の計四百五十三人となっている。そして残留したのはすべてが鹿児島県出身で五十七人だったというから、十人多いことになるが、周布の数字には東洋移民合資から派遣された監督とその関係者も含まれている。その監督の一人で、移民の帰還に同行した総監督安田愉逸と移民一人は約一カ月の航海途上に死亡、また、もう一人の移民も下船直後に死亡したという。

 その後、事後処置をめぐって移民と東洋移民合資との間で協議が行なわれたが、移民側は東洋移民合資から借り入れた渡航費百五十円の借用証書の無効と、帰国旅費とその日当の支給を要求。もちろん、東洋移民合資はそれに応じなかったため、三十一日に、田中、和田、井口の三人を総代として残して移民たちは帰郷、三人は東洋移民合資社長佐久間鋼三郎との直接折衝に入った。かれらが契約違反として訴えたのは次の諸項だった。

 一、移民等の居住すべき敷島村は瓦斯の臭気流布しありて卒倒するものを生ずること。

 二、敷島村は旧坑口にして谷間には数多の人骨とも覚しきものを埋没しあること。

 三、該地は百二十度以上の暑気にして応募心得書と相違せること。

 四、道路不完全にして塵埃飛散すること。

 五、坑内の組織不完全にして採掘に従事するときは崩壊のおそれあること。

 六、鉱石の熱度甚だしくして手に触るヽあたはざること。

 七、坑内は熱度非常に高く、加之す空気の流通甚だ少く為めに瓦斯充満し居り労働に堪へざること。

 八、鉱山より給与する食物はパンの小片壱個と少許すこしばかりの牛肉にて労働者の空腹に堪へざること。

 九、勧誘者は目下該鉱山は盛に採掘し居れりと云はれしも実際は一人も採掘に従事し居るものなきこと。

 十、右事項を監督安田某に訴へ改良の方法を謀せられたしと陳情せしも同監督は之れをしりぞけたること。

 これに対し、佐久間は移民たちのいうところはすべて「虚偽」とし交渉は断絶した。移民たちがエル・ボレオに入る以前、代理人小林直太郎を現地に派遣したその報告とはまったく相違するというものだった。そのため、埓があかないと判断した三人はひとまず帰郷、それぞれほかの移民たちに情況を報告したあと、ふたたび上京。さらに東洋移民合資との交渉に入ったが、今度は東洋移民合資側はかれら三人に袖の下を使い、交渉の打ち切りを謀ったという。その後のことは明らかでないが、移民のうち三十人は賄賂を受けた三人の一人和田の仲介で東京・青梅の材木商の運搬夫として雇い入れられたともいう。

 それから一年、エル・ボレオの実地調査を依頼されていた日本公使杉村虎一は「本官も当時気候病の為め転地の必要を感じ賜暇しか療養中に有し候ひし為め遂に取調の運に至らず」と前置きし、このボレオ移民失敗の原因として次のように述べている。

「最重大なる原因は移民募集の際、其選択の不完全なりし事之なり。現に今回ボレオ銅山出稼移民の多数は農夫、学生、商人或は村役場の書記或は巡査等の種類三分の二以上を占め、未だかつて何等力役の経験すら無之者をして世人一般に好まざる採鉱の職につかしむるは至難の事なりとす。加之ボレオ地方下カリフォルニア州一帯の地は全く樹木無き禿頭の地にして一見沙漠の観ある由は当局者も亦等しく之を認むる所にして、しかも移民は皆樹木豊饒秀麗眼を奪ふ許なる本邦に在り、毫も未だ海外に出ざりしもの突然如斯かくのごとき一見不毛の地に渡航し、次で当時盛夏の酷暑に打たれつヽ経験なき採鉱の業に就かんとす。何人も嫌悪の感情を懐かざらんとするも得べからず。其他移民中の多くは渡墨を期してひそかに渡米を企図せしの事実あり。現に数人の移民は同地より渡米の目的を以て逃走せしが同地方には汽車、汽船の便に乏しきを以て不得止やむをえず徒歩北行すること両三日、樹木の蔭、一流の河川に遭遇せず飢渇交々迫り逐に疲労絶望の後再帰せしものあり。(略)銅山の不完備、妖怪出没等に理由を借りて遂に斯回の暴動に出たるものなるべし移民の所謂、妖怪出てヽ家屋を動かす云々は此地に屡々しばしば起る所の海風に随ふ砂漠の旋風に外ならず。(略)又移民の所謂妖怪火光を放って飛来す云々は又此地特性の電光にして、此電光は時々同地に親まざる外国人に一驚を与ふる所のものなり。此等を見て愚昧の移民は妖怪の出てヽ害を為すものなりと思料せしものなるべく、加ふるに或種の移民の翩動と共に移民全体に帰国の念を起さしめたるものなるべしと思考す」

 一年を経た原因究明の報告としてはお粗末な限りで、たとえ移民選択が誤っていたとしたなら、それは募集を行なった東洋移民合資の責任に帰するものであったろうし、それを許可した外務省の責任も免れないだろう。また、移民が問題とした現地の自然条件については、募集の際の「情況書」は、この杉村報告とはまったく相反することを記していた。「愚昧の移民」でなくとも、現地を知らない者はそれを信用するしかなかっただろう。

 ともあれ、福岡県知事の報告によれば、福岡県下では同社代理人大平新蔵によって帰還移民百五十四人は突然その財産を差し押さえられ、渡航費百五十円と訴訟費用を含めた二百二十五円四十一銭を請求されている。これは和歌山、広島、鹿児島、宮崎県でも同様だったろうが、ことに福岡県の場合、移民のなかに代議士とつながりのあった者がいたことから、訴訟問題は県内での自由党と改進党の対立にまで発展していった。

ラス・エスペランサスその後

 東洋移民合資によるエル・ボレオへの移民送出は、この一九〇四年の一回だけに終わっている。それはとりもなおさず、同社による送出計画が失敗だったことを示すものだった。

 そのため、その後の同社は、メキシカン・コール・エンド・コークス・カンパニーとの間に契約をすすめ、送出先はラス・エスペランサス一本にしぼることになる。そして、一九〇七年十月まで十二回にわたって計三千人を超える移民を送っている。まず、一九〇六年三月二十二日付のメキシカン・コール・エンド・コークス・カンパニーから東洋移民合資への「注文書」を見てみよう。仲介に立っていたのは先にも述べた東洋移民合資のダミー会社ラ・コンパニャだった。

 去る明治三十七年四月中、墨西哥コアウィラ州ラス・エスペランサス所在メキシカン・コール・エンド・コーク・コムパニイより日本労働夫入用の注文に接し貴社に向け右供給方御依頼申上候処、今般該社よりの電報注文に接し、更に弐百五拾人乃至参百人の日本労働夫輸送方に付き貴社へ御依頼致すの光栄を有し候。

 一、貴社は日本及び墨西哥国の法律を遵守し前記会社に使用す可き弐百五拾人乃至参百人の日本人を募集し、及び之を輸送する事。

 二、雇主は貴社より供給せられたる労働夫に対し其所有の鉱山所在地の石炭鉱夫に給する普通成規之賃銀を支払ふ事。

 右普通の賃銀は壱ケ月壱百噸以下を採掘する者には壱千キログラムの毎壱メトリック噸に対し墨貨六拾仙にして、又壱ケ月壱百噸以上を採掘する者には壱千キログラムの毎壱メトリック噸に対し墨貨六拾五仙を給するものとす。

 又雇主は該労働夫に対して雇主所有の鉱山に労働する他国の労働夫と同等の待遇を与ふる事。

 三、雇主は毎月一回会社規定の支払日に於て労働者に給料を支払付ものとす。而して通常第三土曜日を支払日と定む。

 四、労働夫は病院費を負担するものとす。其額は一ケ月墨貨六拾仙と定め毎月之を払込むべきものとす。故に労働夫は万一疾病に罹りたる時は無料にて必要なる薬品及び医療之手当を受くる事を得。

 五、雇主は労働夫が三ケ年間雇主の満足する程度に就業したる時は各労働夫の往航費を払ひ戻すものとす。

 六、雇主は無料にて家事に必要なる多量之清水及び石炭を供給するものとす。

 七、労働夫は毎月左の割合にて家屋賃借料を雇主に支払付ものとす。

  イ、二室付の家屋に対し墨貨四弗

  ロ、三室付の家屋に対し墨貨八弗

 八、労働夫は其契約期間墨国政府に対して兵役及び納税之義務を負ふ事なく、且つ性質の如何を問わず墨国政府の公課金を賦課せざれざるものとす。

 九、労働夫に対して左の休業日を定む。

  一月一日、十一月三日、十二月二十五日、及び墨国大祭日則ち五月五日、九月一六日、並に毎月日曜日

 十、右労働夫は本年五月末日前にラス・エスペランサスに到着するを要す。

 右之通り御座候。何卒申分なき日本労働夫を所要の通り御募集之儀御成効相祈り居候。

 まず、第一に、熊本移民合資のときにも問題として取り上げられた第五項の「雇主は労働夫が三ケ年間雇主の満足する程度に就業したる時は各労働夫の往航費を払ひ戻すものとす」という、雇主から東洋移民合資への渡航費払い戻しの条項がそのまま生きていたのは日本政府による移民会社優遇策の表われで、その他については熊本移民合資のものとほとんど変わりはない。ただ、供給数が二百五十人から三百人となっているが、現実には六月十四日三十九人、同二十八日十一人、七月十七日九人、八月十六日十四人、そして、九月二十六日には三百五十一人の計四百二十四人が送られている。確言はできないが、東洋移民合資の場合は大陸殖民とはちがって比較的過剰輸送はなかった。とすればこの数の差は同鉱山を「逃亡」した者の数とみていいだろう。

 その後、契約は何度か更改されたのだろうが、東洋移民合資は一九〇六年九月以降、同年十二月十二日六百三人、翌一九〇七年二月十六日二十一人、四月十八日三十三人、五月十八日九百八十人、六月四日八人と送り続けて、十月二十三日の二百七十九人で終わっている。

 一方、熊本移民合資は一九〇六年六月九日(横浜発は十四日)四十四人、七月十七日十人、八月二十六日二十六人、九月二十六日百七十五人、十二月十二日三百九十二人、そして、翌一九〇七年には六月四日二百六十七人と続いて、十月二十三日の十二人で終わる。いずれも東洋移民合資と同じ移民船だった。ただ、最後の十月二十三日の熊本移民合資の分については、同社がその年の九月末あるいは十月はじめに営業停止になっていたため実質は東洋移民合資による送出だった。

 また、全体としての送出数については一九〇六年中はかなり「逃亡」数をも見込んで送られているが、一九〇七年に入ると、注文数も百五十人から二百人前後に減少し、さらに紳士協約の影響もあって下半期には何度も募集数が変更(減少)されている。

 輸送ルートは、初期の熊本移民合資のときはサンフランシスコからアメリカ大陸横断鉄道経由ルートがとられたが、東洋移民合資が参入して大量輸送となると、サンフランシスコ以後はアメリカのパシフィック・メイル(PM)汽船でサリナ・クルスに入り、その後はテワンテペック鉄道、セントラル鉄道を経てラス・エスペランサスに至るというルートがに代わっていた。移民はこのサリナ・クルス上陸のとき検疫を受けなければならなかったが、一九〇八年二月の東洋移民合資から警視総監安楽兼道への「御届」はその様子を次のように伝えている。前年十月二十三日、横浜出航の第十二回移民のときである。

「笠戸丸は十一月二十四日午前九時を以てサリナクルーズ港外に着したるも、当日日曜にして検疫医来らず。むなく一日を空費し翌二十五日午前九時ようやくく医官一名の助手を伴って来船。十時移民の身体検査を始め午後一時二十五分に終る」

 そして、検査の実際は、まず移民を三十人一組として一列に並ばせ、「助手」が「検温器」を移民一人一人の口のなかに差し込んで体温を計り、そのあと「本医官」が瞼と眼球の検査をする。その間、一組の検査に要する時間は十二分から十七分というものだった。このとき、十六人が不合格になり、さらに翌日、再検査が行なわれたが九人が合格できなかった。もちろん九人はただちに送還されたが、合格率は九十七パーセントだったことになる。きわめて高い合格率とみていいだろう。

続くガス爆発

 ラス・エスペランサスでのその後の様子だが、さまざまな記録によれば、就労以前に北の国境めざして去った者、また、数日、数カ月後に同様に他に移転した者など、半数以上は一年未満で同地を去っている。現地でのかれらの労働の情況を詳細に伝える記録はなく、一世紀を越えるむかしのことで、ふり返ることも難しいが、なぜ、かれらがそうした労働拒否と移転という行動をとらざるを得なかったのか、一つの原因として、生命の危険にさらされた坑内労働、その最悪の例としてガス爆発事故とその後の情況を見ておこう。

 爆発事故はいったいどれほどあったのか、小規模のものを含めれば数知れなかっただと思うが、日本側に残された記録としてはいまのところ、次の三件のみである。

 まずは一九〇七年二月十八日のもので、ガス爆発が起こったのはメキシカン・コール・エンド・コークス・カンパニー所属のコンキスタ第三坑で、午前八時十分のことだった。事故の翌日付の東洋移民合資現地代理人斉藤千之の報告によれば、当時、坑内にいた東洋移民合資扱いの日本人移民は十九人。そのうち十三人は坑内で即死、残る六人のうち一人は傷を負って入院中、ほかの五人も有毒ガスを吸引してかなり疲労しているが各自炭労住宅で静養中というものだった。

 一方、熊本移民合資扱いの日本人移民は、のちに東洋移民合資の調べで十一人いたが、うち九人が坑内で死亡している。そして、同日午後三時には、東洋移民合資扱いの十三人といっしょに同鉱の共同墓地カンポ・サントに埋葬されたが、そのうち一人については遺体の収容もできていなかった。ほかの事故でもそうだが、熊本移民合資の場合は現地に代理人がいなかったのだろうか、事故の報告は残っていない。そのため、事故の情況はもちろん、死亡者名などほとんど東洋移民合資関係のものしか明らかでない。このときの東洋移民合資扱いの死亡者名と出身県、遺体収容日時、年齢は次の通り。

 岸本良仁(沖縄県、十八日十五時五分、二十七歳)、新里親仁(同、十八日十六時、三十四歳)、大城蔵一(同、十八日十六時、三十一歳)、呉屋仁和(同、十九日二時、四十歳)、中田政次郎(富山県、十八日十四時二十五分、十八歳)、出戸米次郎(同、十八日十六時、十六歳)、上坂定之助(同、十八日十六時、二十七歳)、山下物蔵(山梨県、十八日十六時、三十四歳)、佐野浅次郎(同、十八日二十三時、二十歳)、山口重幸(同、十八日二十三時、三十三歳)、山口頼一(同、十八日二十三時、二十歳)、望月政吉(同、十八日二十三時、二十歳)、笠井栄一(同、十九日二時、十八歳)

 生き残った者としては、亀谷幸助(沖縄)は十八日八時四十五分に自力で出坑、荒木栄作(富山)は十一時二十五分、佐野潔(山梨)は十二時三十分、小波津徳(沖縄)と絃間権次郎(山梨)は十三時四十五分、豊里友益(沖縄)は十四時二十五分、それぞれ救出され病院に収容された。

 同坑は坑口から約四百四十メートル下るとまっすぐ奥に伸びる本道があり、その両側に横道が手前から、東第一号、西第一号、東第二号、西第二号……、と東西に十数本が分岐、この横道からそれぞれ十カ所前後の坑室がさらに分岐していた。坑夫たちはそこで採炭し、木製の軌道の上を炭車を曳いて横道まで出し、あとは馬がそれを曳いて坑外に搬出していた。各坑室の幅は七メートル奥までが二・五メートル弱、それ以上はわずかに人一人が通れるほどのものだった。

 爆発があったのはかなり奥の横道西八号で、坑口からは一・三キロのところだった。そのため、爆発後すぐに会社関係者とともに日本人医師原芝太郎と第四坑の副坑長をしていた日本人移民の内野巳之吉も坑内に入ったが、照明が十分でないうえ有毒ガスが充満していて、内野は現場に至らぬまま卒倒するというありさまだった。また、命を取り留めたものの豊里は有毒ガスを吸引していたため、その日の夕刻まで収容先の病院で錯乱状態にあったという。

 一方、坑内には何人のメキシコ人労働者がいたのか明らかでないが、三十五人が死亡、うち一人は遺体未収容のままになっている。そして、日本人犠牲者の埋葬にあたっては斉藤が東洋移民合資と熊本移民合資を代表して追悼文を朗読、日本人移民一同「造花」、「吊旗」を立て手厚く葬ったという。

 次は一九一〇年二月一日から二日深夜にかけて起きた、同じくメキシカン・コール・エンド・コークス・カンパニー所属のパラウ第三坑での爆発事故である。

 当時、メキシカン・コール・エンド・コークス・カンパニー所属の鉱山にはラス・エスペランサスとコヨテに合わせて七十五人、コンキスタに八十九人、パラウに三百七十九人、フエンテに十二人の日本人移民がいた。うち、東洋移民合資代理人中嶋束の報告によれば、パラウ第三坑には十五、六人が働いていたというが、爆発当時、入坑していたのは二人で、うち熊本移民合資扱いの安斉与太郎(福島)が犠牲になっている。その情況を遺体収容に立ち会った中嶋は次のように記している。

「其火傷脱皮せる様は何人なりしやも不明に有之これあり候。此者夜業として昇降綱方(メカテーロ)を致居候が、丁度爆発場所の近所に引上げ請求に到りし瞬間爆死候」

 メカテーロというのは、エネケン(竜舌蘭)の繊維でつくった綱のことで、坑内への炭車の昇降に使われていた。のちに述べるようにエネケンはユカタン地方の特産だが、かれはその昇降番をしていたのだった。とすると爆発地点は比較的坑口に近いところだったのか。もう一人は爆発の一時間ほど前に道具の不足に気がついて坑外に出ていたため助かっている。その後、安斉の父金次のもとには仲間からその頭髪と爪だけが送られてきたが、熊本移民合資関係からは音沙汰もなく、一九一一年に至っても、代理人からは見舞金はもちろん死亡届さえ送られてこなかったという。

転労移民は人にあらず

 もう一件は同年九月三十日の、同じくパラウ第二坑でのものだが、このときは、それまでにない激しい爆発事故だった。

 爆発が起きたのは深夜十一時。天を轟かすようなガス爆発の大音響とともに坑口一面が陥没し、坑内にいた日本人移民二十人とメキシコ人労働者九十人が坑内に閉じこめられてしまった。すぐに救助作業が開始されたが、まったく手もつけられない状態で、最初の遺体が収容されたのは三日後の十月三日のことだった。収容された日本人死亡者は久保作次郎(佐賀)、古賀泉次郎(同)、宮原藤助(福岡)、将口新太郎(同)、柊木末吉(鹿児島)、山本林太郎(同)、槙野庄造(広島)、上本順一(同)、屋部嘉真(沖縄)、嘉手苅有一(同)、久世竹五郎(岐阜)、吉沢熊雄(熊本)の十二人で、ほかの者も絶望と見られていた。

 ところが、翌日になってほとんど奇跡的に日本人移民六人が生存しているのがわかった。爆発は分岐していた一つの横道で起こり、そのときかれらのいた別の横道の入口が落盤によって密閉、遮断されたため、その後の有毒ガスの充満と火災という二次災害から逃れられたのだった。だが、四日間にわたって飢餓状態にあったため、生存して収容されたとはいうものの、うち佐野留三郎(福島)は四日後に死亡。また、六人以外に、小林清太郎(三重)と岸本礼三(沖縄)の二人は行方が知れず、坑内に閉じこめられたまま遺体は回収できなかった。

 その後、東洋移民合資現地代理人と会社の間で犠牲者に対する「賑恤金」の交渉が行なわれた。メキシカン・コール・エンド・コークス・カンパニーと東洋移民合資との契約には、「甲(前者)は乙(後者)の供給せる労働者が瓦斯爆発又は不時の災厄の為めに死亡するか又は之れが為に永久労働に不適当となりたる場合には、其の原因が労働者の故意に出でざる限り労働時日の長短に関らず船賃に相当する金額即ち墨貨壱百弐拾弗を支払ふべきことを約諾す」という一項があった。これによって犠牲者たちには百二十ペソの「賑恤金」が支払われることになり、各県知事を通じて犠牲者の家族のもとに死亡証明書とともに送られることが東洋移民合資代理人によって通知された。だが、犠牲者十五人のうち上本順一、槙野庄造、吉沢熊雄、柊木末吉の四人の家族には一年以上もたった一九一一年十一月になっても送金はなかった。

 そのため、外務省からの通知を受けた日本公使堀口九萬一は現地代理人に照会。それによって明らかになったのは、かれら四人は東洋移民合資取り扱いによる契約移民ではないため、メキシカン・コール・エンド・コークス・カンパニーの移民名簿にも氏名の記載がなく「賑恤金」の支払いを受ける権利がないというものだった。

「右等二人は大陸扱にして就労地を逃亡したるの故を以て当地には独立独行し得る積にてか、兎に角、本代理人に在住を届出不申もうさず。時折巡回候ても隠匿致居候にや、瓦斯爆発の際初めてかかる人間の労働致おる候事を承知つかまつり候位に有之候」

 その通り、四人のうち、上本順一と槙野庄造の二人は大陸殖民取り扱いによってメキシコに入っている。上本はその第八回移民の一人として日本出発時の契約ではコリマ移民となっていた。槙野は第九回移民の一人で、同じく契約ではオアハケニャ移民となっている。ただ、大陸殖民の場合、第八回移民のときからコリマ鉄道建設への移民供給は過剰となっていたから、おそらく上本は上陸前に契約を変更、オアハケニャに入ったのではなかったか。槙野はそのあと契約通りオアハケニャに入り、それぞれ同耕地で就労していただろう。知り合った二人はラス・エスペランサスに同行、先行日本人移民の請負制のもとで働いていたのではないか。そうすれば、多少、歩合が悪くても保証金や病院費などを差し引かれることがなかった。爆発はかれらが到着後、わずか数日後のことだった。

 ほかの、吉沢熊雄と柊木末吉の場合は、家族からの請求の記録も代理人による記録もない。ただ、東洋移民合資扱いでなかったため「賑恤金」の支払いリストから削除されているだけで、「移民名簿」を見ると、柊木は熊本移民合資扱いで、一九〇七年六月四日の渡航。吉沢はさまざまな記録では「吉沢熊十」あるいは「吉津熊男」となっているが、これまで示してきた通り吉沢熊雄の誤りで、かれは大陸殖民第八回移民の一人、契約はオアハケニャとなっている。柊木が「賑恤金」の支払いリストから除外されたのは、すでにそれ以前の一九〇七年に熊本移民合資は営業を停止していて、その後の実務は東洋移民合資に継承されていなかったからだった。

 一九一二年十月十日付の日本公使堀口からの報告によれば、その後も日本公使館を通じて「賑恤金」支払い交渉が続けられたが、事故当時に代理人をしていた阿比留はすでに死亡していて、代わってメキシコ・シティにいた同社代理人田中兵助が交渉。その結果、明らかになったのは、阿比留とメキシカン・コール・エンド・コークス・カンパニーとの間で、契約外の犠牲者には「賑恤金」に代わって「弔慰金」四十ペソを支払うことで示談交渉が成立していて、それを阿比留が受け取っているということだった。だが、実際、それが阿比留の手に入っていたのか、それともかれは本社にそれを送っていたのか、田中はその旨を本社に通知、上本と槙野の家族に対する「弔慰金」の送付を依頼したというが、その後のことは明らかでない。もちろん、柊木と吉沢についての記録もない。

 一方、メキシコ人労働者の場合、ほとんどは請負制で働いていたため、「賑恤金」の支払いもなく、ただ、見舞金として二十五ペソが支払われただけだった。

 その他、一九〇八年にも同じくコアウイラ州ロシータ炭鉱で爆発事故があり、死者八十人のなかには日本人転労移民八人が含まれていたというが、記録として残されていない事故はほかにも数限りなくあっただろう。ある時、一人の少年(当時十六歳)がラス・エスペランサスで働く父を訪ねてやってきた。だが、父親はすでに落盤事故で死んでいた。周囲の仲間たちはそれを伝えるに忍びず、父親は遠くに出かけていると伝えたが、しばらくのちに少年は事の次第を知る。ただ、かれは一時の落胆をものともせず、その後は、同鉱で懸命に働き立派な成績をあげたという。少年とは、のちにシナロア州ロサリオで医師としてメキシコ人からも慕われるようになる天野吉右衛門だった。

 その後、ラス・エスペランサスは革命の動乱によって荒廃。また、ゲリラの襲撃で各地で鉄道が不通になり、生産制限が行なわれ、労働者数も削減されている。それは首切りという方法でなく、坑内労働に欠かせない「安全灯」の数を制限するという巧妙なやり方だった。人員整理をすれば補償金支払いという問題が起きるからで、そのため「安全灯」を確保するために労働者間で争いが起き、手にできない者は坑内に入れず仕事にあぶれる者が続いたという。そしてさらに動乱の影響が激しくなり、一九一三年七月には鉱区のほとんどを閉鎖、二百人前後いたという日本人移民はすべて職を失うことになる。

 うち百人前後は現地代理人の仲介で同じコアウィラ州の棉作農場に入っているが、残された者はその後をどうたどったか。たとえば、アメリカに密入国した者がたどり着いた先はコロラド州デンバーの炭鉱だった。当時としてはかなり支払いがよかったという。

 また、密入に失敗した者たちの一つの行き先はタンピコだった。世界経済も石炭から石油に転換しはじめた頃で、石油の町タンピコは景気がよく、北部炭坑からも近かった。そのため、一時は二百人前後の日本人がいて、酒や博打に明け暮れる者もいたが、そんなかれらによって日本人会館も建設されていた。この会館は、のちの日米開戦のときに、存続について日本人の間で問題になり、当時、タンピコ日本人会の会長をしていた西村市之助が保存を呼びかけたにもかかわらず、売却、処分されている。分配金はたちまち博打に消えていったという。その後、西村は私財を投じてタンピコの公営墓地に高さ二メートルに及ぶ「日本民族発展の碑」を建立、タンピコに骨を埋めた日本人移民の霊を慰めた。

ユカタンへの韓国移民

 ユカタン地方は、マヤ、アステカがそうだったように、同じメキシコでも中央高原とは歴史も、スペイン植民下での政治情況もちがっていた。一八二一年にはスペインからの独立を宣言し、メキシコ共和国の一部になっているが、メキシコ国会が合同を否認したため、二三年には独立した形で連邦を形成することになった。しかし、四一年には連邦政府からの全面独立を宣言している。さらに、政治経済を支配するスペイン系のクリオーリョに対するマヤ諸族の反乱、抗争が続いたため、戦闘による死亡やその後の混乱のなかでの移転や逃亡によって、メリダを中心とした北部のエネケン耕地では労働力不足が続いていた。そこで各耕地主は外国人労働者の導入を図るが、厳しい気候や労働条件の劣悪さから計画は頓挫していた。

 日本公使館通訳生小林武麿の報告「墨西哥国メキシコユカタン州情勢」(第二回移民調査報告)によれば、まず、一八九七年にイタリア人六十人が最初の外国人労働者として導入されたが、数週間で耕地を出ている。続いてカナリア諸島から五十家族が導入されたが、漁師だったため農耕に不慣れでうまくいかなかった。次いで入ったスペインからの移民はよく厳しい労働に堪えたが、まとまった貯えを得ると都市部に出て商売をはじめ、また、そのあとに入った中国人移民も一定の額を貯えると近くに独立菜園を拓いて耕地に長くとどまらなかった。

 その後、一九〇二年にオレガリオ・ノリナが知事になると、耕地主を集めて移民の導入を再考、代理人を中国に派遣して移民募集にあたらせることになった。その一人、かれ自身ドイツ移民だったジョン・G・マイヤースはまず香港と広東で移民を募集する。だが、応募者がなかったため、帰路、日本に立ち寄り日本外務省に移民送出を打診したのだった。かれに移民募集を委任したのはユカタンの農園主十五人からなる耕主同盟で、もし日本からの移民導入がうまくいけばユカタン全州の農園主も同盟に参加するだろうから、大量の移民導入になるだろうとマイヤースは持ちかけている。外務大臣に提出した一九〇二年七月二日付「覚書」によれば、契約条件とは次のようなものだった。

 一、農業労働者のみを採用するものとし、採用の者は妻子携帯渡航すべきものとす。

 二、右家族の渡航賃は耕園主之を支弁し日本よりユカターンに至る迄の渡航費はいささかにても移民に負担せしめざるべし。

 三、各家族には無賃にて相当の家屋を貸渡し且其の専用として五百平方米以上の地所を貸付すべし。

 四、各戸所用の薪炭は無償にて交付すべし。

 五、移民及其の家族は日曜日を除くの外毎年連日就業せしむべきことを保証す。但し、耕園に到着の後二日間は何等の業役に服せしむることなく無償にて給養すべし。

 六、到着後最初の一ケ月間各移民は其の労役功程の多少に拘らず賃金として一日に付六十五仙を受け其の男児及妻も其の耕園業に服せむことを望む場合には同額を給付せらるべきものとす。

 七、移民及其の家族は病気の節は無料にて医療及び薬品を受くるものとす。

 八、到着後二ケ月目より移民及其の男児は一日の労働八時間に付七十八仙を受け、各々右時間中に麻二千五百葉以上を苅取るべきものとす。但し、ユカターン州に於て耕作する植物は麻に限るものとす。

 九、移民にして功程に応じ賃金を受けむと欲するときは麻二千葉の苅取に対し六十二仙を給し、以上千葉を増す毎に四十仙宛増給すべし。

 十、各労働者は馬車鉄道線路又は道路に至るまで最長距離百五十米の所は苅取りたる葉を輸送するの義務あるものとす。但し、右線路又は道路より工場までは馬車にて運送するものとす。

 十一、麻作に関する他の労役に対しては賃金を給付す。

 イ、除草ー土地の状態に従ひ毎四百平方米に付二十仙乃至ないし四十仙を給す。

 ロ、麻苗苅取ー苅取りたる苗百本に付三十五仙を給す。但し、麻葉と同じく耕園付近の鉄路又は道路まで持出すべきものとす。

 ハ、麻苗植付ー植付けたる苗百本に付三十五仙を給す。

 ニ、薪材切出ー長さ一米六百六十粍、高さ一米六百六十粍の材積に対し五十仙を給す。但し、各薪材は一端より一端まで八百三十八粍あるべきものとす。

 ホ、潅木及下草苅取ー四百平方米に付五十仙を給す。

 ヘ、耕園道路地均しー幅二米の道路一米に付五十仙を給す。

 十二、移民及其の家族は五ケ年間同一の耕園に勤続すべきものとす。移民は日曜日の外毎日勤労し前記の賃金にて前記総ての労役を執り其の男児には前記の賃金にて執業せしむべきものとす。但し、十二歳以下の男児は執業を免除すべし。

 十三、移民及其の家族は各耕園の規則に服従しメキシコ国の憲法法律に従ひメキシコ国民に許与せらるる以外の特権を要求せざるものとす。

 十四、移民及其の男児は毎週直接に賃金の支給を受くるものとす。但し、其の内一割は契約履行の担保として耕園主に於て之を留保し契約満了の節は之を移民に交付し、移民死亡の節は何時にても之を其の遺族に交付すべし。但し、移民に於て契約に違背したるとき即ち五年の期限満了前に脱園したるときは失ふものとす。

 まさに、当時のユカタンでのメキシコ人の労働情況をうかがわせるもので、ほとんど半奴隷に近い条件ばかりだった。そのうえ、マイヤースは日本の移民送出情況をまったく理解していなかったのだろう、移民会社を通さない直接の移民導入を要望したという。これでは認可が下りるわけがない。もちろん、外務省はそれを拒否。代わってかれは韓国に目を向ける。まず、仲介を日本の東洋移民合資に依頼した。だが、同社は返事を渋ったため大陸殖民に鞍替えしたのだった。あるいは逆に、かれに韓国の導入を持ちかけたのは大陸殖民だったかもしれない。

 しかし、移民保護法の規定で、大陸殖民という名義では日本人移民しか取り扱うことができなかった。そこで、当時、大陸殖民の副社長をしていた日向輝武ひなたてるたけは個人の資格でマイヤースの申し込みを受け、ソウルに「林京城出張所」の名で代理店を設置する。おそらく一九〇四年十月のことだろう、大庭貫一を代理人に募集にあたらせた。これには、のちに海外興業の社長となる井上雅二も深く関与していた。ただ、かれらは直接募集にあたったのではなく、在留歴の長い日本人を各地に代理人として派遣し、さらに実際の仲介人としては土地の韓国人有力者を使っていた。その仲介料は移民一組の斡旋に対し三円前後だったという。たとえば、木浦モクポでは商業会議所の理事をしていた谷垣嘉市を代理人に、そして、問屋をしていた韓国人数人を仲介にあたらせている。かれらはソウル、仁川インチョン、木浦、釜山プサンを中心に、次のような内容の募集要項を配布して移民を募っていた。

 北米墨西哥は合衆国と毘連ひれんする著名の文明なる富国にして風土極めて佳良にして悪疫なく世界の楽土として世人の良く知るところなり。其国富者多貧者少なく工人はなはだ貴きを以て日本及清国人が単身或は家族をともなひ渡墨し利益を収むる者多く、韓国人も同地に居住すれば安全に利益を得べく、韓国墨国間に条約の締結なきも最恵国にてことごとく利益を均霑きんてんすることを得。全家の往来は任意にしてごうも阻碍なく大に優遇せられ、勤労すれば必らず厚利を得べきなり。今回大陸合資会社が墨西哥合衆国ユカタン州の殷富いんぷなる耕種家の依嘱を受け工人を募集するは只麻を種植するに従事せしも他の工をなさず。渡航者の船費、船上食価は会社より供給し以上の経費は償還を要せず。工賃は七日毎に計算す。此等規則は凡て殷富なる農家持別雇倩章程に依り施行し大韓国外部にも業に承認を経たれば渡墨志願者は左記の条項熟覧の上京城竹洞大陸殖民合資会社代理店林京城出張所或は各処各地方代理店に相議せられたし。

 一、渡航志望者は必らず家族を同伴するを可とす。単身外国に在住すれば常に楽も少なく家庭の趣味なく、又、家族と同伴すれば相助けて多く収益することを得こと。

 一、工人到着すれば住所家屋を与し租税を徴せざること。

 一、会社にて工人を優遇し疾病の場合は医薬を給し治療を施し其費用を免ずること。

 一、工人の所得金は悉く工人の所得にして毫も課税することなきこと。

 一、工人日常所用の薪炭は無代にして工人の子女成長し年齢七才に達すれば所在学校に入学せしめ文明の学業を修得せしむること。

 一、毎一日労働九時間に墨銀一元三十銭(韓貨二元六十銭)乃至一元五十銭(韓貨三元位)を得。若し滞在数ケ月に及び稍錬熟すれば能く墨銀一元六十銭(韓貨三元二十銭位)乃至二元(韓貨四元位)にして、現に清国工人にして一日能三元(韓貨六元位)を得る者尠なからず。

 一、工人の所得工銭は七日毎に詳算支出し旅費の扣除こうじょをなさざること。

 一、工銭は男女老若となく□葉種麻の数に応じ支給すること。

 一、所得工銭は各工人自己が領受し他人に支払ふことを許さずこと。

 一、墨国にて毎一人毎一日の生活費は大略墨銀二十銭(韓貨四十銭位)乃至二十五銭(韓貨五十銭位)にして、若し自己の園地に農作し或は鶏豚を飼養すれば其収益にて生活の費用に足ること。

 一、工人は五ケ年を限りとなし期限後帰国すると在留するとは任意にして会社にて墨貨一百元を賞与すること。

 一、会社にて韓英両国語に通ずる日本人を雇用し工人の通信寄銀等の書類を代訳し与ふること。

 一、工人が耕作に暗熟せんことを要求するには善良にして家族を有する者なれば必らず入選す。単身在留する者は知人と同居すること。

 一、旅行日数は凡そ一ケ月にして出発の日取は各代理人が予め通知すること。

 一、各代理人は公平を旨とし志望者を周旋す。渡墨志願者は京城竹洞八十一統大陸殖民合資会社代理店林京城出張所及各地方代理店に来られたし。

 一見しても欺瞞だらけで、賃金計算については、一日一・三ペソから一・五ペソとしているが、マイヤースが提示した契約ではエネケン二千葉の刈り取りに対して〇・七二ペソの支給という一つの基準が示されているだけで、おそらく三人を想定してのものだろうが、一家族で一日労働すれば三ペソ以上を稼ぐことも無理ではないとしているだけで、また、五年契約を満了した場合、賞与として百ペソを支給としているが、これもマイヤースの契約には見られないし、子女修学の件も同様だった。

 だが、移民は知る由もない。各地から二百五十七家族のほか単独移民百九十六人が集まった。永登浦ヨンドゥンポ二十四人、ソウル四百五十四人、開城ケソン二十五人、仁川インチョン二百二十三人、水原スウォン六人、平壌ピョンヤン三十七人、堤川チェチョン二十二人、広州クァンジュ五人、元山ウォンサン二十六人、鳳山ポンサン十二人、黄州ファンジュ四人、木浦モクポ五十五人、釜山七十三人、大邱テグ十八人、密陽ミリャン三人、慶州キョンジュ七人、蔚山ウルサン六人、馬山マサン三十三人の男性七百二人、女性百三十五人、小児百九十六人、計一千三十三人だった。

 大多数は現在のソウル周辺と釜山、木浦からで、仁川領事加藤東四郎の報告によれば、「小農、無頼、乞食等にして、従来一度開港場若くは海外の空気を吹ひたることある者或はクリスト教の感化を受けたる者」が多かったという。

 こうして、大陸殖民はその送出にイギリス船イルフォド号を移民船として特約、一九〇五年三月十四、五日前後に釜山で付近の応募者を乗船させ、そのあと仁川に回航させた。しかし、途中で移民の家族のなかに天然痘が発生したため仁川で二週間前後の足止めを喰っている。そして四月四日、メキシコに向けて出航した。

 この間、募集にはさまざまな問題があった。まず、移民と大陸殖民との間には何ら正式の契約が結ばれていなかったこと、そして、要項には「大韓国外部にも業に承認を経たれば」とあったものの、移民の送出そのものが韓国政府によって認められていなかった。当時の政治情勢下で、大陸殖民の単独行動を日本領事館をはじめとする日本政府関係者は黙認という形をとったのだった。それに対して、翌四月五日、韓国政府は韓国人の労働者としての海外渡航を全面的に禁止した。

 ただ、このことについては事態が複雑だった。それ以前、韓国からの海外移民は、先の加藤の報告によれば、たとえばハワイにはアメリカ人経営の東西開発会社によって送られている。「韓国移民布哇渡航防遏の件に付稟請書」によれば、一九〇三年中に千百十八人、一九〇四年中に三千九百六十五人となっている。これに対して日本人移民の渡航者数はそれぞれ六千六百二十五人、五千五百四十八人で、次第に追い越される形になっていた。ユカタン移民募集時にもこの東西開発社とはかなり競合したという。そうした情況のなかで、一九〇五年四月、森岡真と日向は山口熊野などとともに外務省に対して韓国移民の禁止を要求する「稟請書」を提出していたのだった。当時、すでに日韓協約は成立していたが、日露戦争は収拾していない。だが、ポーツマスでの講和条約によって半島での日本の覇権が列強によって承認され、さらに、十一月になって第二次日韓協約が成立すると情況がちがってきた。韓国の外交権をも日本が握るようになったため移民送出についても日本政府がそれを左右できるようになったのだった。そのため、本格的に韓国に目を向けるようになった森岡、日向は「稟請書」での要求とは逆に韓国での移民会社設立を企て、それに応じた日本政府は韓国政府に移民保護法の制定を迫っていく。

 このときのユカタン移民の総数については諸説あって、先の小林報告は千四十六人としているが、ともかくそれによれば、一行は五月九日にサリナ・クルスに到着。移民のほか同船には長く韓国に住み英韓両語に通じていた日本人天草某という通訳のほか、二十人余の日本人が炊夫として乗り組んでいたというが、航海中、移民の子どものうち二人が消化器系の病気や「ベリベリー症」で死亡、さらに、サリナ・クルスで結核と「ベリベリー症」のために十二人が病院に収容され、うち九人が死亡しているが、その十四人を除いた一行は同月十一日サリナ・クルスを出発、テワンテペック鉄道で大西洋側のコアツァコアルコスに出て、そこで汽船オアハカ丸(千四百トン)に乗り換え、同月十五日にユカタン半島先端の港町プログレッソに着いている。そして、チョチョブ、ステッペン、ウンカナブ、ヤスチェ、チェンチェ・デ・ラス・トレス、チュンチュクミル、サン・エンリケ、チンキラなど二十二カ所の耕地に分散、さらに、他の中小の耕地に分かれ、休む間もなく耕地に出たという。

 だが、かれらの導入に対し雇主側は一人につき渡航費と手数料合わせて約二百ペソの費用を負担していたため、逃亡に対する警戒は厳重を極めた。ヤスチェ、ウンカナブなどの耕地では就労以来一度も耕地外への外出は許可されず、外部との面会も禁じられるなど、まったく自由を束縛されていた。一方、そのほかの耕地ではほとんど制限もなく外出が許されていたというが、それも一年以上ものちのことで、逃亡がないことが明らかになってからのことだった。各耕地でのメキシコ人労働者の状態について小林は次のように記しているが、韓国移民の情況もほとんど変わらなかったのではないか。

「耕地に於ける労働者に対する待遇中、尚昔時の奴隷使役の弊風の掃除せられざるものあり。労働者にして労働を拒み、又は耕主の命に従はざるものあるときは耕主は耕地監督者をして之を耕地内牢舎に幽閉し、又は鞭撻を加ふ」

 住居として、家族移民に対しては一戸の家屋が与えられたが、それも五メートル、九メートル四方を土塀で仕切り、屋根は椰子の葉で葺き土間はセメントのままという粗末な木造の小屋で、二メートル、四メートルの寝室に家族四、五人が寝起きしていたという。そして、その周囲に与えられた五百平方メートルばかりの菜園で野菜を栽培し、配給された豚、鶏、七面鳥などの家畜を飼っていた。繁殖させて自家用にしたり、ほかの労働者に売って小銭を稼いだのだった。

 食料は、耕地主から支給されたが、十分ではなかったため、不足分は耕地内の店舗から自費で購入しなければならなかった。また、そうした食事になれない者はメリダにあった中国人商店から魚介類を買って食べていたが、それもごく一部の者だけで多くは粗食に堪えていた。

 一方、賃金の方はどうだったのか。耕地での労働にはマイヤースの契約条件にも見られるように、エネケンの栽培と伐採のほか、耕地内外の道路補修や薪炭用の木材の伐採などもあったが、かれらはエネケン伐採以外にはほとんど従事しなかったという。伐採の賃金は契約では千本当り〇・三六ペソ、それ以上については千本につき〇・四ペソだったが、実際には一人一日励んでも二千本以上を伐採することは困難だったから、日給としても〇・七ペソから〇・八ペソ止まりだった。 

 そんな情況だったから、到着後いくらもしないで、サンフランシスコから同行した韓国人権丙淑を通訳として耕地主に契約条件や環境の改善を要求している。だが、千人を超える移民に対して通訳は一人しかいなかったうえ、耕地が二十カ所以上に分散していたため、到着から一年ばかりは対立、紛糾が絶えなかった。また、権は耕地主からいくらかの賄賂をもらっていたようで、かれを仲介した交渉は移民側に不利になるばかりだった。そのため権は居場所をなくし一九〇七年五月に耕地を離れている。そして五年、移民たちも契約を終え、ほとんどが耕地を去った。

 小林の報告によれば、契約満了直前の一九一〇年当時の、各耕地の在留数は次の通りだった(カッコ内は最初の入耕者数、ーは不明)

 チュンチュクミル八十八(八十八)人、ヤシュチェ六十六(六十九)人、ラス・トレス六十五(八十五)人、メリダ三十七(ー)人、イディンカブ三十六(四十五)人、ソディル三十三(三十九)人、サン・アントニオ三十一(四十五)人、スク三十(ー)人、サン・フランシスコ二十八(三十六)人、チャン・チョチョラ二十六(二十三)人、チョチョ二十六(五十三)人、アスコラ二十五(ー)人、テシス二十五(四十三)人、サンタ・エドゥビヘス二十三(ー)人、サン・ディエゴ二十二(ー)人、サン・ホセ・チョルル二十二(ー)人、サンタ・ロサ二十(ー)人、カネアペン十九(十八)人、ステッペン十九(二十九)人、サン・ホセ十七(ー)人、サナタ十六(ー)人、サン・エンリケ十五(三十五)人、ノアユン十五(ー)人、コブチャカ十四(ー)人、ウンカナブ十三(ー)人、クヨ・デ・アンコナ十三(十九)人、サン・ホセ・カメラ七(ー)人、シアト七(ー)人、チンキラ六(ー)人、カルン五(ー)人、サンタ・リタ三(ー)人、ディンチェ三(ー)人、テキク三(ー)人、サン・イグナシオ二(ー)人、テピエ二(ー)人、ポルエ二(ー)人、サン・アントニオ一(十一)人、サンタ・クララ一(ー)人、チョヨブ一(ー)人、ポラバン〇(六)

 最初の入耕数が不明のところが多いこと、また、在留数には出生数も含まれているため明確なところはわからないが、退耕者数などおおよその増減は見えてくるだろう。在留総数は七百八十七人、入耕当時からすれば四人に一人の割で減少している。耕地を去ったかれらはどうしたのか。多くはメリダに出て商業などに従事しているが、さらに南のカンペチェ、ベラクルスに移った者、そして遠くメキシコ・シティに入った者も少なくなかった。また、続けて耕地にいた者も、小林の報告によれば、「契約年限満了後はただちに各耕地を去りてメリダ市に集合し、向後の方針に関し善後策を決議し各々其の去就を共にせんとする」との意向だった。

 その後、一九一六年に行なわれた日本公使館の調査によれば、当時、メキシコにいた韓国人在留者数は男性七百六十六人、女性二百十九人の計九百八十五人で、戸数約二百五十だった。もちろん、このすべてがかつてのユカタン移民だったわけではないが、残ったかれらはその後をどうたどったのか。

 一方、一九〇六年に韓国で移民保護法が制定されたあと、かつて大陸殖民の京城出張所の代理人としてユカタンへの韓国移民の送出に直接手を下した大庭貫一は、今度は自らマイヤースと契約し、韓国人移民の送出を計画しているが、それも含めて一九〇五年のユカタン移民以後、韓国人が移民としてメキシコに送られたとする記録はない。

二幕 流民の時代

試行のはじまり

 日本からメキシコへの組織的な移民は、のちの海外興業によるバハ・カリフオルニアへの漁業自由移民を除いて一九〇七年をもってほぼ終わっている。その時点でメキシコにいたと思われる、移民会社による移民は二千人から四千人ぐらいだったか。あまりにも動きが激しかったため、そんなふうにしかいえない。

 一方、その後も続いた移動のなかで、メキシコ各地に残った日本人移民によって一つのコミュニティーとも呼べるたしかな日本人社会が生まれたのは一九二〇年代に入ってからのことだった。その間の十数年間は、かれらが移民としての流れ者からメキシコに居を構えた自由人として変容していく、一種、移民過渡の時代だった。そうした流転のなかでかれらはどのような行動をとり、どのような変遷をたどったのか、さらに、チリ、ペルー、パナマなど他のラテンアメリカ諸国から入った、いわゆる転航移民も含めてそのあとをたどってみよう。

 まず、注目されるのは、移民としてのかれらのその後の移動の激しさである。キューバへの転航もそうだが、大きな流れはアメリカをめざしての北行だった。それはメキシコ以前からのかれらの志向だったかもしれない。ただ、それ以上に影響を及ぼしたのがメキシコ革命の動乱と混乱だった。ラテンアメリカの歴史を振り返っても、その国のなかで二つあるいはいくつもの勢力に分裂して互いに抗争を繰り返した歴史をもつ国はそんなにない。バルガス以前のブラジルや、三度の革命を経たキューバもそうだが、アメリカの南北戦争に代表されるような抗争をもったのはメキシコぐらいのものだろう。すでに北部を中心にメキシコ各地でかなりの経済的地盤を築いていた中国人移民ほどではなかったにしても、「解雇」そして「逃亡」のあと、北へ北へという移動のなかで、一時的であれ各地にそのあしあとをとどめようとしていた、いわば定着への過渡期にあった日本人移民に与えた動乱の影響は大きかった。歴史に「もしも」は許されないが、それでも革命の混乱がなかったなら、さまざま流動性をいわれるメキシコ移民社会もまた違ったかたちになっていたかもしれない。

 国の政体がどうあれ、それとは別のところで生きていくのが民衆というものだが、政治の変動や混乱に流されずに生きていくことは難しい。メキシコ人もそうだったが、そこに移民として入った日本人ならなおさらだった。ただ、かれらには負荷が重なればそこを捨てられるという身軽さがあっただけで、メキシコの場合、それが転航とアメリカ密入国に結びついている。移民は自らではけっして流れようとはしない。ただ周囲の情況に流されやすいという宿命を背負っている。そうしたかれらの北への移動のあしあとに続けて、革命の動乱とかれらとのかかわり、そして、そのなかでかれらが示した定着への試行のあとをたどってみよう。

アメリカへの六つのルート

 一九世紀末、アメリカでは国内産業が発展し、とくにカリフォルニアを中心とした中西部では深刻な労働力不足が続いていた。そのため、東はヨーロッパから、西はアジアからアメリカをめざす移民が殺到することになる。多い年で百二十万人、少ない年でも七十万人が入国している。ただ、同時に、こうした膨大な移民の流入によって人種的民族的軋轢やそれをともなった社会問題が起きはじめ、とくにカリフォルニアを中心とした西海岸諸州では失業者の増大が移民との間に民族的感情をも含んだ激しい対立を巻き起こすまでになっていた。そこで、アメリカ政府は、一八六二年を最初として六九年、七五年、九一年と入国者数を次第に制限していく。ことに八五年二月には外国人契約労働者の入国が全面的に禁止され、さらに八八年には移民法修正によってスコット法が成立、中国人労働者の入国が全面的に禁止されている。そして、九一年の改定移民法によって外国人移民の入国がさらに厳重に制限されることになる。

 こうしてアメリカ本土への入国が厳しくなったため、日本からの移民はいったんハワイに渡り、そこからアメリカ本土に転航する、いわゆる再転航が多くなるのだが、メキシコへの移民もそうしたアメリカの入国制限に対する代替策として生まれている。移民会社はアメリカに代わる手数料稼ぎの移民地としてメキシコを見たのだった。だが、一九〇七年二月にはハワイ、パナマからのアメリカ本土への入国が禁止され、さらに三月にはカナダ、メキシコからの入国も禁止されてしまう。いわゆる、ハワイ、カナダ、メキシコからの転航禁止の措置だが、それによってメキシコへの大量送出は終わっている。

 すでに見たように、一九〇一年前後から一九〇七年までの約七年間に日本からメキシコに入った日本人移民は約一万人。もちろん、すべてではなかったが、そのうちのかなりの者がその目標をアメリカへの転航においていたといってもいいだろう。一九〇七年、メキシコ公使にあった荒川巳次は林外務大臣宛公信のなかで次のように記している。(「墨国政府ノ移民上陸拒否ノ態度ニ関スル件」)

「来墨移民は其本邦出発の時に当り渡航費其他雑費等約百五十円を投じて移民募集に応じ、而して渡墨に際して多数の移民は入米の目的を以て概算一、二百円の旅費或は少くも五、六十円を携帯し、着墨後幸にして入米し得たる少数移民のほかは皆之を浪費するの止むなきに至る」

 かれらはアメリカ密入の路銀をあらかじめ用意して渡航したのだった。もちろん、移民会社の誇大募集広告に翻弄される者もいただろう。しかし、いつの時代にも、民衆の生きることへの嗅覚は鋭い。移民会社が誇大宣伝を続けていたとしても、かれらはそれをまともに信じてはいなかった。メキシコ移民の場合、ほとんどはその出発前からメキシコが有望な稼ぎの地になるとは考えていなかったようで、悪くて即日、良くて契約の二年間でメキシコを去るつもりでいた。

 だか、一方で、その存立のためには一人でも多くの移民を送り出さねばならなかったのが移民会社で、逆に、移民たちの思惑を逆手に読み、需要を大幅に超えた募集広告をかけていた。荒川は同じ公信のなかで次のようにも述べている。

「コリマ地方鉄道工夫の如きは、傭主側に於ては千人を要する趣を以て供給方を大陸殖民会社に計りたるに、同会社は其就労地の地勢、気候及其他の便宜上の点より到底移民の永住せざらんことを予想し、補充として輸入すべき移民の数を繰入れ三千名の供給をなしたるものの如く。しこうして会社は各移民より規定手数料及旅費の幾分を利し、契約地に到着したる後移民にして就労を欲せざる者あらんが、之が行動を自由にし専断を以て解放し負傷者其他病者に対してもく医薬の支給もなく、仮言すれば会社はむしろ移民のすみやかに逃亡し補充を輸出するの期を早めんことを期待するものの如く、且又甚しきに至りては、既に船中より解傭を約し置き上陸地に於て直に彼等を解放するが如き事実有之旨種々の方面より聞及び居り。既に本年六月上旬渡墨したる大陸殖民会社取扱鉄道工夫の如きは、マンサニーヨ港に於て一時に百三十八名の移民を解放したるが如き、其一例として見らるべく候」

 いわゆる、水増し送出とコリマ移民の「解雇」についてのものだが、逃亡を見込んでの水増し送出はおろか、さらに、移民たちがなけなしの金銭として腹懐の奥深くしまっていた「携帯金」までも移民会社は狙っていたのだった。船中あるいは上陸後の「解約金」の額は、そのときの随行監督の意志次第だったが、一九〇六年の大陸殖民による第九回移民の場合は二十円だった。こうして、解雇された者のほとんどは着の身着のまま無一文となり、途中、さまざまな困難に遭いながらも、アメリカへの密入国を目標に北の国境地帯に向かうことになる。

 メキシコとアメリカとの国境線は長いが、密入国のルートはそれほど多くはなかった。まず、東の方から見ていくと、北東部タマウリパス州のヌエボ・ラレドからラレドに入るルートとコアウィラ州ピエドラス・ネグラスからイーグル・パスに入るルート、次に中央部チワワ州シウダー・ファレスからエル・パソに入るルート、いずれもリオ・グランデを渡るルートである。そして西北部のソノラ州ノガレスから山岳地帯をツーソンに抜けるルートとバハ・カリフォルニア北部のメヒカリからエル・セントロやサン・ディエゴに至るルート、さらに、海路マンサニージョやマサトランからカリフォルニア半島太平洋岸の付け根のエンセナダに入り、そこから山越えでサン・ディエゴに至る六つのルートだった。

 このうち、一九〇六、七年に多かったのがヌエボ・ラレドからラレドへのルートとピエドラス・ネグラスからイーグル・パスへのルート、そして、シウダー・ファレスからエル・パソへのルートだった。一九〇六年暮れから七年はじめにかけての二、三カ月間に、これらのルートをたどってアメリカに密入した日本人移民は千人を超え、テキサス州サン・アントニオには五百人から六百人のメキシコからの日本人移民が滞留していたという。目的はカリフォルニアにあったのだが、そこに至らぬまま流浪を続けていたのだった(三・八・二・一六「テキサス州サンアントニオ市ニ於ケル日本人捕縛ニ関スル件」)

 また、さらにこのテキサス州やエル・パソからニューメキシコ州を経て北部のコロラド州やネブラスカ州、モンタナ州にまで至る日本人移民も少なくなかった。『インターマウンテン同胞発達史』はそのなかに数人のメキシコからの日本人移民の氏名と功績をあげているが、そのいずれもが一九〇五年から八年にかけてメキシコに移民している。また、伊藤一男著『北米百年桜』もメキシコ移民のアメリカ逃避行の聞き書きをいくつかあげている。同書のタイトルは「北米」だが、内容においては両アメリカ大陸の日本人移民の歴史を包含する、日本移民史上またとない貴重な史料としてラテンアメリカの日本人移民史研究に欠かせない一書になっている。

「私たちはメキシコのサリナ・クルス港に上陸して間もなく、仲間五十人で集団脱走をはかった。日本から柳行李に身の廻りの品をあつめてもっていったが、身軽になるため、身一つで逃亡した。メリヤスの下着に裾の短いハッピのような着物姿、地下足袋をはき頭に手拭でほおかむりをした。いま思えば、きわめてちんチクリンな姿だった。そんな格好でメキシコとアメリカの国境地帯を逃げまわった。一帯はシャボテンが密生しているので、もも引きを通してシャボテンのトゲが刺し込んだ。時には砂漠に生い茂っているシャボテンを番人と見まちがえ、何度も息をのんだ。私たちはこうしてなおもアメリカの国境へ向かった。食糧は昼間、目をつけていた畑に夜しのびより、カボチャ、トマト、キュウリ、ポテトなどを失敬して、人家から遠く離れた山間で火をたき料理して飢えをしのいだ。もっとも困ったのは水であった。炎熱の砂漠地帯で水のないのは死ぬほどつらかった。私たちは、時折やってくる土砂降りの雨をカン詰めの空き缶、空ビンなどにうけてかわきをいやした。それでも足りなくなると、馬のヒズメの跡にたまった雨水まですすった。途中で捕まらずになんとしてもアメリカに入りたかった。こうやって二週間の野宿を重ねた脱出行の果て、私たちがたどりついたアメリカは、テキサス州イーグルパス市であった。入米査証も何もなかったが、二十ドルの見せ金があれば、容易に入れてくれた。けれど私たちのなかで米貨で二十ドルもっているものは、わずか四、五人しかいない。私たちは見せ金を次々と手渡して、なんとか国境を越えることができた。思えば、生命がけの脱出行だった」

 ネサ・斉藤福平氏の話だが、かれは一九〇六年十二月、神戸港を出発、東洋移民合資だったのか、あるいは熊本移民合資だったのか、炭坑移民としてメキシコにやってきた一人だった。同書によれば、その後、イーグル・パスで東洋貿易が斡旋していた鉄道工夫の募集に応じ、モンタナ州のハーバーに移って鉄道工事に就労している。

 かれらがこうした東よりのルートをとったのは、その多くがメキシコ湾に近いベラクルス州のブエナ・ビスタやオアハケニャなどの砂糖耕地や、北部コアウィラ州のラス・エスペランサス、フエンテなどの炭坑からの流れ者だったからで、当時はアメリカ側の警備も比較的緩やかだったことも大きく影響していた。しかし、転航禁止と紳士協約以後の一九〇七、八年を境にアメリカ側での警備は厳重になり、密入ルートは次第にノガレスからツーソンへのルートとメヒカリからのルート、そして、エンセナダからのルートに移っていった。

 もちろん、かれらは何の情報もなしに北に向かったわけではない。当時、メキシコ・シティやマンサニージョ、マサトランといった中継地には密入斡旋の情報を流して荒稼ぎする者がたくさんいたし、北部国境地帯には道先案内を生業とする者もいた。

 一九〇七年当時、ピエドラス・ネグラスには南部オアハケニャ方面からやってきた日本人移民だけでも二百人に達し、かれらを目当てにした密入国斡旋人も集中していたが、斡旋人のなかには大きな家屋を借りて日本人移民たちを宿泊させ、私書箱までも設けて、かれらと日本の家族との連絡を代行しながら手数料をとっていた者もいたという。仲介料とも呼ばれた手数料は二百ドルという大金だった。そのため、手持ちのない移民たちは郷里やアメリカの知人に援助を頼み、為替で送金してもらうことになるのだが、斡旋人たちのなかには私書箱から為替を抜き取る者もいた。大陸殖民の第九回移民の一人池田実蔵(鳥取県出身)も郷里から送金を受けて斡旋人の一人に仲介を頼んだが、仲介人はその金だけを受け取ったあと姿をくらましている。まんまと引っかけられたわけで、斡旋人となった者には、かれらを募集、送出した当の移民会社の関係者やアメリカからメキシコ国境にやってきた日本人移民、そしてかれらと同じか少し以前にメキシコに入った先行移民もいた。

南からの転航者たち

 一方、バハ・カリフォルニアのメヒカリからのルートが使われるようになったのは一九一〇年代に入ってからのことだった。北をめざす日本人移民は次第に東側のルートを避けたことと、ペルー、パナマからの転航者たちは東洋汽船の南米航路を利用してメキシコに入ったからだった。このルートの成功率は高かったが、自然条件は厳しかった。

 南からの転航者の多くは、まず南部オハカ州のサリナ・クルスあるいは中部コリマ州のマンサニージョに入った。そして、あとは陸路をとり鉄道でメキシコ・シティあるいはグァダラハラを経て北に向かうか、さらに海路をたどって北のシナロア州マサトランあるいはソノラ州グァイマスに上陸する場合もあった。後者はさらに海路を北に向かう者と、北方のエルモシージョからは陸路を行く者とに分かれた。直接、コロラド河口から遡航する場合を除いて、いずれのルートをとってもメヒカリに至るには、その手前で広大なアルタル沙漠を越えコロラドの激流を渡らなければならない。だが、たとえそれに成功しても、先にはメキシコ官憲が待ち受け、バハ・カリフォルニア州に入るには百ペソの入州税を払わなければならなかった。当時、アメリカのカリフォルニアからメキシコへの日本人移民の南下の動きが激しく、メキシコ政府はアメリカに接したバハ・カリフォルニア州を直轄州に指定、北の「巨人」の動きを警戒して軍事的、経済的に厳重な入州規制をとっていたからだった。

 一九一〇年代まではペルーやパナマではメキシコへの入国査証は容易に手に入れることができた。だが、その数が増えるにつれ、日本政府の指示もあって東洋汽船の南米航路の現地代理店もメキシコ行きの切符は取り扱わなくなった。密入国の増大がアメリカとの政治経済関係に影響することを恐れたからで、それに対して東洋汽船がとった妥協策が横浜までの切符の発券だった。日本行きの切符さえ買えば途中での脱船は黙認するというのだった。

 それでは、村井謙一の『パイオニア列伝』から数人を選び、それぞれの北行のあとをたどってみよう。村井は一九〇一年、滋賀県伊香郡高月町の生まれ。母に早く死に別れたため父子二人の辛苦の暮らしだったが、彦根中学から旧制大阪高等商業(現、大阪大学)を卒業、その間、過労で結核を病みその療養のためにチアパス州タパチュラの辻真の呼び寄せでメキシコにやってきたのだった。その後、ベラクルス州のオリサバで洋品雑貨店をはじめた。この『パイオニア列伝』の記録を思い立って取材をはじめたのは一九七〇年のことで、以後、七五年の他界までメキシコ各地に八十歳を超える古老を訪ね歩き、その数は百五十人を超えている。

 のちにサンルイス・リオ・コロラドで棉作の名人とうたわれる湯野米記(熊本県)は二十二歳でペルーに渡航、チクリン耕地に入っている。知人たちの多くは金を貯めても保管するところがないため大きな金庫をつくって、鍵を日本人監督に預けていたが、監督に有り金いっさいを持逃げされてしまう。だが、かれだけは囲炉裏の灰のなかに埋めて隠していたため難を逃れ、その貯えでアメリカ密入に挑戦できたという。カジャオから東洋汽船の安洋丸に乗ったが、運よくサリナ・クルスで上陸がかない、徒歩と汽車でエルモシージョに入った。偶然、そこで小学校の恩師に出会ったという。

 山本好平(静岡県)はチリからの転航者だった。チリに渡ったのが一九一七年だったというから、メキシコに入ったのは一九一八、九年のことだろうか。最終目的はアメリカ入国で、中継地としてのメキシコ行きの機会をうかがっていたところ、偶々、知人の床屋の紹介でメキシコ名誉領事の特別サインをもらうことができて乗船、サリナ・クルスに上陸したが、一週間ほど収容所に拘束されたという。

 また、堤三兄弟の長兄の堤三吉(福岡県)もチリからの転航者だった。父は北原白秋の師だったという。向学、知識人としての誇りが高かったのか、家計はいつも火の車だった。その脱却から、知人を頼ってチリに渡る。といっても、やはりアメリカはあこがれの地だった。バルパライソから南米航路でサリナ・クルスに上陸。グァイマスで小舟を雇ってコロラド河を遡った。そして官憲の眼を逃れて棉園に潜入、そこで働いているうちに、仲間は次々とアメリカに去り、一人、メキシコに残留することになったという。

 一方、アメリカへの渡航を目的に、その試みとしてペルーに渡った青年たちも少なくない。

 大塚三平(福岡県)がペルーに渡ったのは十八歳のときだった。イギリス系の製糖会社の砂糖耕地に入ったが、一年間続けて就労すればあとは自由で、日本では一日二十銭の賃金がペルーでは一円五十銭だったという。労働者五百人で、半分は開墾、残りは砂糖黍の伐採という分担だった。地味は肥沃で砂糖黍はよく育ったが、圧搾機械がよくなかったから生産が多いと捌ききれない。そのため大量に伐採しても、それに見合った賃金がもらえずストライキをはじめた。ところが会社側と交渉しようにも言葉がまったく通じない。そうこうしているうちにリマから森岡商会の代理人が出張してきて、日本人全員を耕地から追い出した。その後、チリとの国境付近まで職をさがして歩いたがありつけず、仕方なく、初志通りアメリカ行きを試みることにしたという。

 小沢貞太郎(山梨県)は二十六歳でペルーに渡っている。最初は十数人の仲間がいたが、いつのまにか五人になり、申し合わせたように逃亡の話をするようになったという。具体的な方法は耕地の先行移民から聞いている。先行移民たちはそれを知りながらとどまっていたのは妻子がいたからだった。逃げるに逃げられなかったという。だが、一方で、うまく後続者を逃がしてやれば、その残した所持品が手に入るというおこぼれもかれらにはあった。砂糖耕地は広大だったから、毎日、キャンプから汽車に乗って向かうのだが、速度を落とすカーブのところで汽車から飛び降り、キャンプに戻り、荷物をまとめてカジャオに出た。だが、いつ追手がやってくるとも知れない。そこでいったんリマに戻り公園の音楽堂で働きながらスペイン語を修得する。そうして一年後に横浜行きの切符を買って東洋汽船の靜洋丸に乗ったという。メキシコからアメリカに密入するのを警戒していた東洋汽船の代理店はメキシコ行きの切符は売らなかったからだった。

 パナマに寄港したところで、親しくなった一人の船員にメキシコ密入を明かした。すると、点呼のとき一番後ろに並んで事務長に頼んでみろと教えられ、そっと話してみると、はしけがきたらそれに飛び込めと耳打ちされた。それからは、いざというときに海に落ちて鱶の餌食にならないよう、毎日、甲板で飛び込みの練習ばかりしていたという。ところが、サリナ・クルスに着いて船が錨をおろすと艀は次々とやってくるが、船員の監視が厳しくてなかなか決行できない。と、出帆の汽笛が鳴ったので、意を決して甲板を助走、艀に飛び込んだという。

 艀の船夫は荷物の下に隠してくれた。そうして身を潜めていると、上の方で「小沢さん」と呼ぶ声がする。同じ船にいた女たちだった。港のメキシコ官憲に袖の下を使いたいのだが、所持金を腰に巻き付けていて、すぐに出せないので立て替えてくれという。こうして上陸したあと、街を歩いていると「君たちは日本人だろう」と後ろから声をかけられた。靜洋丸の船長が手配してくれていた案内人だった。地獄で仏にあった気がしたという。

 梨木友喜(熊本県)は二十五歳でペルーに移民、契約期間を満了したので会社からは報償金をもらっている。それを元手にリマで商店を開いたがスペイン語がわからず経営も大変だった。そこで、同じ苦労するならと、当初の目標通りアメリカに行こうとサリナ・クルスで脱船した。

 そのほか、二十二歳でペルーに渡り、三年間耕地で働いた本田市太郎(熊本県)や、二十六歳でペルーに入り一カ月もたたないうちに仲間十八人とサリナ・クルスに引き返したという三保喜代造(広島県)、また、二十八歳で妻子を郷里に残して単身ペルーに渡り、約一年、砂糖耕地で働いたあとサリナ・クルスに舞い戻ったという南角七郎(和歌山県)も、アメリカ密入組だった。

 先の佐藤今朝蔵が就労したペルーの砂糖耕地には四百人前後の日本人移民がいたというが、病魔を恐れながらも、そのすべてが四年の契約期間を勤め終えたあと、ペルー船がメキシコに寄港することを風の便りに、それを使ってメキシコに転航している。サリナ・クルスではペルー船だったため移民官に取り調べられることもなく難なく入国できたという。

 一方、典型的な逃亡、そして脱船によるメキシコ入国をやってのけたのが藤吉復(福岡県)だった。二十七歳でペルーに移民、砂糖耕地では人の腕ほどもある五メートルにも達する砂糖黍の伐採を一年半にわたって続けたが、あまりに酷い待遇に堪えきれず、百六十人一団となってメキシコ行きを企てた。

 まず、メキシコ行きの切符を買って船を待った。そうして、いよいよ明日、船がやってくるというので一同うきうきしてカジャオの街を見物して歩いた。ところが船はメキシコには寄港せず日本に直行するという。東洋汽船の代理店にたしかめに行くと、さらに船賃二十ペソの増額と、五ペソの通行税も必要だという。一同は憤慨し机や椅子をぶち壊す乱闘騒ぎとなったが、領事の仲裁でなんとかおさまり、指示通りに横浜行きの切符を買って乗船した。サリナ・クルスに入ると、臨検にやってきた移民官は少額の袖の下で、手をとってまでボートに乗せてくれたが、日本船の船長と事務長が上陸許可をくれず、またボートから引き戻された。佐藤たちは、二人を殺すと息巻き、これには水夫が中に入ってようやく上陸許可を得たが、今度はメキシコ官憲が上陸を拒否。しかたなく脱船の腹を決め、船の周囲を小船が回航するのを目がけて飛び降りた。と、今度は小船にモルデロン(収賄役人)が次々と五人もやってきて、岸に横付けされたときには有り金はすっかりなくなっていた。

 若い頃からアメリカ行きを夢見ていた大熊貞蔵(福岡県)はその試みとしてまずペルーに渡った。そして、契約の一年を終えたあとアメリカ船でパナマに入り、ほかの六人とともに松本三四郎の農園で働き、さらにメキシコに向かっている。ただ、誰一人としてメキシコ入国の査証をもっていなかったため、メキシコに近づくにつれ心配で眠れない夜が続いた。なのに、一人大熊だけは毎晩高鼾たかいびきで眠りこけ、「なあに、あるだけの金を移民官にばらまいて、それでも上陸できんかったら海に飛び込むだけ」と嘯いていた。幸い、計画は成功してマサトランに上陸。そこで医師をしていた清水斉雄に救われた。金は一銭もないがメヒカリからアメリカに密入するつもりと明かしたかれらを、清水はホソレという小さな駅に鉄道工夫として紹介。そこで約三カ月働いたかれらは、鉄道工夫の運賃割引を使ってグァイマスに出て、さらに船を雇ってコロラド河口に向かったという。

 高橋運吉(宮城県)は二十八歳でペルーに移民。カジャオ近くの棉作耕地に就労、契約を終えたあと仲間五十五人といっしょに領事館に押しかけ、メキシコ行きの旅券下付を願い出たが一蹴された。だが、契約を満了している以上、行動は自由と教えられ、横浜行きの切符を買ったのだった。マンサニージョに寄港すると、内乱で辺り一面焼け野原になっていたため、アメリカ密入の決意を新たにしたという。

 大塚三平(福岡県)は滞留十年のペルーをあとに、一九二〇年サリナ・クルスから近海汽船でマンサニージョに入り、あとは鉄道でグァイマスに向かった。だが、内乱直後のことでクリアカン付近で鉄橋が破壊されていて先に進めず、列車は水のない河原に下り砂利の上を徐行して進むという珍風景だった。そうしてグァイマスでコロラド渡河の方法をあれこれ考えた。

 以上はアメリカへの密入を目的にメキシコに入り、そのまま北に直行してコロラドに向かった例である。だが、密入の資金がない場合は、まずそれを稼がなければならなかった。

 二十四歳でペルーに移民した村上嘉蔵(熊本県)の場合、砂糖耕地に五年間就労したあとメキシコに転航。サリナ・クルスからソノラ州のナコサリ鉱山に入り、三年後、アメリカ密入のためにメヒカリに向かっている。

 メキシコへの転航者のほとんどはアメリカへ密入が目的だったが、もちろん最初からその意志がなかった者もいた。筆頭は松本辰五郎(東京都)だろう。

 松本には逸話がある。一八六九年、日本にやってきたドイツ人富豪のヘーレンは一時帰国したあと、ペルー駐在のドイツ領事館員となり、その後、バドロー大統領の姪と結婚して中央銀行の総裁になっていた。と同時に北部に大きな農場を経営していて、そこにいた井上賢吉を通じて日本政府にカラワクラ鉱山の銀鉱石の見本を送り、開拓資金と労働力の提供を要請した。これに対し、前山梨県令藤村紫朗や実業家の小野金六などが資本金五十万円の日秘鉱業株式会社を設立、一八八八年には、当時、特許局長だった高橋是清を派遣した。しかし、良鉱と知らされていた同鉱山もじつは廃鉱であることが明らかになり事業は失敗した。「ペルー銀山事件」として語り草になっている詐欺事件だが、そのとき造園部の主任として同行したのが松本だった。

 メキシコの日系社会に残した松本の功績についてはのちに述べるが、その後一八九〇年にはメキシコに移り、一時、ハルディネロをしたあと、イスタパラパの広大な原野の一角で牧畜をはじめた。また、メキシコ・シティのコリマ街でも仲間といっしょに造園業をしている。

 木原房吉(広島県)は一九一七年ペルーに移民。約一年ローマ耕地で働いたあと、イギリス船の船員になっているた。ところが、航海中に船が座礁し修理のためにパナマに入ったが、改修に六カ月かかるというのですぐに脱船。パナマ市内で野菜や駄菓子の販売をしていたが、芝山宅五郎と出会い、一足先に出た芝山のあとを追ってメキシコに入りメヒカリに移っている。

 尾花伴吉(福岡県)は一九一七年に二十七歳でペルーに移民。七カ月ほど砂糖耕地で働いたあとカジャオからメキシコ船に乗船、十日後にサリナ・クルスに入っている。すぐにオアハケニャ耕地に移って砂糖耕地で働いたが、労働の過酷さに堪えきれずに逃亡、北部のエルモシージョに向かった。鉄道ではなく船での北行だった。革命の動乱の最中で、列車は軍に徴発されていて、運よく便があっても途中で捕らえられ軍隊に入れられる恐れがあったからだった。サリナ・クルスからマサトランまで十日、さらにグァイマスまで三日、割木を燃料にしていた近海船の足は遅かった。そうしてエルモシージョまでの汽車賃を払えば、あとは食事の金も残らなかったという。当時、エルモシージョはアメリカをめざす日本人のほとんどが通過する街だったから密入の機会は十分にあったはずだが、その後の足どりを見ても尾花にはその気がまったくなかったことがわかる。

 宮城蔵一(沖縄県)は十九歳でペルーに移民、砂糖耕地で三年働いたあとアメリカ船でマンサニージョに入り、さらに北のノガレスに向かっている。アメリカのアリゾナ州には従兄がいたのでそれを頼るつもりだったが、メキシコにいるうちにスペイン語が堪能になり、英語の国のアメリカに行くのがいやになったという風変りな人だった。

 一方、転航でなく、一時帰郷したあとメキシコに入った者もいる。重富京太郎(福岡県)もその一人。先の大熊と同郷で、小学時代からの竹馬の友だった。徴兵忌避のための移民が多かった当時には珍しく、久留米師団に三年間入隊したあと結婚し、家族移民としてペルーに渡っている。たが、妻が発病したため帰郷、妻を野辺送りしたあと、単身メキシコに入っている。その後、メキシコ婦人と結婚、タンピコに移ってレストランを開いた。

 もう一人、木村光太郎(福岡県)も二十五歳でペルーに渡っている。三年の契約を終え、しばらくリマで働いていたが、アメリカ密入を目的にメキシコに移り、さらに、砂糖景気に沸いていたキューバに転航。七年を過ごしたあと帰郷したが、メキシコに再渡航してバハ・カリフォルニアで棉栽培をはじめた。

 そのほか、少しのちのことになるが、ペルーからの転航者には次のような者もいた。

 一九一八年ペルーに渡った畑直記(熊本)は、リマで理髪店を五年間経営したあと、二三年にメキシコに入りメヒカリに移って棉花農場で働いていた。その後、二五年にアメリカに入っているが、六カ月後にはメヒカリに戻って理髪店と棉花農場を経営していた。メヒカリの熊本県人会の会計を十六年間も務めている。

 山岡繁次郎(広島県)は一九〇九年ペルーに渡っているが、数年でメキシコに移り、ベラクルス州ミナティトランのアギラ石油会社で働いていた。

 相沢伝造(宮城県)は一九一〇年にペルーに渡り、砂糖耕地での契約満了のあとアメリカ密入をめざしてサリナ・クルスに入ったが、諦めたのか、チアパス州エスクィントラの清野商店で八カ月働いたあとソノラ州エルモシーヨに移った。リオ・ヤキで農業をはじめたがヤキ族に襲われたこともあった。その後はナボホアで農園を経営している。

 吉崎惣平(熊本県)は一九一四年にペルーに渡り砂糖耕地で一年間就労。アメリカ密入をめざしてメキシコに入りオアハケニャ耕地で七年間食料雑貨店を経営したが、その後、少し南のヘスス・カランサに移って雑貨店のほかに精米・製氷所と酒場も経営していた。日米戦争時にはアレマン大統領の叔父を援助したことから転住を免れている。

 清野勘五郎(福島県)は一九一六年、仲間三人とともにペルーに渡り棉花農場に就労したが、第一次世界大戦の勃発して棉花価格が下落、賃金ももらえなくなったため三人でパナマに転航した。だが、やはり仕事がなく、陸路グァテマラ経由でチアパス州タパチュラに入り、清水銀吉から土地を借りて稲と大豆の栽培をはじめた。しかし、いなごの被害にあって失敗、その後は理髪店を経営している。

 二羽修一(広島県)は一九一九年にペルーに渡り、大統領官邸の調理師助手として一年間働いたあと二〇年にメキシコに入り、メヒカリの棉花農場で働いた。その後、清涼飲料水の製造と酒場を経営していたが、日米戦争でグァダラハラに転住させられ、四四年には夫人がメキシコ・シティのタクバ学園の教師として招請されたため一家で移転、二羽はコントレラスとビア・ゲレロで花の栽培をはじめた。

 外本仁一郎(熊本県)は一九一六年にペルーに渡り、二一年にメキシコに転航。ベラクルス州プエルト・メヒコで食料雑貨店をはじめたが、その後、夫人とともにメキシコ北中部を転々とし、そのとき新潟県出身で東亜同文書院を卒業した指田平陸と出会い、その紹介でグァナファト州レオンに移って食料雑貨店を開き、のちにはホテル経営も手がけている。

 岡本実太郎(広島県)は幼くして両親を失い、伯母のもとで育っている。一九一九年にペルーに渡り二一年にメキシコに転航。メキシコ・シティで運転手をしたあと商売をはじめている。

 三上和佐人(広島県)は先にペルーに移民していた父を追ってペルーに渡ったが、その後、帰郷。メキシコの白木光次郎歯科医師の妹と結婚し、その呼び寄せでメキシコに入り、ベラクルス州ハラパで食料雑貨店を経営していた。日米戦争でメキシコ・シティに転住したあともシティで食料雑貨店を経営していた。晩年は日本メキシコ学院に勤め日本とメキシコの交流に尽くしている。

 船津卯八郎(長崎県)は一九一一年にペルーに渡り、数年後にメキシコ転航の希望を日本領事館に伝えたが、ペルーで食えぬ者がメキシコで食えるかと一喝された。だが、一念奮起、単身メキシコに入り、厩舎の清掃夫や竹細工見習工と職を転々としたあと、松本三四郎の花園に入った。そこで大工技術を身に付け、のちには放送局の建築を請け負い、消音効果の絶妙な建物を造って有名になっている。

魔のアルタル沙漠とコロラド渡河

 ペルーからの転航者たちのほとんどはメキシコに入るとサリナ・クルスで下船、あとはマサトラン行きの船を見つけるか、あるいは鉄道で国境をめざして北行したことはすでに述べたが、どちらにしても、その後は、カリフォルニア湾に沿って北上し、西にアルタル沙漠を越え、コロラドの激流を渡って国境に向かうというのが一般的なルートだった。アルタル越えのルートは広大な沙漠が続いていたから警備も比較的手薄になっていた。

 アルタル沙漠は現在でも沙漠というより荒野というに等しい。果てしなく広大な荒野のなかに岩山が点在し、ところどころに三十センチ前後の潅木や、電柱ほどもある柱サボテンが自生しているだけで、もちろん杣道さえもない。潅木をぬい、鋭く尖った岩角に足をとられながら四十度を超える灼熱のなかを行く。かと思えば、陽が落ちると急に冷え込み、たちまち身も凍る。途中、二、三カ所に水を溜めた広い湿地もあるにはあるが、それも雨期に降ったのがそのまま残っているというだけのものである。

 この沙漠を渡るときは、五、六人でグループを組み、ルートに詳しいメキシコ人の案内人を雇っている。だが、ときには案内料だけをとられて沙漠の真ん中に捨て置かれることもあった。また、案内料も高額で、払えない者はただ自らの勘を頼りに踏破を試みるしかなかった。途中、水がなくなると、小便を飲んだり、泣きわめく子どもには腕を切って生血を飲ませながら彷徨い歩いたという話も伝えられている。魔のアルタル沙漠と呼ばれて移民たちに怖れられた。

 そして、運よくアルタル沙漠を踏破できても、先にはコロラドの激流が待っていた。多くは現在のサン・ルイス・リオ・コロラド付近からコロラドを渡っている。当時は一軒の家屋もなかったというが、いまや人口も二十万の国境の町で、住民は有刺鉄線の向こう側にも買物に出かける。また、コロラド川もいまは大きな橋がかかっているが川床には水がまったくない。たとえば、メヒカリから車で走れば、広漠たる風景にばかり眼を奪われ、どこに大河があったのかまったく気づかずに通り過ぎてしまう。しかし、日本人移民が渡ったのは上流にフーバー・ダムが完成する以前のことだった。水量が多く、不気味な深淵をためた大河だったという。コロラドとは、色のついたという意味だが、かつてはそのように赤茶けた水が渦巻きながらカリフォルニア湾に滔々と流れ込んでいた。緩やかに見えるのは水面だけで、なかの流れは激しかった。そのため、足をとられ流れに呑込まれていった者も少なくなかった。対岸に泳ぎ着くのは容易なことではなかっただろう。だが、バハ・カリフォルニア州への入州税百ペソを支払う余裕のない者は激流を渡る以外、手がなかった。村井は詠っている。

 生命かけ泳ぎかねつつ溺れ行く

 同胞呑みし河は涸れ果て

 そのかみは竜波狂いしコロラドの

 河に水なくおどろしげりて

 かれらはどのようにしてこの難関を乗り越えたのか、まず、海路からそれに挑んだ先の高橋運吉の場合を見てみよう。

 ペルーにいたときから、先に密入した仲間から送られてきた地図を見て、コロラド付近の地形を十分に研究していたという。そこで、近海船を雇ってコロラド河を遡航、やがて下船地点を確かめた上で船を右岸につけるよう指示すると、船長は、この辺では左岸につけないと処罰されると拒否した。だが、左岸に着けられたのでは命がけの渡河をしなければならない。一同五十五人は有り金いっさいを集めて船長に握らせ説き伏せたという。そうしてメヒカリに向かって歩きはじめたが、半日の行程と聞いていたメヒカリが二日を過ぎても見えない。一行中には九歳になる少女もいたが、それを先頭に毎日水だけで歩き続けた。そして三日目の夕方、沼地にたどり着いたところで、野営していた駐屯兵に見つかり、翌日には国境の街ティファナに護送されることになったが、夜半に兵隊たちが居眠りをしはじめたすきを見て抜け出し、日中は涸れた川床に身を隠し、夜に歩き続けたという。「金星を見失うな」が合言葉だった。

 一方、陸路を選んだ者は、海路より数倍もの苦難を強いられている。

 玉井重吉(和歌山県)は大陸殖民第九回移民の一人だった。おそらくサリナ・クルス上陸後すぐに仲間と北に向かったのだろう。約四千キロを北行、陸路アルタル沙漠を踏破してコロラド渡河に挑んでいる。あちこちに点々と日本人移民のそれと思われる土饅頭があり、白骨も各所にころがっていたという。そうして三日三晩歩き続け、うようにしてコロラド河畔にたどり着いた。だが、同行には女性がいたため、まず筏をつくった。それを裸になった四人が担いで暗黒の激流を渡ったという。先の堤三吉もその一人だが、この玉井と同じコースをとってコロラド河畔にたどりついた日本人は二千人を超えていただろう。ただ、その先を激流に呑まれて命を落とした者も少なくなかった。

 一方、グァイマスで小舟を雇った大熊一行七人はコロラド河口を遡航。ところが、着いた岸には銃を持った州兵が待っていた。アメリカへの密入国目的の日本人は続々やってくるので扱いには慣れている。すぐさま捕縛され、入州税を払えなかったかれらはそのまま投獄されている。ただ、投獄といっても別に収監の建物があったわけでもなく、罰は強制労働で、夜は野原の刺立った乾草の上に寝かされ、昼は炎天下で四十日間働かされて釈放されたという。おそらくメヒカリ、ティファナ間の道路建設に駆り出されたのだろう。

 だが、この魔の河を難なく渡り終え、無事アメリカへの密入を果たした者も少なくなかった。小沢貞太郎らペルーからの転航組もそうだった。一行八人(含、女性)はグァイマスから小舟でコロラド川を遡り、前もって手配していた車を待って国境まで走り、仲介人の手引きで難なく国境を通過。その後、メロン畑に潜伏していると、ロサンゼルスまで案内しようという同県人が現われ、途中、何度か困難もあるにはあったがなんとか密入国に成功している。その後、小沢はユタ銅山に日給三ドルで就労、さらにサクラメントでアスパラガス採取の仕事を続けていたが一時帰郷、再びメキシコに戻ってバハ・カリフォルニアにいた。

 もう一例、エルモシージョから沙漠越えでコロラド河畔にたどりついた湯野らチリからの一行十五人の場合は、暗闇のなかコロラドを泳ぎ渡っている。そうして先行密入者の指示通り、早朝、一人を河畔の大きな柳の木に登らせメヒカリ発の列車が上げる白煙を待ったという。メヒカリの方向を見定めるためだった。それが、いつまでたっても煙が見えない。それもそのはず、その日は運休の日だった。そこで、仕方なく三日分のトルティージャを用意して勘を頼りにメヒカリめざして歩いた。そして夕方には、とある村にたどり着いたが、何のことはない、朝方出発したもとの村だった。そこで警備隊に捕らえられ、メヒカリに連行されている。すでに先客として四十人前後の中国人がいたというが、もちろん、明くる日からはティファナ街道の強制労働が待っていた。

 アメリカとの国境地帯、ティファナ、メヒカリ間の、いわゆるティファナ街道は全長約二百キロと、それほど長くはないが、途中、ピカチョと呼ばれる標高三千メートルを越える険峻をいくつも越えなければならない。この厳しい道路開削工事に、百ペソの入州税を払えなかった日本人移民は体刑として送り込まれたのだった。

 一九七四年に村井がそこを訪ねたとき、ルモロサ峠からテカテ方面に二十キロほど行ったところに九十一歳になる塩野弥太郎(山口県)が住んでいた。その印象を村井は『パイオニア列伝』のなかにこう記している。

「文字どおり一望千里、地の涯まで遮る一物もない、曠原の小丘に一軒屋を見つける。(略)朽ちた古門をたたけども答えなく、ついに一行四人声をそろえて開門を求めたら、ようやく一杖を手にする老翁が現われ、われわれ一行には蒼然たる山窟さんくつから出た遁世の仙人としか見えず、慄然とする。(略)なかなか大家であり、かつては発電の装置もあり、部屋にも電灯設備の跡もあるようだが、たび重なる泥棒の侵入を受けて室内の電球や電線まで持っていかれ、七挺の鉄砲もやられて現在はピストル一挺となり、『一対一の喧嘩なら今でも絶対に負けぬ。そして俺は、百歳までは必ず長生きするぞ』と豪語せらる。一見するところ、屋敷にも山野にも一滴の水気もないので、『水はどうして求められますか』との答えは、おりおりテカテ市からピーパー(給水車)で売りに来るから、一ドルずつ買うんだとのこと。(略)今を去る六十七年の昔(一九〇七年)琴戸丸(琴平丸)で二十八日かかって太平洋を渡り、サリナクルースに上陸する。北上してコアウィラ州のオンド炭坑で一カ年頑張り、さらに一転してチワワ市に行き、有志と語らい万才、柔道、歌舞伎中心の芸団を率い、木戸を取って栄えていくので入団希望者も増加したが、おいおい山の部落の興業となっておちぶれ、解散してしまった。入国四カ年にして結婚して、メキシカリに腰を落ちつけ棉作りに努力したが、志すところ、考えるところがあり、この絶海の孤島に等しい無人の荒野に身を沈めた」

 かつて、自身もアメリカへの密入国を図ろうとしたことがあったのだろうか。多くの仲間の生命を奪ったその荒野に身をおくことでかれらへの鎮魂を続けようとしたのだろう。心中、村井は、「杖により 百まで生きると豪語する 翁いたわれ高原の風」と詠って別れを告げている。

 また、こうしたアルタル、コロラド越えの一方で、南からの日本人移民がよく使ったのが、バハ・カリフォルニア州のエンセナダからの山越えルートだった。一九一二年二月、当時はリマ日本領事館の事務代理をしていた伊藤敬一は、アメリカへの密入を計画していた一人から、その密入を促す先行移民が送ってきた、山越えルートの詳細を記した手紙を手に入れている。(「墨国ヨリ北米ニ転入スル経路ニ関スル件」)

 それによれば、海路ペルーから、まず、サリナ・クルス、マンサニージョ、マサトランを経てエンセナダに上陸し、その後は約五十キロの山道を馬車を雇って国境の町ティファナに入り、そこから国境を越え、あとは東に間道をとってサンディエゴに向かうという方法だった。マサトランとエンセナダ間の船賃は下等で四十ペソ、ティファナまでの馬車賃は十二ペソで、エンセナダとティファナ間の山越えは、ほぼ中間のエル・デスカンソを過ぎた辺りからは馬車を降りて山道を歩いたという。また、ティファナからカリフォルニア州に入る間道は昼間は隠れて夜に歩くが、蜜柑畑やレモン畑に隠れるのは危険だとしている。監視の的となっていたからだろう。サンディエゴにたどり着いたかれらが飛び込んだのは日本人が経営していた藤岡屋という宿だった。

Y夫人の場合

 また、ずっとのちの例になるが、『日本人メキシコ移住史』は、Y夫人(湯野夫人か)の談話として、そのペルーからメヒカリまでの北行の述懐を収録している。かの女たちがとったのはカリフォルニア半島のサン・フェリペから国境のメヒカリという、コロラド右岸をたどるルートだった。

 かの女が両親といっしょにペルーの砂糖耕地に入ったのは一九一三年のことだった。しかし、厳しい気候と苛酷な労働の上に、ことのほか賃金が少なかったことから一カ月で耕地を出てリマ市内の中心街にコーヒー店を開いた。そうしてしばらく過ごすうちに日本人仲間から話を聞いてアメリカ密入を思い立ったという。ペルーからアメリカへの密入が盛んになった理由の一つに、第一次世界大戦によるアメリカでの好景気があった。また、同時期にキューバに転航した者が多かったのも同様で、一九二〇年はじめにかけてキューバが砂糖景気に沸いていたのを耳にしたのだった。

 かの女たち親子四人は一九一六年にカジャオから、おそらく東洋汽船だろう、日本船で出発、サリナ・クルスでいったん下船してメキシコの近海船に乗り換えマサトランに上陸した。そこでペルーで紹介された日本人移民のもとに数日間身を寄せ、さらに近海船でグァイマスを経由してバハ・カリフォルニアのサン・フェリペに向かった。

「途中で時化しけに会い、夜どおし激浪にもまれて乗客はみな苦しみましたが、翌朝になってみると船は砂の上に座礁しており満潮を待ってようやく航海を続けることができました。この航海中のどの辺であったか、大きな海亀がたくさん水面に浮かんでおり、乗組員がこれをもりでついて捕っているのを面白く見物しましたが、それ以後食事には当分の間亀肉ばかり食べさせられたのでした。一行は途中で加わるものが増え、目的のサン・フェリペに着いたときには総勢六十名もの多勢になっておりました」

 サン・フェリペはカリフォルニア湾奥の半島付け根の港町で、北に国境の町メヒカリまでは直線距離にして約二百キロ。そこで密入国斡旋人の出迎えを受け、手数料を前金で払っている。そして、道先案内人を立ててメヒカリに向かった。途中、行程の半ばはカリフォルニア湾から続く湿地帯近くの平坦部を進むが、あとはいくつもの沙漠地帯を越えなければならない。ところが、案内人は驢馬ろばに乗り、かの女たちは徒歩だった。

「飲料水や食料品をできるだけ用意したのは無論のことですが、夜は野宿し昼は炎熱の砂漠を歩いて日を重ねて行くのは本当に決死の旅でした。父は日露戦争で満州に出征した経験者でもありますので、乾飯を十分に用意しましたが、(これは恐らくマサトランの日本人家庭にいたとき準備させたものでしょう)このため同行の人々も大いに助かりました。また飲料水は保身上ほんの少量ずつ飲むもので決して一度にたくさん飲んではならぬと教えました。これは飲み水の節約も大切ですが、そういう地方には良質の水はないので水あたりを防ぐ意味もあったのでしょう。当時、あの方面にはむろん道らしい道とてなく、わずかに馬や土人の通ったあとを辿たどりながら行くので、疲労もひどく日数を重ねるに従いガチャニーリャの少し群生した格好な休み場所で座りこんだまま立ち上がる気力も失い、泣きながら他人の助けを求める者も少なくなかったのでした。そうなると携行荷物の重さに堪えられず段々とそれを捨てていきます。私たちも食べ物と水を残し、衣類などは全部捨ててしまいました。父は疲れた隣人に食べものと喉をうるおす少量の水を与え手を貸して立ち上がらせ勇気づけるのでした。そのとき助けられなければあの砂漠でのたれ死にしたであろうと後日感謝のしるしにと私に衣服を贈ってくれた人もあります」

 実際、この沙漠はメヒカリへのルートのなかではもっとも困難な死の道だった。現在、ロサンゼルスからメキシコ各地に向かう航空便のほとんどがこの上空を飛ぶが、カリフォルニア湾のかなり沖合いに至るまで、バハ・カリフオルニアの北部一帯はすべて真っ茶色の荒野が続いている。

「密行者が砂漠で道に迷わないようそれを目じるしに北上したという、いわゆる『希望峰』は私たちの歩いたこの辺にあったのでした。遠くその小高い山を目指して広漠たる灼熱の砂漠を連日歩き続け、疲労困憊の極、飢渇のため途中行き倒れが続出したという噂がしきりに行なわれたものでしたが、私らのグループもそれと同じコースを辿ったのでした。私たちは沙漠行の途中時に自然木を削って『〇〇県人何某』と書かれた墓標に出会いましたが、通りかかった一行の人々はそれに向かってしばし心からの黙祷をささげて、志を遂げずして不幸異境に散った先輩の冥福を祈るのでした」

 そして、サンフェリペを出発して五、六日たったころ小さな村にたどり着き、付近で野宿し、さらに翌朝、まだ明けやらぬうちに発っているが、三、四時間進んだところで、小高い山蔭に待機していた州兵に捕まってしまう。隊長は「明日メキシカリの監獄までお前たちを護送する。でもこれからは歩きでなくトラックへ乗せて行くから安心するように」と告げたという。

「結局、全員召し捕らえられるためにそこへ案内されてきたわけでした。逮捕護送をがえんじない連中は、夜になると隙をうかがい兵隊から逃げ出そうと、ひそかに父に相談に来る者もありましたが、妊娠中の母や私を連れている私達家族は実際上逃げることもむずかしく、父は兵隊について行って運を天にまかせることに決めました。翌日私たちと行動を共にした護送組は十数名だけになったと思います。ですから相当多数の者が夜のうちに逃走したわけでした。兵隊たちはこそこそ逃げ出す気配を知ると、型のごとく銃を夜空に向けて威嚇発射しながらしばらくこれを追うのでした」

 そのあとかの女たち「護送組」は軍のトラックに乗せられメヒカリに向かったが、途中、日本人が経営していた棉作農場で降ろされた。そして、こう告げられたという。逮捕以来、通訳をしていたのは当時八歳だったかの女だった。それまでは仲間の男性が通訳をしていたが、「逃亡組」に入っていた。

「お前たちはここで働け。そして適当期間内に人頭税納入の手続きをすること、ただし、それを納めるまでは町へ出て行ってはならぬと指示しました。そこはメキシカリの南方十数キロの邦人農園だったのでした。人頭税は三カ月以上滞在する入域者に課せられる直接税で、その支払い証明書を持っていないと不正入国者として処罰されるのでした。アメリカへ密行の計画を結局中止した私たちがそれから太平洋戦争勃発で首府へ強制引揚をするまで二十五年もの永いメキシカリ生活はこうして始まったのでした。それがメキシコ人のわれわれ日本人に対する好意から出発したことはまことに幸運であったと思います。いずれにせよ、あの当時までメキシコ、ペルーなどの各国では出入国規制がまことに穏やかで現場の役人の手心一つでどうにでもなる状況でした。これは新移民法をつくって日本人などの入国を禁止しようとしていた米国の峻厳な取締りと比べ、まことに好対照であったと申せましょう」

 当時、バハ・カリフォルニアへの入州は外国人はもちろん、メキシコ人に対しても厳しく規制されていた。北からの開発を狙った流入者が多かったからだが、入るには百ペソ(当初は三十五ペソ)の入州税が必要で、払えなかった者は道路建設工事現場に投入されたことはすでに述べた通り。ただ、違反者に対しては明確な罰則規定があったわけではなく、そのときの州軍指揮官の裁量次第だった。苛酷なティファナ街道の建設工事に送られることを思えば、かの女たちの場合は、まだ幸運の女神に見放されてはいなかった。

各地に異変あり

 北の国境地帯にメキシコ各地からの日本人移民が集中し、さまざまに密入試行が繰り返されていた頃、少し南のドゥランゴ州との境に近いコアウィラ州トレオンで日本人移民虐殺の噂が流れた。一九一一年五月のことだった。トレオンはメキシコ・シティとシウダー・ファレスを結ぶ縦貫線メキシコ・セントラル鉄道のほぼ中間点にあり、チワワ州、コアウィラ州など北部の経済都市との中継地として経済的にも軍事的にも重要拠点になっていた。このトレオンを押さえれば首都と北部諸州を結ぶ軍事ルートを制圧し、首都以北をほぼ支配下に置くことができたのだった。

 噂というのは同市に革命派軍が乱入した際、その混乱のなかで市民と中国人移民との間に対立、抗争が起こり、中国人移民に多数の死者を出したが、そのとき、日本人移民六、七人も巻添えになったというものだった。結果として、日本人移民は一人も殺害されなかったことがのちに明らかになるのだが、市民、中国人の双方で三百人を超える犠牲者を出したという(「トレオン市に於ケル支那人殺戮並ニ本邦人被害ノ風聞ニ関スル件」は中国人移民の死者は三百三人としている)

 中国人移民がメキシコに大量に流入するようになるのは一八九五年前後のことで、メキシコ各地で盛んになった鉄道建設の工事夫としてアメリカから移った者が多かった。そのためかれらは北部を中心に集中し、当時、一万五千人にのぼっていた。矢田書記生の報告によれば、かれらの九十パーセント前後は中国南部広東省の出身者で、メキシコ・シティにも三千人から四千人のほか、各地に数百人単位で中国人社会をつくり、主に旅館、洗濯店、雑貨店などを経営し、ソノラ州グァイマスでは人口の四分の一を占めるまでになっていた。なかでもトレオンでの勢力はかなりのものだった。

 同市は当時、人口約二万五千人で、うち中国人移民は四百人に満たなかったと思われるが、同市にあった中国人経営の清墨銀行は同市最大の銀行で、また、同銀行は市内鉄道株の大半を所有し、旅館、飲食店はもちろん、同市周辺のセントラル鉄道付近の農場のほとんどがかれら中国人移民によって耕作され、野菜市場はほぼ独占状態だった。清墨銀行の「総理」は康有為で、一八九八年に戊戌のクーデターに失敗して中国を逃れたかれはヨーロッパ、アメリカを経て同市に居を構え、アメリカとメキシコの中国人移民が互いに連絡して組織していた中国革命党の党首になっていた。

 事件はこうした中国人移民の勢力を排除しようとする市民の乱暴も手伝って大量の虐殺になったのだという。当時、同市にいた日本人移民は十一人、そのほとんどが農業労働者や家内労働者だったため市民の間には日本人移民に対する排斥の動きはなかった。そうした一方、同市郊外にいた水野という日本人移民の語ったところによれば、当時、トレオンには一人の日本人もいなかったとし、「虐殺」は単なる噂に過ぎず、中国人移民のなかには日本商品の雑貨店を経営している者がいたため、日本人と見間違われたのだろうという。

 これがトレオン事件といわれるものの大凡おおよそだが、このあとも記録としては残されないまま、各地で中国人移民の排斥、虐殺が繰り返されている。すべての戦争行為に見られるものだが、メキシコ民衆をこうした行動に駆り立てたメキシコ革命とは何だったのか、また、中国人移民ほどではなかったにせよ、その動乱のなかで日本人移民はどう生きたのか、民衆としての移民の眼を通したメキシコ革命のあとをたどってみよう。

 一九一〇年九月十六日、ポルフィリオ・ディアスは「独立百周年記念祝典」を開催し、その付随行事として日本博覧会をメキシコ・シティに誘致、開催した。だが、そうした華やかさとは裏腹に、当時のメキシコ経済は一九〇七年のアメリカでの金融恐慌の呷りを食って深刻な不況にあった。ことにアメリカ資本が大量に投入されていた北部諸州でのそれは酷く、アメリカに農産物を輸出していたメキシコ資本の農場経営者も余波を受け、三十四年もの永きにわたって独裁政治を続けていたディアス政府の無策に対する不満がつのっていた。それに対し、威信の回復をかけ、外国資本のさらなる投資を呼び込もうとしたのだった。

 しかし、北部ではディアスの大統領再選後あたりから次第に反政府行動が活発化し、翌月二十五日にはアメリカに亡命していたフランシスコ・マデロがテキサス州のサン・アントニオで、ディアスの再選無効を宣言したサン・ルイス・ポトシ綱領を発表、ディアス政府打倒の蜂起を呼びかけた。これに応じて立ったのが、チワワ州ではパスクァル・オロスコ、フランシスコ・ビジャ(パンチョ・ビジャ)、少し遅れてモレロス州ではエミリアノ・サパタで、一方、ユカタンや中央高原部でも少数民族の反乱が起こりはじめていた。

 ディアスの再選後アメリカに亡命していたマデロは翌一九一一年一月十三日、エル・パソ付近からメキシコに帰還、最初の戦闘となったヌエバ・カサス・グランデスでの敗戦のあと膠着状態が続いていたが、その後、オロスコ、ビジャの軍隊と合流して、北部の要所でアメリカとの貿易の中継地になっていたシウダー・ファレスを攻略、一方、南部ではサパタのモレロス州の制圧によって戦況が有利に運び、五月二十六日、ディアスはメキシコ・シティを去ってパリに亡命。マデロは各地での反政府行動に助けられて六月七日にメキシコ・シティに入っている。こうしたマデロ革命の成功の直接的な要因として、ビジャやオロスコ、サパタといったまとまった軍事力のほか、メキシコ各地での大小のゲリラ活動があったが、北部での戦闘の裏にはアメリカ資本の援助、暗躍も大きかった。ディアス政権下でその資本を増幅したかれらだが、また、同政権の終焉をも見抜いていたのだった。マデロの最初の戦闘のときのことだろう。一九一一年一月四日付で、シカゴ領事にあった山崎馨一は外務大臣小村寿太郎への公信のなかで同日付けの「レコード・ヘラルド」紙の記事を「真偽は未詳なるもすこぶる興味ある報道」として翻訳、報告している。

「墨西哥北部及ホンヂュラスに銀鉱又は銅鉱を所有する紐育ニューヨーク市俄古シカゴの資本家は昨年来秘かに墨西哥及ホンヂュラスの内乱を醸成しつつありし当地に於て発覚し其結果、数名の有力なる資本家はとおからず合衆国中立法違反のかどを以て検挙せらるべしと云ふ。過日ニューオルレアンズに於て墨西哥叛徒に供給すべき軍器、弾薬を汽船ホルネットに積込まんとする計画は同地官憲の探知する所となり其計画齟齬そごせしが其軍需品は右資本家の供給する所にして、此等の資本家の後援の下に幾多の米人冒険者既に国境を超へ叛徒に投じたりと云ふ。墨西哥に鉱山を有する米国資本家が何が故に同国の内乱を助くるやと云ふに、彼等所有の鉱山に対する墨西哥政府の措置行政に嫌焉けんえんたらず私利をせんするを得ざるが故に、当時チフアフア州の知事にして鉱山を所有するマデロと謀りマデロを大統領候補者に立たしめしが落選したるによりマデロはすぐに叛乱を起し国境に隠し置きたる軍需品は直に叛軍に供給せられ一攫千金を夢む米人冒険者は叛徒の麾下に馳集せりと云ふ。此陰謀にあずかる米国資本家は此目的の為め数百万弗の資金を支出するの用意あり」(「墨国及ホンジュラス国ニ銀、銅、鉄所有ノ米国ノ資本家同両国ノ内乱ニ関スル陰謀一件」)

 どれほどの武器供与があったのかは明らかでないが、こうしたアメリカ資本のマデロ革命への介入が、のちにマデロを倒して政権をとったビクトリアノ・ウエルタの反乱に際しても暗躍する基盤をつくったのだった。コアウィラ州の大農園主として知事も勤めていたマデロは、同州各地に農場や鉱山を所有しアメリカ資本とのつながりも深かった。

 しかし、こうした経済基盤ゆえにサン・ルイス・ポトシ綱領に盛られた諸政策を実行できなかったマデロ政権は地主階級擁護というその性格を露にしたため、南部ではサパタがアヤラ綱領を発して反政府行動を起こす一方で、北部では戦後の論功行賞に不満をもったオロスコが反乱、また、ベラクルスではディアスの甥のフェリックス・ディアスも反乱を起こした。これに対しマデロはビクトリアノ・ウエルタをオロスコ軍の平定に向かわせ、また、ベラクルスの反乱は容易に鎮圧した。だが、一九一三年二月九日、メキシコ・シティでタクバヤの連隊が反乱を起こし、十八日、それに呼応したウエルタがマデロ政権に反旗を翻した。そして、その後はマデロを倒して政権をとったウエルタに対して各地で軍事行動が盛んになる。北部ではビジャのほかコアウィラ州のベヌスティアノ・カランサ、ソノラ州のアルバロ・オブレゴンなどがそれぞれの大農園主、地方政治家としての立場から政治綱領を発してウエルタの打倒に立った。こうしてメキシコは革命の嵐につつまれる。

 当時メキシコの陸軍は約五万人、だが、その後、ウエルタは数回にわたってそれを増備、最終的には二十五万人まで増員している。しかし、それは志願制度によるものに加え、囚人、捕虜なども加えた数字で、実数としては十万人前後だった。また、武器についてはアメリカ、ドイツ、フランスから供与された近代式のもののほか、日本からは三井物産を通じて小銃五万挺、騎兵銃二万五千挺、弾薬一千万発を購入したという話もある。当時、アメリカ、ドイツ、フランスからの借款はかなりの額にのぼったと思われるが、そのほとんどがこうした武器供与と、首都周辺の防衛だけに一日三十万ペソを要したという軍隊への費用(給料)で消えている。

 一方、反政府軍の方でも戦闘能力はほぼ同様の状態だった。最大の軍隊を擁したというカランサ軍でもその兵力は四万前後といわれ、また、その財政は北部資本家の資産没収と地方税によって賄われ、不足を補って不換紙幣が乱発された。そのためコアウィラ州を中心に北部諸州は酷いインフレに襲われ、その兵士でさえも生活に困窮したという。当時のメキシコの軍隊の特徴だが、行軍にも妻子をともない暮らしを続けながら戦っていたのだった。

 こうしてメキシコ各地で戦闘が続き、反政府軍のなかでもサパタやカランサ、オブレゴン、ビジャなどの革命諸勢力からも外れたゲリラ群の活動も激しくなり、メキシコの生産活動は急激に低下する。そうしたなかでさまざまな人種的偏見による事件も続発する。先のトレオンでの中国人移民虐殺事件は外国人移民に対する、そうした事件のごく初期の、そして最大のものだった。

 では、当時のメキシコ各地での日本人移民の情況はどうだったのか、その視察に赴いた日本領事館書記生の報告や、各地の日本人移民からの報告をもとに見てみよう。

南部諸州の日本人

 まず、南部チアパス州エスクィントラでの情況である。

 一九〇六年六月九日付の杉村公使宛照井亮次郎の手紙によれば、当時エスクィントラには日本人移民男女三十八人、またかれらと結婚したメキシコ婦人十三人とその子どもたち十七人、合わせて六十七人が在留していた。少し長いが、小橋岸本合名会社や日墨協働会社などの詳細が伝えられているので引用しておこう。

「藤野辰次郎氏の牧場に於ては布施常松氏夫婦ほかに男女各々一人の日本人ありて牧牛に従事し、目下牛馬三百頭に達し充分経済の独立を得、牧場を維持し更に拡張し得るに至りたる(略)小橋岸本商店も益々繁殖し昨年中に土地四百四十八町歩を購入し商業の外に牧畜をも起して牛馬百以上を飼育し居り候。資本金は四万円に達し候由(略)日墨協働会社も昨年迄に於て土地八百余町歩を購入し甘蔗畑を拡張し百余の牛馬と四十余頭の豚を飼ひ酒精醸造に従事し、農場一ケ年の生産高は壱万円を超過するに至り申候。また別にタパチュラ市に野菜園を開き、之も相応の商売ありて一ケ年五、六千円位の産出を目し候。商業にはアカコヤグワ、エスクイントラ及タパチュラ市の三処に設け一ケ年の売上高六万円に迫り相成候。日本人社員十一名夫等の妻女たる墨国人七名子女十二人有し候、又使役日本人は六名、其妻たる婦女は二名子女四名に御座候。今回更に子女を教育するの目的を以て日本より学校教師を招き候。右は同じく同会社より招かれて渡来する医師と共に既に途中にあり、到着の上はエスクイントラに学校、タパチュラに病院を設くる予定に御座候。た社員間の往復書信は全然漢字を廃しABCを用ひ候処成績意外に宜しく今日迄日本字にて意志を通せる様に相成候。(略)太田蓮二氏の医業も相応に繁盛し墨人のみならず米国人等よりも招かるる程に相成候(略)鈴木若氏はポエブロ・ヌエボ、金山嘉蔵氏はポエブロ・グイエホに商店を開き、何れもDON付にて呼ばるる様に相成候。外に田辺新吉、玉川栄吉の両人は小林殖民地にて各々二十町歩づつ土地購入の約成り、牛約十頭づつを以て充分生活を立ち得る様に相成候。右両人は小生小林直太郎氏の依頼により資本を貸与して経営を試みるものにて今日迄の試験によれば当地に於て牧畜と農業とを兼ねて自身に働くとすれば約六百円の資本にて充分経営の方法を立て五、六年にして資本を返還し得るの見込相立ち申候。其他当地に於て珈琲農場等に於て土工の受負などなしつつあるもの二人、料理人四人有(略)子女繁殖と共に一問題たるべきは教育のことに御座候。し今日のままに放置せば日本殖民地の児童は余り日本語を解せざるものとなるべく何等母国の利益とならざるべしと存候。(略)政府は宜しく教師を海外殖民地に送りて児童に国民的精神の注入を勉めざるべからず。外国人の殖民地にはおもに宗教会ありて精神的指導の任に当るも、吾人日本人は全然之を欠が故に海外殖民をして永く日本的品性と愛国心とを維持せしめんとせば必ずや之に代へて其精神を指導するもの之欠べからず存候」

 最後の部分は教育の問題を論じたものだが、藤野農場や小橋岸本合名会社、日墨協働会社の経営状態のほか太田蓮二など個人の様子も詳しく報告されていて、この時点ではメキシコの政治情勢の変化による影響はほとんどなかったことがわかる。だが、一九一一年を境にエスクィントラにも動乱の波が押し寄せる。

「当村にも昨今一揆起り、本朝二百名ばかり隊を作りて村役場を乗取り、吾々日本人に対し危害を加へんと来る風評も有之形勢を至て不穏なり」

 と一九一一年六月十七日のメキシコ公使宛の手紙に記しているが、この時点では直接的な被害はまだなかった。また、不穏な動きというのは村内でのかれらの位置に対する村民たちの感情から出たものだった。

「常々日本人の一文いちもんなしより仕上げ、日々に発展し行くを羨む村の貧乏人中少しく口ききとも言はるる者は他の仲間を扇動し、それに乗じて何にか利する所あらんとして立たる者にて、其の近くに存る日本人の土地則ち小林氏の名義の殖民地及びAcacoyaguaの吾々日墨協働会社の土地を取戻さんとする事が新起党派の重なる主張にして、新たに祭り上げられたる村長Manuel Moranの如きは我が日墨協働会社の土地の一部を借りて耕作致し居れる者にて、その党員も多数は日本人の土地を借り居る者(略)中流以下の不平者及村の加特力カトリック教の僧侶の扇動の下に立った宗教党にて、以て多くは村の中流以下の者なり。日本人と親密の関係を有する中流以上の者は殆ど加わり居らざる様に見受け候」

 つまり、村の中の不穏な動きとは、もちろんかれらや日墨協働会社を仇的とするのは筋が違っていたにしても、十九世紀半ばに制定されたレルド法などによって、エヒードと呼ばれた共有地を分割され耕作権を失っていった農民たちが、新しい土地所有者となった日本人移民に少なからず反感を抱いていたことがわかる。また、照井たちがメキシコ民衆のどの階層を相手としていたかがわかる件でもある。

 さらに照井はいう。

「吾が会社の所有せるAcacoyagua付近の土地の如きは政府が払下げを為せる際、村人は購求せざりし故、吾々が之を購入せるものなれども、其後村人は僕を恨み銃殺せんと迄」

 かれによれば、日墨協働会社が手に入れた土地というのは、政府が払い下げを行なったとき村人たちは見向きもしなかったため日墨協働会社が購入したのだという論理だった。だが、「払い下げ」の実態はそうではなかった。独立自営農民を創設するという名目で制定されたレルド法だったが、政府はそれは共有地を農民たちの耕作範囲から強制的に「分離」、言葉をかえれば取り上げて「払い下げ」という形で売却したのだった。当然ながら農民たちにはそれを購入する資力はなかった。そのため、もとを正せばかれらのものだった土地の大半が農園主や大小含めた資産家の手に移ったのだった。日墨協働会社の土地もそうだった。日本での明治期の地主制成立の過程もほとんど同じだが、ディアス時代も含めてメキシコ政府が払い下げを行なった土地のほとんどは、こうした農民たちの共有地だった。そして、こうした政策は革命の動乱期を通じ、カルデナスの時代にまで続く。照井たちの土地所有者としての階級ランクはどうあれ、共有地の新たな所有者になったことに変わりはない。現実の行動とはならないまでも村民のなかにはかなりの反感が渦巻いていたにちがいない。

 照井は「吾々日墨協働会社の土地を取戻さんとする事が新起党派の重なる主張」と記し、その不法を訴えているが、たとえば、サパタはそうした農民たちからの土地略奪の歴史を真っ向から否定することを宣言して革命運動に立ち上がっている。かれのアヤラ綱領は大農園主や資産家たちによって取り上げられた共有地を農民たちが自らの力で取り返すことは正当であるとしていた。

 照井は次のように続けている。

「Acacoyagua村のJose Lucianos Antonioと云ふ者の如きは始終日本人所有地に対し不平を抱き他の貧乏人を扇動して、それによりて衣食致し居る次第にて、小林殖民地の監理者として又々当会社の理事長として僕は或意味に於ては今回の一揆の目標中心点に候」

 照井は自らの立場を土地所有者として意識していた。

 一方、革命の動乱は一九一三年九月に北部の拠点トレオンが、また翌年六月にはさらに南のサカテカスがビジャ軍の攻略で陥落したことからウエルタ勢力は一挙に後退し、続くオブレゴンのグァダラハラ攻略とカランサ派のパブロ・ゴンサレスのレオン攻略によって形勢不利を悟ったウエルタは七月二十日スペインに亡命、メキシコは一時だが平穏のときを迎えた。しかし、息つく間もなくカランサとビジャ、サパタとの対立が露になり、以後約二年間、オブレゴンと手を組んだカランサとかれらとの間に巴戦の抗争が続く。そして、両者を退け憲政党を組織したカランサは一九一五年末、権力を手にした。だが、オブレゴンに代表される地方権力は分立したままで政情は変わらず不安定だった。

 民衆感情の悪化が続いたエスクィントラに動乱の直接的な影響が出はじめたのは、こうしてカランサが政権を握った直後の一九一六、七年のことだった。カランサ、オブレゴン対ビジャ、サパタという互いに複雑に絡んだ中央での対立、抗争は地方でも同様の対立となって続き、それが長引くにつれて、政府軍も反政府勢力も、ともに民衆支持を離れた局地活動となって混乱はさらに酷くなっていた。

 以下、一九一七年にチアパス、ベラクルス両州の日本人移民の被害情況を調べて歩いた外務書記生牛尾正雄の報告(「チアパス州地方ニ於ケル日本人被害状況取調報告書」)をもとに、動乱のなかのかれらのようすを追ってみよう。

 当時、チアパス州、ベラクルス州、タバスコ州の三州にまたがる山岳地帯を拠点にカランサ政府に抗いながらゲリラ活動を続けていた反政府グループ勢力は三千人から四千人といわれ、大きくサルバドル・メンデス、イアイアス・アルバレス、クレセンシアノ・ソサ、カストロ・ペレス、アルバロ・アレスなどに指揮されるいくつかのグループに別れていたが、さらにそのなかで、ビリスタ(ビジャ派)、サパティスタ(サパタ派)を名乗ってさまざま小さなグループに分立していた。

 その一つがシンタラパ出身のティルソ・カスタニョンの部隊で、山岳地帯のコミタンや南部の鉄道沿線のトナラ、ピヒヒヤパンなど広範にゲリラ活動を続けていた。また、コンコルディアに根拠を置いていたゲリラ部隊もあって、一九一七年三月にエスクィントラを襲ったのは後者の部隊だった。

 かれらはサルバドル・メンデスを指揮者とした百余りのグループで、ソコヌスコの山岳地帯を中心に活動していたが、十二日早朝、突如、エスクィントラに現われ、刑務所を破壊して囚人を解放したあと村役場に乱入した。だが、防御するにも、以前駐屯していたカランサ派の部隊が住民から一切の武器を没収していたため抵抗のしようがなかった。

「賊徒の首領は商人等に開店を迫りたれば午前七時より何れも店の戸を開きたる処、其の部下の兵士等は我勝ちに各商店に乱入し商品を強奪し始めたり」

 と、ほしいままの略奪で、途中、商店主たちが「首領」に抗議したため一時略奪はんだが、さらに十一時頃、近くの牧場から百五十頭前後のラバを奪ってきたかれらはふたたび各商店に乱入し、「主人、店員のこいを退け商品の掠奪を始めたり。彼等は携帯に過ぐるほど商品を掠奪し其の運搬に不便を感じたるため必要なるものを除く外、往来の貧民共に之を与えつつ」二時過ぎに東のマパステペックの方に退却していったという。かれらが第一に奪ったものは金銭、ゲートル、毛布、ズボン、シャツ、靴、帽子、時計だった。

 一方、急報を受けたウィストラの政府軍部隊は総勢百三十人で午後六時頃にエスクィントラに到着、乱入ゲリラの兵力や退却時間などを聞き調べたあと十三人の守備兵を残し、追撃するといって村を離れ馬を馳せたが、その方向はゲリラが逃げ去った方向とは逆のかれらの駐屯地の方だった。

 だから襲撃は止まない。三日後の十五日、村から七キロ離れたところにあった駅の機関車用の重油タンクを破壊し放火したあと村にやってきた。住民のほとんどは近くの山に避難していたが、ゲリラは十三人の守備隊を追い散らしたあと、住民一人を銃殺し、もう一人を絞殺、そして十三軒の民家に放火、商店に乱入して商品を奪い、隣のアカコヤワに向かった。そこでは村役場や小学校のほか六十四軒の民家を焼き払っている。住民のほとんどは避難していたため身に危害を加えられることはなかったが、無人の商店や家屋などは混乱に乗じた「小盗賊、無頼漢」の破壊、略奪のなすがままだったという。

 この二度にわたる襲撃によって、日本人移民そのものには死傷者はなかったが、商業に従事している者が多かったため物的被害は大きかった。日墨協働会社の被害額は約二万ペソ、小橋岸本合名会社のそれは約一万八千ペソ、ほかに農業や商業に従事していた日本人移民のほとんどが大小さまざまな被害を受け、小橋岸本合名会社の場合は一時閉店を余儀なくされている。

 その後、六月十七日には、コンコルディア方面からサン・イシドロ・ヒルテペックにゲリラが侵入、翌朝までに略奪、放火を繰り返したあと逃走したが、このとき、小橋岸本合名会社の長田泰治と福井惣一の二人が数千ペソの被害を受けている。また、これはゲリラではなかったかもしれないが、エスクィントラ郊外の高田政助の農園(エスペランサ農場)にも十五、六人が現われ物品を持ち去ったという。さらに、二十五日夜には高田農場から北に約一キロ離れたハラパ河畔にあった布施常松の農場にも武装した強盗が現われ、布施をロープで天井につるし上げたうえ、現金と物品を奪って逃走した。

 その後、こうした多人数のゲリラによる乱入、襲撃はなくなったが、混乱に乗じた盗賊の横行が絶えなかったという。また、当時、ウィストラには日墨協働会社が経営していた雑貨店と薬剤部の支店に従事していた六人の日本人移民がいたが、ここには二百五十人前後の守備隊がいたためほとんど被害はなかった。ただ、守備隊の兵士たちが住民の家屋に押し入り食料や日用品をもっていくことの方が多かったという。また、タパチュラには日墨協働会社の薬剤部支店の従業員のほか雑貨店を経営していた者など七人の日本人移民がいたが、ここでもほとんど被害はなかった。

 次に、ベラクルス州での情況を見てみよう。

 当時、ベラクルス州にはテワンテペック地峡のオアハケニャやオハパなどの砂糖耕地やサンタ・ルクレシア、また、メキシコ湾岸のプエルト・メヒコやミナティトランなどを中心に二百人から三百人前後の日本人移民がいたと思われるが、ここでも反政府ゲリラの活動が激しかった。牛尾はまずオアハケニャ耕地の情況からはじめている。一九一七年のことだった。

「六月一日夜、サパティスタと称する賊徒三百余名当耕地に侵入したちまちち守備の官兵三十名を撃退せり。而して村民等はことごとく付近の森中に避難し人家は無人の有様なりし為、賊は当地タバスコ・プランテーション・カンパニー支配人の住宅に乱入して現金三百ペソ余を始め目星めぼしき家具類を掠奪せり。在留民三十八名中十二名の借地農夫を除きては総て前記製糖会社の被傭人にしていずれも財政富かならざれば不意の賊徒の来襲に遭ひ衣類、家具の大部分を失ひすこぶ困憊こんぱいの体なりき」

 かれらはオアハケニャから東に約六十キロ離れたイダルゴという村を根拠にしていたカストロ・ペレスが指揮するゲリラだったが、もちろん、オアハケニャへのゲリラ侵入はこれがはじめてのことではなかった。すでに一九一四、五年頃からかれらの活動は激しく、オアハケニャやその周辺で独立自営の農業や商業を営みはじめていた日本人移民の多くは、すでに述べたように、難を避け各地に移転していた。

 また、コアツァコアルコス川を隔てた対岸のサポタルには、一九〇六年、大陸殖民の第八回移民としてオアハケニャに入った福岡県出身の草場長次郎ほか十二人の日本人移民がいたが、六月二日早朝にはここにもゲリラが乱入して草場が経営していた雑貨店に侵入、プルケやテキーラを乱飲したうえ、現金百五十ペソと馬三頭のほか商品のほとんどを持ち去り、ほかの日本人移民にも被害が多かった。牛尾は記している。

「他の日本人よりは衣類及穀類を掠奪し去れり。在留民は其日暮しの者にして日々刻苦労働の結果、わずかに残し得たる米、豆類を無法なる賊徒の為めに強奪せられたることとて其失望の様誠に哀れなるものありたり」

 急報を受けた政府軍兵士六十人がサンタ・ルクレシアからオアハケニャに到着したのはその日の夕刻で、だが、こともあろうに製糖会社の倉庫からは酒類を(タバスコ・プランテーション・カンパニーは二次事業として砂糖黍からラム酒を製造していた)、さらに、住民からは馬四頭を、ゲリラが投棄していった戦利品だとして奪っていったという。また、オアハケニャ耕地にいた守備隊の兵士も同様の略奪を働いている。だが、それを訴えることはできなかった。

「オハケニャ耕地駐屯守備兵は往々在留民の家畜及穀類を強奪せしも、皆後難を恐れて口外せざりしものなり」

 一方、オアハケニャから北に約五十キロ離れたオハパには、一九〇七年、大陸殖民の第十回移民としてオアハケニャに入った福岡県出身の長野三次郎らが経営していた農場アシエンダ・デ・コレアがあった。すでに前章でも述べたが、当時の耕作面積で二百八十万平米という広大な耕地だった。ゲリラが現われたのは一九一七年二月初旬、農具や家具のほとんどを奪われ耕作を続けられなくなっている。それどころか、守備の政府軍にゲリラの掃討を依頼すると、逆に、長野はゲリラを支援していると非難される始末で、守備隊の指揮官によってかれは耕地からの退去を命じられる。移民としてオアハケニャに入り、独立して日本人仲間と組合を結成、ようやくにして自営の水準にまでもってこれた農地を泣く泣くかれは手放し、約二十キロ離れたテワンテペック鉄道オハパ駅付近に移り精米所を開いた。あとには四十人前後の日本人移民が残ったが、ゲリラの襲撃は止まず、それからいくらもしないうちに、ほとんどが移転したという。

 また、オハパから北西に約十二キロ離れたアカユカンには五人の日本人移民が在留、医師のほか、雑貨店、酒店などを開いていたが、ここにはゲリラ被害は及んでいない。

 そのほか、ベラクルス州で日本人移民が多かったのは、現在はコアツァコアルコスとなっているメキシコ湾岸の港町プエルト・メヒコと、少し内陸に入ったミナティトランだった。前者には二十七人、うち医師一人、雑貨店経営者二人、薪炭商一人のほかはすべて漁業に従事していた。また、後者には三十四人がいて、雑貨店を経営していた五人を除いたほかはすべてイギリス資本のエル・アギラ石油会社で働いていた。

 プエルト・メヒコ、ミナティトランとも、テワンテペック地峡のメキシコ湾側の要所として経済上、軍事上重要な拠点であったことから政府もかなりの部隊を駐屯させていたためゲリラによる被害はほとんどなかった。だが、逆に、政府軍兵士による略奪が酷かったという。とはいえ、それはかれら政府軍兵士たちの品性によるものではけっしてなかった。

「彼等兵士は列車の護衛及付近の村落の守備に当り居るものなるが、其のほとんど全部は労働をきらふ懶惰者にして、其の兵士となりたるも比較的勤務楽にして時に掠奪等をほしいままにし得る機会あるが為めなり。彼等の中にようやく歩行に堪へ得る老人及十、四歳の辛じて銃を捧持し得る小児等多く、且つ何等軍隊的教練を受けたるものにも非らざれば其不規律なる言語同断にして到底賊徒に対し充分の攻撃を加へ得るとは思はれず」

 と牛尾は、政府軍兵士に幼兵、老兵の多かったこと、また、その規律の乱れをこき下ろしているが、一方で、政府軍兵士がそうした略奪に走ったのは一ペソの日給を半月前後も与えられなかったからだとも、続けて記している。牛尾が視察に歩いたのは一九一七年夏のこと、マデロ革命にはじまる動乱は延々七年目に入っていた。続く動乱のなかで壮健な男子のほとんどは戦死あるいは中央政府の軍隊に徴用されていたちがいない。北部では不況による失業、南部では農村疲弊で、政府軍であれ革命派であれ、ともに「革命」に疲れきっていた。メキシコ革命を映像の世界で見事に捉えたアウグスティン・ビクトル・カサソラの作品(写真)を見ても、兵士たちに混ざって小銃を手にした子どもの姿が多いのはけっして偶然なものではなかった。

北部諸州の日本人

 次いで、北部での日本人移民の情況だが、ここでの被害は南部諸州よりも早く一九一二、三年からはじまっていた。革命の動乱は北部にはじまり次第に南へと移っていったからだった。

 チワワ州を南北に貫き、北の国境の町シウダー・ファレスに至るのがメキシコ中央鉄道で、ほぼ中央のチワワから西側にシエラ・マドレ山脈の麓を迂回してシウダー・ファレスに至るのがアメリカのマデラ・ランバー・カンパニーが所有していた北西鉄道だった。一九〇六年、大陸殖民第八回移民としてオアハケニャに入った条勉(宮城県遠田郡沼部村)が農場をもっていたのは、この北西鉄道のマタチ駅から約四十キロ隔てたゲレロ郡サン・ヘロニモだった。宮城県立農学校を卒業したかれは、数カ月でオアハケニャを離れたあとチワワ州に移り、一時、ラス・プロモサス鉱山にいたが一年余りで切り上げ、チワワ市内に食料品店を開いて、一一年にはメキシコ人のアルベルト・チャベスから年間借地料六千ペソの契約で土地を手に入れている。四千三百万平米という広大な耕地で、主として綿花を栽培、サン・ヘロニモの住民のほとんどはかれの耕地の小作人あるいは農業労働者だった。

 このサン・ヘロニモが動乱の嵐に巻き込まれるようになったのは一九一二年のことで、その前年、マデロは正式な選挙を経て大統領になっていたが、戦後の論功行賞に不満をもった北部軍のパスクァル・オロスコは一九一二年三月にチワワでマデロに反旗を翻した。背後にはチワワ州の大農園主テラサス家やクレール家などの保守勢力がいた。オロスコ軍はたちまちチワワ全州を勢力下におさめ、一時はドゥランゴ州からもマデロ軍を後退させたが、その後、数カ月の間にマデロが派遣したウエルタの反撃に押され、七月以降は北に向けて敗走を続けることになった。そのとき、かれらは中央鉄道沿いを避け比較的物資の豊富だった北西鉄道沿いにルートをとったのだった。

 条のいたサン・ヘロニモにオロスコ軍のアルフォンソ・カスタニェダ率いる五百人の一隊が現われたのは七月十三日のことだった。同地の視察に向かった外務書記生荒井金太は次のように記している。(「墨国チワワ州ゲレロ郡ニ於ケル帝国臣民ガ同国内乱ノ為メニ蒙リタル損害ノ状況視察報告」)

「叛軍は七月十三日同地に到着し、滞在すること三日にわたりしが、最初の一日は左程さほど乱暴を敢てすることなく、只家宅を捜索し金銭を徴発し、又糧食を要求したるに過ぎざりしが、二日目に至りては家畜を乱殺し、食糧店を荒し店員(日本人)を強迫してことごとく其商品を強奪せり。尚ほ其夜に至りては村内の小作人及耕地労働者を家外に縛り付け、其妻女の老若を問はず悉く之を強姦せりと云ふ」

 サン・ヘロニモ耕地の所有者アルベルト・チャベスはディアス時代の共有地分離政策のなかで所有地を増大してきた新興の地主勢力の一人だった。当時、まだそれほどの生活基盤を築いていなかった日本人移民としての条がそうした広大な土地を手に入れることができた裏には、巧みに革命の動乱を回避しようとする土地所有者としてのチャベスの思惑があった。ほかの地主もそうだったが、土地を革命勢力に荒され、また奪われることを恐れたかれは、革命派軍の襲撃の対象としては比較的安全と見られていた日本人に土地を貸与し、借地料を稼ぐ一方で自らはアメリカに難を避けていたのだった。荒井は記している。

「数年間は此の地方に暴徒の出没するを見越し、早くも其土地を七年契約にて日本人に貸し付け、日本人をして土地の管理人同様たらしむると同時に外国人たるの権利を利用して己が土地の安全と又損害を受けたる場合に日本人の名を以て賠償の要求を為さんと計りたるものの如し」

 このときの条の被害はどれだけのものだったかは明らかでない。しかし、荒井の報告によれば、条はカスタニェダから略奪の対象となった物品の代償として一万七千七百十三ペソ七十五センタボスの領収書を受け取っている。おそらくマデロ政府に賠償を要求するつもりだったのだろう。当時はまだメキシコ政府も外国人資産の賠償には好意的な態度をとっていた。いや、すでに被害の多かったアメリカ資本からの要求でそうした態度をとらざるを得なかったのかもしれない。

 一方、サン・ヘロニモから北西に約六十キロ離れた同じゲレロ郡マデラに、オロスコの一将アントニオ・ロハスに率いられた二千人の部隊がやってきたのは同じ年の七月七日のことだった。ロハスはのちにウエルタの敗北を決定的にしたサカテカスの攻防戦で戦死したオロスコ派の勇将だが、かれらはそこに約一カ月駐留し、略奪を繰り返す一方、各商店の販売を禁止し、代わって付近の農場から略奪してきた家畜や穀物などを売り払って軍資金にあてていた。アメリカ、カナダ、イギリスの合同製材資本だったマデラ・ランバー・カンパニーの所在地として北西鉄道沿線の一大中心地になっていたマデラは、当時、一万人の人口をかかえていたが、そこにどれだけの日本人移民が在留していたのか明らかでない。ただ、荒井は畑喜代治(宮城県志田郡)と高橋直(同遠田郡)の二人の名前をあげ、二人が経営していた食料品店エル・レオンの被害額は七千三百八十九ペソ四十センタボスだったとしている。

 だが、もっとも被害が大きかったのは中国人移民だった。駐留したロハス部隊の兵士たちは住民に物品の販売を禁止し、そのかわりに中国人移民の商店や農場から略奪してきた食料品や家畜を売りつけ代金を着服していた。

 チワワ州についで日本人移民が多かったのはコアウィラ州だった。コアウィラはソノラ、チワワと並ぶ北部の要州で、アメリカのテキサス州とメキシコを結ぶ経済動脈になっていた。現在もモンテレイを中心とした大工業地帯を抱え、また、その資産家たちはメキシコの一大財閥を築いている。革命当時、この地域を軍事的に支配していたのはベヌスティアノ・カランサで、主に農業に依存していたソノラやチワワとちがって、コアウィラの経済はアメリカ資本に絡んだ鉱工業が発達していた。そのため、日本人移民も熊本移民合資や東洋移民合資による炭坑移民をはじめとして、その周辺で商業に従事する者が多かった。

 外務書記生だった伊藤敬一の報告(「墨国北部国境付近ニ於ケル邦人ノ現状其他」)によれば、一九一三年当初、コアウィラ州にいた日本人移民は六百四十三人。パラウ炭坑二百三十人、ロシータ炭坑八十人、リオ・エスコンディド炭坑七十人、フェニックス炭坑五十人、クロエテ炭坑四十人、コンキスタ炭坑三十人、アグヒタ炭坑十五人、シウダー・ポルフィリオ・ディアス四十人、サン・カルロス耕地二十人、ムスキス十四人、クチリャ十四人、その他四十人という分布だった。約八十パーセントが炭坑とそれに関連した労働に就いていたことになる。

 だが、一九一三年二月のウエルタの反乱後、各地でふたたび戦闘がはじまり、コアウィラ州ではカランサの憲政軍とウエルタ軍との間の戦闘によって生産活動が停止、破壊されたため、外国資本は難を避け、フェニックス、ロシータ、クロエテ、アグヒタ、リオ・エスコンディド、コンキスタなどの炭坑は閉鎖されたことから、そこにいた日本人移民はサン・カルロス耕地やシウダー・ポルフィリオ・ディアスなどに移転せざるを得なくなった。翌一九一四年には、パラウやムスキスに約百七十人、シウダー・ポルフィリオ・ディアスに約二百人、サン・カルロス耕地に約六十人のほか、ウエルタ軍に約九十人、革命軍には十数人が加わるようになっていたという。

 兵士になったのは炭坑の閉鎖とその周辺での商業活動の停止によって仕事がなくなったからだった。ほとんどは熊本移民合資、東洋移民合資によって送られた者で沖縄県出身者が多く、大半は日本名を名乗らずパコ、サンディなどメキシコ名を呼称としていたという。農業関係の労働では一日一ペソにもならなかったが、軍隊に入れば一ペソから一・五ペソの日給が手に入ったほか、食糧も支給されることが多かった。といっても、一、二カ月の不払いは常だった。そのため、一度兵士となるとなかなかそこから抜け出すことができなかった。糊口を満たすことだけが目的だったかれらにはイデオロギーは二の次で、革命も反革命もなかった。

「叛軍の勢ひ日々否となり、昨年九月末迄占領せしシ・ピ・ディアス市さへ十月六日には官軍の手に帰したるを以て彼等邦人は官軍の為め虐殺されんことをおそれ自ら官軍に投じ雇官兵となるを始めとし、爾後百名近く迄官兵となり」

 伊藤は記しているが、逆に、政府軍の情勢が不利となれば、また革命軍に戻るなど、転々とするのもかれらで、のちには、一部は流れ流れてキューバや遠くブラジルにまで転航していく。

 サン・カルロス耕地に移ったのは主にパラウ炭坑にいた者だった。同地の東洋移民合資の出張員森醇一が斡旋したもので、当初の日給は炭坑でのそれより安く一ペソに届かなかったため移転者も少なかったが、雇主が条件を改善したことから希望者が続出している。だが、まもなく耕地は閉鎖され、大半はシウダー・ポルフィリオ・ディアスに移転することになる。

 ただ、シウダー・ポルフィリオ・ディアスに移った者も、混乱による商業活動の停止によって働き口がなく収入の道を閉ざされている。

「労働者の需要少きを以て三々五々、或は小農地に就働し、或は家内労役に服し、或は小商売をなし、又は河岸に穴居して漁業に従事(穴居は家賃を要せざる為め)し居るものあり。(略)今日迄は官叛いずれの兵士よりも迫害を受けたるもの之れなしといえども、現状にして極限なり。永続するか或は昨今しきりに噂せらるる如く叛軍がトレオン市を奪取し勢ひ此地方迄も兵禍の及ぶことあらんか、如何にして自活のみちを求め、又誰れに保護を依頼せんかは不絶たえず同胞の痛心する所なり」

 と伊藤は記している。当時、日本はイギリスとの間に軍事同盟を結んでいたことから、メキシコの日本公使館からは有事の際はイギリス領事に保護を求め、その艦船に避難するよう訓示が出ていたというが、シウダー・ポルフィリオ・ディアスには日本領事館はもちろん、イギリス領事館もなく、また、イギリス船に避難するにはメキシコ湾岸のタンピコに行くしかなかった。

 こうして戦乱が激しくなるにつれコアウィラの日本人数も減少していく。一九一五年九月三十日付メキシコ代理公使岩崎三雄から外務大臣大隈重信宛公信によれば、当時、コアウィラ州にいた日本人移民は約三百人。チワワ州と並んで北部での内乱の戦場となったからで、日本政府はシカゴ領事館の馬場書記生を派遣し、かれらの要求を聞いているが、多くは日本帰還を希望したという。

 当時、キューバは砂糖耕地での労働力を求めていたから、かれらのキューバ移転も考えられた。だが、膨大な費用がかかることから実行されなかった。また、この年、帰還を希望し、北部地方からメキシコ公使館にやってきた者は三十人前後に及んでいて、日本公使館はかれらの送還を計画している。当時、東洋汽船の場合、サリナ・クルスから横浜までの運賃は三等で百十円(八百ペソ)だったが、かれらには支払える額ではなかったため東洋汽船のメキシコ駐在事務所に運賃減額を交渉し、十一月四日の紀洋丸については三十人までは四割引、一月五日の安洋丸については十人までが三割引、三月六日の靜洋丸については二十人までが三割引で乗船できるようになったという。ただ、実際に何人が帰還したか明らかでない。(一九一五年八月二一日付、特命全権公使安達峯一郎から大隈重信宛公信)

 また、コアウィラでの日本人移民の被害についても詳しくわからない。永く在留していた者が少なかったことと、内乱の中心地として長期間にわたってあまりにも被害が多過ぎたからだった。各地での個人被害の詳細はのちに述べるが、一例として、岡山県出身の入谷豊市の場合を見ておこう。

 入谷は一九〇七年に東洋移民合資の移民としてラス・エスペランサス炭坑に入っている。何年いたのかわからないが、その後、同地で日用雑貨店を開き、二〇年には二店を経営するまでになっていた。その店舗が被害を受けたのは同年四月三十日夜のことだった。オブレゴン派を名乗る兵士十二人がやって来て商品を略奪、被害額は二千六百ペソに及んでいる。このときの被害はそれほどでもなかったが、さらに、襲撃、掠奪はオブレゴンの時代を経て次のカイエスの時代にまで続くのである。乱入、略奪を繰り返され、三年後にかれは自殺している。

 知らせを受けた郷里の肉親は容易にかれの死を信じなかったが、当時、東洋移民合資の監督としてラス・エスペランサスにいた益子三郎は、調査の結果、自殺と判断し、遺産整理を行なっている。残っていた所持金と銀行預金を合わせて約二千五百ペソ。そこから葬儀関係に約四百ペソ、店員への報奨に百ペソ、墓地と碑代に約三百ペソ、そして未払い商品代金として約四百ペソの支払いを済ませば、千ペソ余しか残らなかった。享年四十三歳、異境に十数年、奮闘の結果がこれだった。

日本人被害の実態と賠償委員会

 一九一〇年から二〇年前後に至る革命の動乱期に、バハ・カリフォルニアでの日本人移民の数はごくわずかで、残る北部諸州のなかで比較的日本人移民が多かったのはソノラ州だった。同じ伊藤敬一の報告によれば、一九一四年当時、ソノラ州にいた日本人移民は、ノガレスに七人、エルモシーヨに九十一人、カナネアに約五十人、マグダレナに二十五人、そのほかに五十人前後が各地に散在し、数年前までは、グァイマスに数十人にのぼる日本人移民がいたが、難を逃れ一三年頃にはすべてエルモシージョに移転していたという。

 これまで、各地での日本人移民の被害の様子を見てきたが、それらをまとめる意味で、具体的にどのような被害を受けたのか、これまで以外の例を、メキシコの日本公使館が発した被害届出の布告によって各地の日本人移民から届け出された報告(「一千九百十年以降墨国革命ニ基因スル邦人損害調書」)によって実態を追ってみよう。「革命」とその動乱が、民衆の目にどのようなものとして映っていたのか、少しでも明らかにしたいからで、取り上げることができるのは日本人移民に関するものだけだが、その裏に多くのメキシコ民衆の姿があったことをまず念頭に置いておきたい。

 菊池柳作(岡山県) ナヤリット州ツスパンの巽白夫の雑貨店で働いていたが、一九一八年三月十日、革命軍の乱入、略奪を受けたあと、兵士によって銃殺されている。

 松野一彦(福岡県) 一九一九年六月、グァダラハラの戦闘でオブレゴン軍の通訳として従軍中に戦死。また、そのとき河原という者も戦死している。かれは軍医として従軍していた。

 石田芳蔵(鳥取県) ソノラ州ナボホアにいたが、一九一一年五月七日朝、マデロ派軍の兵士によって左上膊部に銃傷を受けた。マデロ派軍と政府軍との戦闘の流れ弾だったのか、マデロ派軍兵士の乱入によるものだったのか明らかでない。

 知里口和六(熊本県) メキシコ・シティにいたが、一九一三年二月十日、マデロに対して軍がクーデターを起こした、いわゆる「悲劇の十日間」の二日目、市内での戦闘の流れ弾を脚部に受けて重傷を負っている。

 松本左右助(熊本県) チワワ州シウダー・ファレスでシウダー・デ・トウキョウという雑貨店を経営していたが、一九一二年一月三十日夜、マデロ政府に対して反乱を起こしたオロスコ軍の乱入を受け、商品と現金を略奪された。被害額五千ペソ。

 坂口健次郎(京都府) ナヤリット州テクアラで雑貨店を経営していたが、一九一三年十月二十六日夜、革命派軍の略奪を受け家屋に放火され、一瞬にして商品、家財のすべてを失った。被害額五千ペソ。

 岩淵稔明(宮城県) タマウリパス州ヌエボ・ラレドで料理店を経営していたが、一九一四年四月二十四日、同市を退却するウエルタ軍が市街に放火、かれの店舗にも延焼して焼失。翌年にもカランサ派軍によって商品雑貨を略奪されている。被害額四千五百ペソ。

 佐々木定三(福井県) サン・ルイス・ポトシのカメリノ・メンドサ市場で雑貨店を経営していたが、一九一五年七月十三日朝、ヴィヤ派軍の乱入を受け商品多数を略奪された。被害額一万六千ペソ。

 黒田実(福井県) 一九一七年七月八日、チワワ州パラル駅頭で、所持していた医療器具、薬品、衣服などをヴィヤ派軍兵士に略奪された。被害額九千四百ペソ。

 社本此三郎(高知県) ソノラ州各地を活動写真巡業をしていたが、一九一二年八月二十一日夕刻、ソノラ州のラヨンで革命派軍に襲われ、所持金、衣服など身の回りのもの一切を奪われた。被害額三千三百ペソ。

 伊藤正雄は牧場を経営していたのだろうか。一九一五年六月七日、ソノラ州グァイマスで郡長から豚脂の徴発を受け、代価として軍票で支払いを受けたが、それらはすべて不換紙幣となった。被害額一万ペソ。

 数佐友一(広島県) チワワ州カマルゴで薬剤舗を経営していたが、一九二〇年四月、カランサ派軍によって所持金百ペソを徴発された。それらは兵士の給料になったという。

 八島博(宮城県) 一九一三年にチアパス州タパチュラの日墨協働会社に入ったあと独立し、エスクィントラで雑貨店を経営していたが、一九二〇年五月十二日、反政府軍によって軍資金として現金百五十ペソを徴収された。

 中川末吉(石川県) オアハカ州サン・ヘロニモで薬剤店を経営していたのだろう。委託販売の商品の売上金三百ペソを「鉄道便」で送金しようとしていたところ、一九二〇年四月二十七日、サリナ・クルス駅で反政府軍に略奪された。

 水野房一(愛知県) 一九〇六年にメキシコに渡りチアパス州タパチュラの日墨協働会社に入っている。その後、一九年に独立してエスクィントラで薬剤店兼雑貨店を経営していたが、二〇年五月十二日、村役場から七十五ペソを徴収された。比較的小さな被害額だが、チアパスに限らず、こうした徴発は各地でみられ、また、たびたびにわたって徴収されている。同じ日、渡辺忠三の場合は五十ペソだった。

 内藤八郎(兵庫県) オアハカ州フチタンで商店を経営していたが、一九二〇年三月、数度にわたってカランサ政府に抗するゲリラの襲撃を受け、商品、現金を略奪されている。また、その後も混乱に乗じた盗賊が横行しての被害が続き、八月にはオブレゴン派軍が乱入、村民十一人を銃殺し婦女に暴行を加え、略奪を繰り返したという。被害額二千五百ペソ。

 田場太郎(沖縄県) 一九〇六年にメキシコに入りオアハケニャをはじめ各地の砂糖耕地を転々としたあと、ベラクルス州ミナティトランで食料品と各種種子販売に従事していたが、一九年六月七日朝、反政府軍によって家屋が放火され家財のすべてを失った。被害額千五百ペソ。

 茂木清吾はチワワ州ラス・カサス・グランデスで食料品店を経営していたが、一九一〇年十一月、マデロ派軍が駐留していたとき、同市長によって商品を徴発されたほか、軍将校と知事の歓迎祝宴のための費用として現金を徴発されている。被害額七千六百ペソ。

 松野敬太郎(愛知県出身) キューバの大平商店の店員だったと思う。一九一八年一月、メキシコ経由でキューバに向かう途中、テワンテペック鉄道の車内で、同じ列車に乗り合わせていた兵士に、所持していた商品や身の回りのもの一切を奪われている。被害額五百ペソ。

 前田須太郎はチワワ州パラルで靴屋を経営していたが、一九一九年四月十九日、反政府軍の乱入を受け、商品、現金などを奪われた。被害額七千五百ペソ。

 日置佐右衛門(岐阜県) 一九〇八年にコリマ移民として入り、ハリスコ、チワワ各地を転々としたあと、ソノラ州チャレ・イ・コラル・デル・メディオ耕地で農業をしていたが、一五年十月、革命派軍によって数度にわたって農作物を略奪された。被害額三千六百ペソ。

 高根光治(山梨県) ソノラ州エルモシージョで山崎直治と共同で雑貨店を経営していたが、一九一四年十一月十四日、商品として買付けた靴などを鉄道輸送するためナボホア駅に出向いたところオブレゴン派軍の兵士にそれらを徴発された。被害額三百四十ペソ。また、一六年にも乱入を受け、商品のすべてを略奪され閉店せざるを得なくなっている。

 三浦房吉(山梨県) ソノラ州コロニア・モレロスで農園を経営していたが、一九一三年から一五年にかけて数度にわたって、政府軍、革命派軍の区別なく乱入、略奪を受け、殺害されそうになったこともたびたびだった。同地にはほかに数人の日本人移民が農園を経営していたが、同じ時期に同様の被害を受けている。被害額四千ペソ。

 その他、被害の詳細は明らかでないが、チアパス州サン・イシドロの福井惣一は一九一五年から一六年にかけて一万千ペソ、ソノラ州アリスペの堀内得一は一四年から一五年にかけて七千三百ペソ、チワワ州シウダー・ファレスの藤中文蔵は一一年中に二千五百ペソ、また同市の小野寺萬四郎は一二年中に三千四百ペソなど、高額の被害を受けている。

 これらを含めて「調書」は五十一件の被害を記しているが、もちろん、それですべてであったわけではない。記録されないまま、多くの被害を受け、また、混乱のなかで命を落とした者も少なくなかった。「調書」に掲げられた被害者のほとんどは、当時各地に成立しつつあった日本人社会の主だった人物で、それだけに日本公使館が発した被害届出の布告に応じることもできたのだった。また、こうした記録が少ないのは、これらの報告、被害額はメキシコ政府の損害賠償委員会に提出するためのもので、そのためにはまず被害に対する第三者の証明が欠かせなかったからだった。

 賠償委員会というのはカランサ政府が一九一七年に設置したもので、さらに、そのあと政権を引き継いだオブレゴンは二一年七月をもって、この賠償委員会に各国代表をも加えた常設混合委員会を設置することを決定していた。「調書」はこれらに対するものとして作成されたのだった。

「憲政軍長官ドン・ベヌスティアノ・カランサがモンクロバ市に於て発せる一九一三年五月十日の官令第五条及損害賠償委員会設置に関する一九一七年十二月二十四日の官令第十三条(改正)に基き外務省は墨国革命の為損害を被りたる外国人の各本国政府に対し墨国と協議の上、常設混合委員会を組織し、以て前記一九一七年十二月二十四日の官令により設置されたる損害賠償委員会の決定に不服あるか、又は当該常設委員会が始めより直接損害の審査を為さんことを択ぶ各外国人の要償を審理せしめんことを鄭重に招請すべし。よって外務省は右の為必要なる協定を国際法により承認されたる原則にり取結ぶことを委任せらるものなり」

 と、オブレゴンは混合委員会の設置と、それへの代表の派遣を各国政府に呼びかけているが、ねらいは賠償とはかけ離れたところにあった。各国政府にしてみれば、メキシコ政府に賠償を要求するには混合委員会に代表を送らねばならず、そこに代表を送るということは、とりもなおさずオブレゴン政府をメキシコの正当政府として認めることだった。先に賠償委員会を設置したカランサ政府もそうだが、それまでの賠償委員会を混合委員会に拡大したことには、賠償額の査定や実際にそれに応じるかどうかはともかく、こうしたオブレゴンの政治上の思惑の方が先行していたのだった。その主なねらいは経済的に密接な関係にあったアメリカとイギリス、フランスにあった。現実には、外債さえも支払う能力のなかったオブレゴン政府には、各国政府からの賠償に応じるなど、とうていできることではなかった。

 伊藤敬一の報告(「墨国政府ニ於テ個人損害審理ノ為混合委員会組織を関係各国ニ提議シタル件」)から、一九二一年四月までに賠償委員会に提出された各国の損害要償額を見ておこう。

 スペイン 三千三百九十六万四千九百六十五ペソ

 イギリス 三千六十二万二百二十二ペソ

 カナダ 千二百万ペソ

 トルコ 四百三十九万四千五百八十ペソ

 アメリカ 四百二十一万三千百八十三ペソ

 フランス 二百五十三万八千七十六ペソ

 ドイツ 二百五十二万七千百四十二ペソ

 イタリア 二百二十六万百三十ペソ

 スウェーデン 四十一万九千五百五十四ペソ

 中国 三十万百五十五ペソ

 キューバ 十万六千三百十六ペソ

 スイス 六万五百四十ペソ

 グァテマラ 三万ペソ

 オランダ 二万五千七百ペソ

 日本 二万四千七ペソ

 ベネズエラ 一万五千二百八十ペソ

 オーストリア 六千百八十五ペソ

 となっているが、ただ、これは賠償要求額の最終的なものではなく、一九二一年の時点での被害の比較の数字としての意味しかない。各国政府はメキシコ政府承認問題とも絡んで混合委員会の成りゆきを見守っていたこともあり、全体として実際をかけ離れた少額に留まっているからで、だが、これを見てもアメリカ、イギリス、フランスの被害額が多かったことがわかる。メキシコに対する投下資本の大きさを反映した数字だろう。

 また、先にも述べたように、賠償要求には第三者の被害証明が必要で、すでに死亡、行方不明になっている者、また、証拠書類を所持していなかった者、さらに要求を放棄した者などは当然ながら含まれていない。こうしたことを考えれば、中国人の額があまりにも少額なのが気になる。委員会に提出された被害額は少ないが、その実態、被害件数からいえばアメリカ人やイギリス人のそれを超えるものではなかったか。排斥感情も加わり、外国人移民として、動乱のなかで死亡した者が圧倒的に多かったのもかれらだった。死人に口なし、死ねば賠償も何もない。

 日本人移民についても同じことがいえるが、その額が意外と少ないのは、比較的被害が多かったとされているチアパス州在留の日本人移民が賠償請求のすべてを放棄したからだった。

ビジャ暗殺未遂事件

 一九一六年一月十三日、ビクトリアノ・ウエルタがエル・パソで死んだ。一九一四年六月のサカテカスの戦いでビジャ軍に大敗したあと、その終末を知ったかれは七月十五日にはメキシコ・シティを去りベラクルスからドイツ船イピランガ号でスペインに亡命。その後、アメリカに渡って政権奪取の機会を狙っていたところをアメリカ官憲に逮捕され病院に収容されていた。かれに資金援助をしていたのはドイツの諜報機関で、背景には第一次世界大戦への参戦寸前にあったアメリカに対し、メキシコに親ドイツ政権を建てることで、アメリカ軍のヨーロッパ戦線への参戦を阻もうとしたドイツ軍部の牽制策があったといわれている。

 一方、ウエルタの逃亡のあと、メキシコには大きく分けてカランサ、オブレゴン、ビジャ、サパタという四つの勢力が分立し、四勢力はそれぞれ中央での権力奪取をめざしたが、十月十日にはオブレゴンの主導でアグアス・カリエンテス会談が開かれ、そこではサパタのアヤラ宣言を原則的に革命の政治方針とすることが決議されたが、ビジャ、サパタ両派はオブレゴンによってたくみに中央政治の場から排除されてしまう。その後、十一月十九日にはオブレゴンはビジャに宣戦布告、翌一五年四月にはグァナファト州セラヤでビジャ軍を敗走させ、八月にはサパタ勢力もメキシコ・シティから退けた。それに対し、カランサはたくみにオブレゴンを自勢力のなかに組み込む策動を続け中央権力を握るようになる。

 一方、十月十九日、アメリカ大統領ウッドロー・ウイルソンはカランサ政府をメキシコの正統政府として承認、さらに反カランサ勢力への武器輸出の禁止を決定(日本政府の同政権の承認は十二月)。こうして、革命の動乱に一時的な終止符を打ったかれは、やがて立憲会議を召集、一七年二月には新しい憲法を制定し、五月の選挙を経て正式な大統領に就任する。だが、北部では依然としてオブレゴンが勢力を伸張、ビジャ勢力もゲリラ戦を続けていたため政情は不安定なままだった。

 そんなウエルタが病死したその日、アメリカとの国境の町シウダー・ファレス駅にアメリカ人十六人の死体を乗せた列車が入る。ビジャ軍のパブロ・ロペスとラファエル・カストロの部隊に殺害されたアメリカ資本の製鋼会社の技師たちだった。また、二月にはアメリカ西海岸の新聞王ウイリアム・ランドル・ハーストが所有する農場がビジャ軍によって襲撃され、さらに三月十九日にはエル・パソの西のコロンバスがビジャ軍兵士約五百人の襲撃を受け、略奪、放火されるという事件が起きている。それに対しウイルソンは、翌日、ビジャ討伐を名目にアメリカ陸軍に、越境しての軍隊派遣を指令、以後、一年にわたってジョン・パーシングを指揮官に約一万人の兵士をメキシコ領内に送り込んでいる。ただ、それ以前の十五日にすでにコロンバス付近からアメリカ軍が越境して南下していたという記録もある。

 一方、ビジャ軍は九月十六日にも一時チワワを占領、その後、大統領選挙の実施、憲法改正、鉄道と鉱山の国有化、アメリカ人と中国人の財産所有の禁止などを要求する声明を発表、さらに十一月にも同市を占拠している。アメリカ政府の承認をとりつけたというものの、カランサ政府にとってこうしたゲリラ活動を続けるビジャ勢力は、アメリカとの政治経済関係に大きな影響を及ぼす存在だった。また、アメリカにとってもその権益が脅かされるやっかいな存在だった。

 チワワの日本人会長石川荘一から、同市の日本人移民保護救助の陳情書(「在墨本邦人保護救済方ニ関スル陳情ノ件」)がアメリカ大使佐藤愛麿に届けられたのはそうした一九一六年十月のことだった。

「拝啓、貴館益々御多祥の段大賀此の事に候。偖而さて突然の儀に候へ共、北墨に住居まかる同胞の生命財産の危険なる状態日一日と切迫し来りしを覚え候間、何分の御保護に預りたく此段陳情書差出候也」

 その「陳情書」によれば、同年九月半ば、ビジャ軍はチワワの北のクシピリアッチを攻撃、占領。おそらく十六日のチワワ占拠の数日前のことだろう。そのときクシピリアッチには三人の日本人移民がいたが、ビジャ軍が日本人を見つけ次第銃殺するといっているのをメキシコ人仲間から聞いたかれらは驚いてチワワの日本人会に飛び込んできたのだった。

「本会に陳情する処によれば、ヴィヤ該地を占領せし折り部下に命令を発して曰く、或る数名の日本人米軍の間諜となり巧みに我れを欺きて接近し毒殺せんと謀りて我れに之れを与へて逃亡せり。しかればすべての日本人は彼等の同類なれば此の仇敵に復讐せよ。日本人は見当り次第銃殺すべしと親懇の墨人より之れを関知したり」

 日本人によるビジャ暗殺未遂事件に対するビジャの報復行動だった。もちろん、このときの暗殺未遂事件はメキシコの新聞でも報道され、当初、日本人会はそれをビジャ軍による捏造として否定していたが、その後、事件に加わったという鈴木徳太郎がチワワに現われるに至って真相が次第に明らかになってきた。鈴木のいうところによれば、事件の全容はほぼ次のようだった。

 事件が起きた日時はその後の日本人会の報告にもなく、明確にはできないがおそらく一九一六年八月末から九月初旬にかけてのことだったと思う。加わったのは鈴木と藤田小太郎、条勉、佐藤温信の四人だった。いずれも宮城県の出身で、佐藤、条、藤田は一九〇六年、大陸殖民の第八回移民としてオアハケニャに、また、鈴木は同年の第九回移民としてコリマ鉄道に入ったとされている。条は先にも述べたように、数カ月でオアハケニャを離れたあとチワワ州に移り、一時ラス・プロモサス鉱山に入ったが一年余りで切り上げ、チワワ市内に食料品店を開き、一一年には北西鉄道のマタチ駅から約四十キロ隔てたゲレロ郡サン・ヘロニモに四千三百万平米という広大な棉作農場を経営していた。だが、一二年五月にはオロスコ軍に襲撃され、その後、農場経営を断念している。ほかの三人の詳しい足どりは明かでないが、おそらく北部を転々としたあと北西鉄道沿いに落ち着いていたのだろう。この沿線にはかれらと同じ宮城県出身者が多かった。ほとんどが大陸殖民による移民だった。

 藤田はビジャ討伐のために越境したアメリカ軍部隊に食料などを売っていた。鈴木はチワワの南西約百キロのサン・フランシスコ・ボルハで雑貨商をしていたことからチワワ州南部の地理に詳しかった。また、佐藤は条とともにビジャとの交流が深く、かなり信用されていたという。

 一方、メキシコに入ったアメリカ軍はビジャを追ってチワワ州各地に侵攻、一カ月後には南のドゥランゴ州との境に近いパラルにまで迫っていた。それに対しビジャはチワワ州南部を中心にゲリラ活動を続け、かつて暮らしたこともあるパラルを奪回。さらにそこから少し北東のヒメネスに向かう途中、ある農園に休息した。そのとき条は「此の好機を逸せず、コーヒーに毒薬を混合してヴィヤに与え逃亡」したという。

 藤田はアメリカ軍とはかなり通じていたようで、そのかれに条と佐藤がビジャの動向を知らせて毒殺を謀り、鈴木はその後の逃亡行の道案内人になった。おそらく四人はアメリカ軍に保護されることになっていたのだろう。コーヒーに毒薬を入れてビジャに出したあと二人は逃亡している。だが、二人が急にいなくなったのを不審に思ったビジャはそれを飲まず、どうしたいきさつがあったのか農園主が飲んで死亡したという。

 その後、四人はどのような逃亡行をたどったのか、「陳情書」はその時点で鈴木のほかに、藤田、条はエル・パソに、佐藤はシカゴにいたと記している。条はオロスコ軍には農地を荒されたという恨みこそあれ、ビジャにはそれがない。むしろ、ビジャからは厚遇されていたと見るべきだろう。それに対して藤田は商売上からかなりアメリカ軍とは親密な関係にあった。やはり、金銭問題も絡んで、アメリカ軍の指令を受けた藤田が同郷の三人を誘って暗殺を謀ったということになるのだろうか。『日本人メキシコ移住史』には、その前後にカランサのサパタ討伐軍に参加していた小野清長と井沢実との対談が収録されているが、そのなかで小野は「ジョーはビリャのコックをしていたんだ。ビリャのコックをしていて、誰かに買収されて毒を盛ってビリャを毒殺しようとして、こわくなって逃げたんだ。それでこいつはあやしいと云うので、そのコーヒーも飲まなかったし、捕まったんだ。だけど何とか逃げのびて」と語っている。たしかな背景は明らかでないが、当然ながらアメリカ軍はこうしたスパイをビジャの周辺に度々向けていたにちがいない。

 だが、事件はそれだけで終わらなかった。暗殺未遂の報復として日本人移民三人が犠牲になっている。翌年四月六日のことだった。すでにアメリカ軍はメキシコから撤退し、同日、ドイツに対して宣戦布告、ヨーロッパ戦線に兵士を送ることを決定していた。そして、メキシコではカランサが一カ月後に迫った大統領選挙に備えて着々地盤堅めをしていた。ビジャはその活動の場を失ってしまっていたのだろうか。

 四月六日、条が経営していたサン・ヘロニモの農場に現われたビジャ軍によって三神篠三郎(宮城県遠田郡大貫村)、渋谷伝太郎(福島県伊達郡伊達崎村)、関根竹三郎(栃木県下都賀郡皆川村)の三人が銃殺された。サンフランシスコで発行されていた六月一日付の「新世界」によれば、三人は捕縛されたあとビジャ本営に引き立てられ、何の取調べもなくビジャ自らの手で射殺されたという。また、同地にいた条の家族も陵辱を受けている。

 渋谷は一九〇七年六月四日、ラス・エスペランサスだろう、熊本移民合資の移民として笠戸丸で日本を出発、関根は同年五月、東洋移民合資の移民として同じくラス・エスペランサスに、三神は一九〇六年、大陸殖民の第九回移民としてコリマ鉄道に工夫として入っている。その後、渋谷はシウダー・ファレスに移りアメリカ人やメキシコ人の医師を使って病院を経営、憲政軍の大佐としてビジャにとっても「股肱の士」だったという。また、関根はサン・ヘロニモの条の農場のコックとして働いていたが、そこをよく訪ねたビジャはかれの料理しか口にしなかった。

 なぜ、これほどにまで親しかった三人をビジャはその手で射殺したのか。それはまた、条たちがなぜビジャを暗殺しようとしたのかという疑問の裏返しでもある。その後、ビジャはオブレゴン政府からチワワ州との境に近いカヌティリョに農場を与えられ、農園主となって革命の舞台から消え、二三年七月二十日に、州境を越えたパラルの私宅から農園に戻る途中、暗殺されている。背後にはオブレゴンとそのあとを継ぐことになるカイエスがいたと噂されたがいまもって真相は明らかでない。一方、『日本人メキシコ移住史』によれば、その後、条は仲間数人と北墨鉱業株式会社を組織し、さらにサント・ドミンゴ鉱業会社も設立し、二〇年代後半の日本人移民随一の成功者となっている。暗殺者にもそうする十分な理由があっただろう。だが、報復の犠牲となった三人のその後はいったいだれが償うというのか。革命であれなんであれ、抗しようもない大きな流れのなかで死に追いやられた者の声はいまも届かない。

テキサス義勇軍と日本人

 サンタ・アナ時代の一八四六年から四八年にかけてのアメリカとの戦争によって、また、その後の売却によってアメリカ領となった現在のテキサス州には、その後もディアス時代を通じてメキシコからの労働者移動があったことから州内各地にメキシコ人社会が続いていた。アメリカ資本がメキシコに流入する一方、メキシコ人労働者はアメリカに流れていたのだった。現在もそうだろうが、かれらはアメリカにあってさまざまな抑圧と悪条件のなかで暮らしていて、それに対する抵抗運動も大きくなっていた。

 いわゆるテキサス独立運動といわれるものも、そうしたメキシコ人のアメリカに対する抵抗の一つとしてはじまったもので、そうした抵抗グループはいくつもあったのだろう。その一つをテキサス州独立の看板を掲げた運動組織としてまとめたのはレオン・カバヨという男だった。ただ、このカバヨによる活動とテキサス独立運動とは、少し分けて考えておいた方がよさそうだ。カバヨの方は一種秘密組織的なゲリラ部隊であって、テキサス州といっても最西部のエル・パソ付近で活動していたのではないか。

 だが、ウエルタ政権が倒れたあと、アメリカ政府の承認をとりつけることに奔走していたカランサ政府は、かれを捕縛しメキシコ領内にとどめていた。テキサス独立運動を主導しているのがメキシコ人で、それがアメリカとの外交関係に影響して承認問題がこじれることを怖れたからだった。

 その後、アメリカ政府によるカランサ政府承認は終わり、また、それによって反カランサ政府勢力への武器輸出が禁止されたことから、アメリカからの、とくにチワワ州境からの武器輸入が困難になったビジャ勢力は次第に追い込まれ、北部国境地帯でコロンバス事件などさまざまなテロ行為に近いゲリラ活動を続けることになる。アメリカとの緊張関係を増幅させることでカランサ政府を追い込もうとしたのだが、それに対してアメリカは権益保護の名目でメキシコに軍隊を派遣、一年余にわたってチワワ州を中心に約一万の軍隊を駐留させていたことはすでに述べた。

 先のカバヨがカランサによって釈放されたのはそうしたときだった。

「コロンバス事件以後米墨関係の緊張を来したる当時、先般駐独公使に任ぜられたるスバラン・カンパニー等の勧告によりカランサ執政官は之を解放し、本月中旬(伊藤は「本月」としているが「先月」の誤りだろう、一九一六年五月のこと)、米国撤兵事件に基き両国の関係一層急を告げるに至りたる際、ひそかに彼を北方に送り米墨辺境に事を起さしめんと画策したるものの如く」(「秘密結社ノ募集ニ応ジタル日本人ニ関スル件」)

 当時、臨時代理公使にあった太田為吉が外務大臣石井菊次郎に宛てた文書だが、コロンバス事件によってアメリカとの関係が緊張したとき、ドイツ公使の進言でカランサはカバヨを釈放し、その後、撤兵事件が起きたあと、かれにアメリカとの国境地帯で事件を起こさせようとしたというのだった。カバヨが釈放されたのは一九一六年二月頃で、アメリカ軍の駐留以前のことと見ていいだろう。当時、ヨーロッパ戦線ではアメリカ軍の早期派遣が求められていた。ドイツ公使がカバヨの釈放をカランサに勧めたのは、カバヨのグループにアメリカ国内で問題を起こさせ、アメリカ軍のヨーロッパ戦線への派兵の時期を遅らせようとしたからだろう。その後、コロンバス事件を経てアメリカ軍の駐留がはじまっている。

 一方、カランサの方はどうだったのか。かれにとって一番の問題はビジャ勢力の抵抗だった。そのため、ビジャ勢力がアメリカ軍によって一掃されることをねらって、最初はアメリカ軍のメキシコ駐留を歓迎していた観がある。だからこそ、国境地帯での錯乱を画策させるためにカバヨを釈放したのだった。だが、その後、アメリカ軍の派遣が増大するにつれアメリカ軍のメキシコ駐留は主権の侵害と激しく抗議するなど、アメリカ軍の駐留を警戒しはじめる。

 撤兵事件というのは、何であったのか、一九一六年五月中旬に起きたというが、シウダー・ファレス郊外で起こったメキシコ軍部隊とアメリカ軍部隊との衝突事件だったか。撤兵を要求するメキシコ軍、シウダー・ファレスのメキシコ民衆とアメリカ軍とが対立して衝突事件に発展している。

 そうした時期、すでにアメリカ軍が駐留しはじめていた五月に、どうして国境地帯での争乱を支援、あるいは指示したのか。ビジャはその後、九月にもシウダー・ファレスを襲撃し声明を発表するなど侮り難い勢力をもっていた。さらに、そうしたビジャ掃討作戦に効果がないことに加え、ヨーロッパ戦線への参戦を急いでいたアメリカは、漸次、撤兵をはじめようとしていた。ということから考えれば、アメリカ軍撤退への牽制だったのか、それとも逆に、アメリカ国内で不安材料をつくることで撤兵の時期を早めようとしたのか。

 カランサがカバヨに指示したというのはサン・ディエゴ計画とも呼ばれているもので、一種のテロに近いゲリラ活動だった。日本人移民が関与したというのはこの計画で、続けて太田は述べている。

「秘密結社関係人寺沢福太郎(墨名パブロ・ナゴ)を召喚し事情を取調べたる所、同人は直接募集に関係せざりしも、両三日前既に応募出発せし本邦人は陸軍中尉児玉倫太郎外十三、四名(海軍機関大尉岩崎重明もこの中にあり)ほ他に五、六名目下志願中のもの有りと申立てる」

 秘密結社に関係したという寺沢福太郎とはどのような人物だったのか、小野清長は『日本人メキシコ移住史』のなかで振り返っている。長野県出身の小野は大陸殖民による移民で一九〇七年にコリマ鉄道に入っている。

「寺沢はちょうどカランサ政府の時に、チワワの方、自分の細君の弟が警視総監で寺沢はその時分は大したものだった。日本人を集めてカランサの軍に売り込んだのは知らない。私の会った時はそれはチワワでしょう。私の知っている寺沢は警視総監の義弟で、彼は何か少佐待遇で、何もしないでアヘンテ、警視庁で刑事で一等、二等、三等とがあるんですよ、その一等の刑事の部長か何かで、あの時分十五ペソ位もらっていたんじゃないかな、その下に宮部というのがいた。何か商事会社か何かで行って、やめて寺沢の子分として十ペソ位貰ってピストルを肩にかけて日本人会で玉つきをやって、それなんかペコペコしていた。何しろ代理公使が寺沢にビクビクしていたんだから。(略)寺沢はね、カランサ時代は巾をきかせていた」

 寺沢は愛知県の出身だが、一九〇六年に熊本移民合資の監督としてラス・エスペランサスに入っている。その後、同じコアウィラ州のシウダー・ポルフィリオ・ディアスに移り、メキシコ軍の兵営内で兵士相手の食料品店を経営していた。一九一四年に北部国境付近の日本人移民の情況を調べ歩いた伊藤敬一にコアウィラ州の様子を詳細に報告したのは寺沢だった。こうしたことから、小野がいうように寺沢はカランサ政府の軍関係者とかなり深い関係にあったようで、カバヨの部隊への日本人の周旋にはかなり高額の資金を与えられていたらしい。日本政府によるカランサ政府承認にも、その裏でさまざま動いていた。

 小野は続けて岩崎重明のことも述べている。

「海軍機関大尉でロンドンの観兵式に出るのに酒を飲み過ぎて時間に遅れて予備になった。それは体格もいいし、フランス語と英語が達者でそれが私共が行ったときの移民監督であった。それは大した人物だった」

 小野は「岩崎重兵衛」としているがおそらく同一人物だろう。軍人あがりだったかれは、東洋移民合資あるいは熊本移民合資の移民監督としてメキシコにやってきたのだろう。児玉倫太郎もそうした一人ではなかったか。といっても、ともに軍人というのは肩書だけで、実際には一日本人として参加したにすぎない。

 では、部隊に参加した日本人移民は実際にはどのような行動をとったのか、『日本人メキシコ移住史』に収録されている吉田俊二の述べるところにしたがってみよう。

 まず、吉田たちが働いていた「ロンドン・メキシコ銀行」に寺沢がやってきて、「カランサ将軍の参謀の一人で親友の少将」からの話だとしてテキサス独立運動への参加を誘いかける。報酬は日当三ドルあるいは五ドルだった。吉田はその日を一九一五年十二月末としている。結局、吉田はほかの二人といっしょに参加することにして、寺沢の指示にしたがって翌年一月二日にブエナ・ビスタ駅に行く。そこには七、八人の日本人と十五人前後のメキシコ人が集まっていたが、日本人のなかには児玉のほか、西村という元陸軍将校がいた。その後、ラレド行きの列車で北に向かい、途中、コアウィラ州サルティジョでさらに四、五人の日本人が加わり、ヌエボ・レオン州に入ってモンテレイを通り、そこから北に約百二十キロ離れたゴロンドリナスで降ろされた。

 そこで、またメキシコ人が加わり、駅近くの倉庫で待機していると一週間後に出発命令が出て、翌日、約三十キロ北のランパソスを攻撃した。といっても、「ビジャ、ビジャ」と叫びながら銃を空に向けて撃ちながら街を走り抜けるというだけのものだった。その後、さらに北に向かい、四、五日後には国境のパラホックスに着いたという。そこで、ほかの者はリオ・ブラボを渡ってテキサス州に入っていったが、吉田たちが受けた指令は「種々な書類や手紙」をモンテレイに運び、指示通りの所に配り、また帰還せよというものだった。そうして吉田がパラホックスに戻ると、テキサス州内に入っていた「遠征軍」も戻ってきた。そして、今度はサン・ベニト付近からまたテキサス州に入るということだったが、吉田たちはパラフォックスの民家で待機を続け、その後、モンテレイに戻り、メキシコ行きの切符をもらって解散命令を受けたという。

 吉田の話で気になるのはその日時で、太田の文書では、募集があって北部に向けて出発したのは一九一六年五月末のことだった。吉田の記憶違いによるものとすれば別だが、もしそうでなければ、テキサス独立運動への日本人移民の応募は一度きりではなかったことになる。また、もしそうだったとすれば、このときの部隊の目標は、吉田の言に続いて井沢実が述べているように、国境地帯で事件を起こし、それをビジャ軍の行為と見せかけてアメリカを刺激することにあったのだろう。だが、太田のいう五月募集の部隊のときは、すでにアメリカ軍はメキシコ領内に入っていたから、その目的も違っていたことはすでに述べたが、ビジャは各地でカランサ政府に対するゲリラ活動を続け、その勢力はまだまだ無視できなかった。いずれにせよ、日本人移民が「義勇軍」として参加したカバヨのそれにはカランサ政府が大きく関与していたことはたしかだった。

 ただ、義勇軍とは呼ばれているものの、これに参加した日本人移民にとっては「三ドル、五ドル」といった報酬が目的だった。メキシコ人たちも同様だろう。革命と呼ばれるものはあるにはあったが、多くの民衆はディアス時代のペオンと変わらない暮らしを続けていた。かれらの一日の稼ぎは多く見ても五十センタボス。そうした時代の、日当「三ドル、五ドル」だった。吉田たちの場合、それはかれらの上官だった児玉や岩崎が懐にしていたのかも知れないが、報酬を手にしないままに終わっている。カバヨがまとめた「義勇軍」も「テキサス独立運動」それ自体も、ともにメキシコの民衆生活とはかけ離れた、政治のからくりのなかで動いていた。

革命に参加した日本人

 メキシコ革命とそれによる動乱は各地で生活基盤を築きはじめていた日本人移民を巻き込み、さまざまな形で影響を与えることになったが、一方で、自らこの「革命」のなかに身を投じた者も少なくなかった。多かったのは北部炭坑に入った者で、そのうち何人かは、のちにキューバやブラジルに転航していくことにもなる。

 参加した動機はさまざまで、好んで参加した者もいたが、多くは流浪のなかで生活できなくなったからだった。メキシコ人兵士の場合もそうだったが、軍隊に入ることは就職することでもあった。それほど軍隊生活は、憲政軍、革命軍とも旨みがあった。また、社会基盤がまだまひ弱だった日本人移民にとってはその存在を認められる絶好の機会でもあった。とくにその名が知られているのが山根喜三郎、アルフレッド・吉松、横山猪和夫の三人だった。

 山根は、一八八九年生まれの山口県玖珂郡北河内村(岩国市)の人で、一九〇七年に大陸殖民第十回移民でオアハケニャに入っている。だが、過労で倒れ三カ月後に逃亡、ベラクルス州オリサバに一時いたあとコアウィラ州のコンキスタ炭坑だろう、坑夫に入り、そこで革命を迎えている。兵士となったのは一一年頃か。最初はウエルタ軍に入り、まもなくカランサ軍に転じ、ビジャ軍との戦闘などで勲功を立て少佐にまで昇進したという。村井の『パイオニア列伝』によれば、その後二〇年五月にオブレゴンに追われたカランサがベラクルスに逃れたときにも同行している。一万人を超える大部隊だったというが、途中、数度にわたってオブレゴン派の地方部隊に行く手を阻まれ、カランサはゲリラの首領ロドルフォ・エレロによって暗殺される。単身逃れた山根はオブレゴン軍の捕虜になるが、幸いにもメンデス将軍からその軍事才能を買われて主計官にまでなった。革命後は軍を離れ、二八年前後にはモンテレイに移って農園を開いている。

 一方、アルフレッド・吉松は一八八五年の生まれだがその名のように二世だった。「父はルイス吉松とのみで詳細の消息はなく、明治維新そうそう武士時代の遺物であるチョンマゲを戴き、一行三名アメリカより漂然とメキシコに流れ、曲芸師としてチョルーラ市へ出演した。彼の父は輪投げの名手、次の師は箱積み、最後の芸人は皿廻しであったとか。観覧中の大地主連中が、けなげなる奇風の東洋の青年を大衆嘲笑の的にするにしのびず、協議してカトリック信者にするようすすめ、まずチョンマゲを剃り落としてルイスなる洗礼名を与えたパドリーノは、金満家であり大地主の弁護士であった」と村井は記しているが、その後、ルイスは修道院に入れられて修業を終えたあとパドリーノの農園で働き、そこでメキシコ夫人と結ばれたという。

 アルフレッドも小さいころからパドリーノの農園で働いていたが、父が早くに死んだのだろう、その後、ティワカンの製材所に入り、そこで革命軍に参加した。詳細は明らかでないがかなりの将官クラスまで昇進している。

 もう一人、横山猪和夫についてもあまり詳細は明らかでないが、その名はタマウリパス州タンピコではいまもよく知られている。『大宝庫メキシコ』によれば、一九一二年、タンピコに医院を兼ねた薬店を開業し、その人格からメキシコ人にも慕われ市立病院の院長までなったが、まもなく革命軍に参加、すぐに部隊長として各地に転戦し、のちには将軍にまで上り詰めたという。ある日、タンピコでカランサ憲政軍の捕虜になり、軍法会議にかけられ銃殺刑を言い渡されたが、タンピコ市民の助命嘆願で無事釈放されるというエピソードももっていた。実際はタンピコの日本人会を通じて日本公使館が直接カランサに働きかけた結果で、原因はかれが無資格で開業していたため密告があって逮捕されたともいわれているが、スパイ嫌疑をかけられたのではなかったか。

 革命軍に参加したのは、さまざま伝えられているが、おそらく医師としての腕を買われたのだろう。吉田俊二もそうした一人だった。助命のエピソードは市民の間に医師としての能力と人格が認められていたことを物語るもので、銃殺を免れたのも、医師としてその存在が惜しまれたからかも知れない。その後、タマウリパス州シウダー・ビクトリアに移って開業医を続け、二一年には「日墨新報」という日本語新聞を発刊している。岡山県の出身で最初はアメリカに渡ったとする記録もあるが明らかでない。また、横山という名前自体も本名ではなく、ほんとうは小山だったと伝える人もいる。「俺は小山だ」というのをスペイン語でいえば、「ヨ、コヤマ」になり、それが訛って「ヨコヤマ」になったのではというのだが……。

 そのほか、一九〇六年にオアハケニャに入り、その後、マデロ軍に従軍、マデロが大統領となってからはその運転手を勤めていた田中浅次郎(福岡)、また、同様にオアハケニャ移民で、オブレゴン軍に入って運転手をして、のちには中尉にまで昇進したという船越広造(鳥取)のほか、マデロ軍からウエルタ軍、ビジャ軍と転々とした西山佐一郎(福岡)、オブレゴン軍に軍医として入った橋本徳吉(福井)、大沢開之進(長野)、また、ビジャ軍に入った浦垣八十吉(福岡)、奥橋俊一(広島)などがいる。

 ほかにも、その名を知られないまま、移民としての過渡の時代を憲政軍、革命軍の区別なく軍隊生活に送った者も少なくないだろう。ただ、生きるためであり、西山のように、そのときの戦況次第で、きょう政府軍にあった者が、明くる日には革命軍に鞍替えするということも珍しくはなかった。そのため、スパイ扱いされ命を落とした者もいた。

出雲の派遣と墨都自衛計画

 話は少し遡るが、ウエルタ反乱後のメキシコの情況を見ておこう。当時のメキシコは、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツのほかに、日本も加わり、少なくともメキシコ・シティに関してはそこが分割支配されようとしていたからである。ただ、義和団事件直後の中国の北京や上海のように列強によって租界、分割されずにすんだのは、皮肉にも、メキシコがその経済関係において、あまりにもアメリカの支配下にありすぎたからだった。

 一九一三年二月十九日、クーデターからの「悲劇の十日間」のあとマデロは国外への安全脱出を保証に大統領を辞任、それによってウエルタが実質的に政権を握ることになったが、かれのクーデターの背後には不安定なマデロ政権に代わるものとして、強力な軍事政権の出現を望んでいたアメリカ資本とアメリカ大使ヘンリー・レーン・ウィルソンの暗躍があった。ウィルソンの関係したアメリカ資本はマデロ一族所有の鉄鋼会社と競合関係にあったといわれている。しかし、その後、アメリカではタフトからウィルソンに大統領が代わったこともあってウエルタ政権を承認しなかったため、ウエルタ政権はマデロ政権以上に不安定なものになった。

 そのため、ウエルタはイギリス、フランスはじめ日本にも働きかけ、その承認とともに援助を得ようと奔走している。安達峯一郎が特命全権公使として入ったのはそうした一三年七月のことだった。対アメリカ関係が悪化しない範囲で、新たな日墨関係をつくり出そうとしたのだろう。

 一方、北部ではビジャが、そして少し遅れてカランサ、オブレゴンが、また、南部ではサパタがウエルタ政権の打倒に立ち上がったが、ビジャは早くも九月二十九日には北部の要衝トレオンを攻撃、数日後に陥落させたあと、十一月十五日にはシウダー・ファレスを奪還してチワワ州北部をその勢力下に置いている。また、八月にはカランサはオブレゴンと手を組みオブレゴンの本拠ソノラ州に臨時政府を置いていた。また、南部ではサパタがモレロス州を中心に勢力を広げ、北部軍のそれとあわせてメキシコ・シティに迫ろうとしていた。こうした結果、早くも一三年末にはウエルタ政権の実質的支配区域はトレオン以南の北部地域と首都周辺に限られるまでになっている。

 そうしたなかで行なわれたのが日本からの巡洋艦「出雲」の派遣だった。アメリカはすでに四月にメキシコ湾岸のベラクルスに艦隊を派遣、ベラクルス市民の抵抗にもかかわらず軍隊を上陸させて占領している。タンピコ周辺の石油権益の保護という名目だった。一方、イギリスもテワンテペック地峡の石油利権と鉄道利権を握っていたためアメリカ同様の立場にあったが、ヨーロッパ戦線が勃発寸前だったため軍隊を派遣できる情況ではなかった。フランスも同様だっただろう。

 出雲は十二月二十二日、マンサニージョに入っている。派遣は安達が強く要請したもので、日本政府は消極的だったといわれているが、そうともいい切れない情況があった。日本が出雲を派遣したのは在留民保護が名目だったが、背後には当時の日米関係が色濃く反映している。少しのちのことになるが、翌一四年四月十八日付で杉村ドイツ大使は「テークリッヘルンドシャウ」紙に報道された「メキシコ、アメリカ、日本」と題した記事を、「対墨国日米利害関係を詳論したるものにして注目に値するもの」として抄訳を外務大臣加藤高明に書き送っているが、そのなかに「日米戦争の場合に於ける両国に対する墨国の価値」とした、こんな一節がある。

「日米両国の墨西哥両交戦団体に与へ居る同情の表示は、言論新聞によりてなされたると、又金銭武器の供給によりてなされたるとを問はず、或意味に於て日米将来の葛藤の前提と見るを得べし。し日本にして墨国歴史中に決定的の感化を行ふことを得ば、将来の戦争に際し墨西哥に於ける確実なる軍事根拠地を有するを以て絶大なる利益を受くるものと云ふべし。日本にして米国と事を構ふる前、軍事上の教育完全なる数万、数十万の新波労働者を墨国に送り置く時は少くとも開戦の当初に於て非常に堅固なる地位を護持することを得べし。故に此際米国の為めに謀るに墨国現時の動乱を自己の利益に帰するが如く導くか、若しくば巴奈馬運河開通する迄日本に攻勢を取るの機会を与へざるにあり。米国艦隊は其数に於て日本艦隊に勝るも、之を以てしては開戦の暁に於ける勝敗は未だにわか逆睹ぎゃくとし得べからず」

 墨西哥両交戦団体とはビジャ、カランサなどの北部憲政軍とウエルタ軍とのことだが、アメリカは憲政軍に、日本はウエルタに武器を供与しているとされていた。そうした両国のメキシコ動乱への援助、介入は、将来起こり得る日本とアメリカの戦争の前兆であり、その場合、日本はメキシコを軍事基地とすることで戦況を有利に運ぶことができるというのだった。

 出雲の派遣は少なくともドイツではこうした印象でとらえられていた。もちろん、当時の海外公館には文官とは別に軍部から武官が派遣されていて、かれらの意向は政府以前に直接軍部に通じていた。安達の要請の背後にはこうした武官の動きがあったことはたしかだが、韓国併合を終えた日本は憲政擁護の動きのなかでさえ、次第に満州支配に向かっていた。軍部ばかりの先走りとはいえないだろう。

 さて、出雲の方はマンサニージョで海軍少佐森電三を指揮官とした数十人を上陸させたあと、北に向かって沿岸を航行し、各所で乗組員を上陸させている。日本人移民の現状調査だったというが、それだけではなかっただろう。ドイツ紙がいうように、将来の日米戦争を想定したうえでのものであれば、海軍基地の調査などには絶好の機会だった。一方、森電三の分隊は日本公使館護衛の名目でメキシコ・シティに入り、艦長森山慶三郎の一隊も一カ月後れでそれを追っている。そして、ウエルタから大歓迎され、日本からの資金援助などの密約も交わされたという。背後にいたのは、加藤高明の三菱に対抗し軍部と密接な関係にあり、それによって日露戦争時には軍需品調達に独占的地位を保証されていた三井だった。すでにウエルタ政府と武器輸出の密約を交わしていた三井はメキシコに石油開発に絡んだ進出を図ろうとしていた。

「在墨邦人自衛計画案」なるものが作成されたのはそうした、一九一三年十二月三十一日のことだった。出雲の派遣以前から素案があったようだが、まとめたのは当時メキシコ・シティに駐在していた森少佐だった。極秘資料として五十部作成され、その数部が外務大臣牧野伸顕に送られている。まず、その要旨から見てみよう。

「一、本計画は一九一三年十二月八日在墨市列国居留民代表者(日、英、独、仏、白、墺)の決議に基き当地の情勢危急にして自衛を必須とする場合に当り邦人受持区域の警戒並に防衛に関する綱領を定む。二、警衛に従事すべき人員は墨市在留邦人より成る義勇隊を以て之につ。隊員警急の報に接せばすみやかに帝国公使館に集合し指揮官の令に従て警戒もしくば防衛配備に就くものとす。但し指揮官の特令あるにあらざれば武器の使用を禁ず。此場合に於ける避難邦人はず公使館前の避難家屋付近に集合して後命を待つものとす。三、若し他部隊の応援を受けたる場合には指揮官は応援隊指揮官と協議の上本計画の要旨に従ひ機宜きぎの処置をとるものとす」

 列国居留民代表者による決議というのは列国の外交団の代表者会議あるいはそれによって指導された在留者代表会議による決議のことだろう。それぞれの在留者の保護、避難というのが目的とされているが、実際はそれぞれの公館を革命の混乱から防衛するためのもので、各国はそれぞれの大使館、公使館の所在地を中心に防衛地区を設定している。一種の試験的な租界であり、これに本格的な軍隊の導入があれば分割租借が成立する。当時、日本公使館は現在のローマ地区オリサバ街にあった。ちょうどチャプルテペック通りとインスルヘンテス通りとの交差点を少し東に入った通りで、南に下れば広いプラサがあり、いまはプラサ・リオ・デ・ジャネイロと呼ばれているが、その南西の角だった。日本の防衛受持区域はこの広場を中心に、北はチャプルテペック通り、西はインスルヘンテス通り、南はアルバロ・オブレゴン通り、東はメリダ通りと一部クアウテモク通りに至る区域だった。そして、北に接した区域はイギリス、南に接した方はドイツの防衛区域になっていた。

 義勇隊の編成は指揮官クラスの十四人を含めた九十三人という小規模なものだが、司令部の下に銃隊と付属隊(衛生隊、給養隊)を置くなど軍事編成としてはかなり整然とまとめられている。それぞれの部隊の隊長格には黒井五郎、菅原藤次郎、西沢豊蔵、田中兵助などを配し、司令部員には小野寺寿雄、林温吉、須沢豊一郎、清水哉吉、小林直太郎など、日本や公使館と関係の深かった人物があげられている。

 小野寺はのちにカランサ政府に接近し日本からの武器買付けの仲介役となった人物で三井の代理人をしていた。林は、のちに述べるが横浜の絹織物商社加藤合名会社のメキシコ支店の支配人として駐在していた。また、清水はその卸部の主任だった。榎本殖民地に関係してメキシコに入った小林は当時はメキシコ・シティにいたが、古くから東洋移民合資や公使館と密接なつながりがあり、当時は東洋汽船の代理人として清水とも親しかった。そして、のちにこの二人は新たに分派した日本人会をつくり、公使館、とくに代理公使太田為吉と対立することになる。

 防衛体制の実際はどのように設定されていたのだろうか。「自衛計画案」によれば、市内各地区にはその地区の代表者として「通信掛」を置き、一般の在留者はこの「通信掛」に異変を通知し、それを「通信掛」が公使館に連絡、その判断と指令を待って、非常時には義勇隊員が公使館に参集し防衛にあたることになっていた。その中心はあくまでも公使館であり、おそらく駐在武官が最高指揮官となるはずのものだったろう。一組十人で隊を組み、その三隊が「当直」として警戒にあたり、残りは公使館とその東向いにあった避難場所の一つピジョン・ハウスで待機することになっていた。警戒区域は昼間は「受持区域」全域、夜間は公使館の周囲四ブロックだった。

 また、実際の警戒にあたっての守備規則は次のように定められていた。

「一、哨兵は絶へず乱徒の方向を監察しすべて疑はしき徴候に深く注意し不穏の形勢を発見せし時は電話もしくば呼子笛にり之を自隊に報告すべし。又D家屋[公使館]若くばE家屋[ピジョンハウス]屋上の信号に注意を払うを要す。二、哨兵は命令あるにあらざれば坐臥するを許さず。又如何なる場合といえども銃を手より放すを許さず。しこうして昼間は立銃をなすか或は銃をさげるか或は銃を腕に托す(銃口を前にし稍水平に腕に托す)べきかは随意とす。夜間は着剣せしむることあるべし。三、哨兵復哨なる時は一名は隣哨との連絡を保持し、又前方に生ずる諸件を自隊に報告するの任に当る。四、巡邏じゅんらは所定の区域を巡回して哨兵との連絡を保持し状況を偵察するを任とす。其守則は哨兵守則に準ず」

 まさに軍隊規則そのものだが、アナクロというか時代錯誤も激しい気がする。

 一方、この時期、フランシスコ・レオン・デ・ラ・バラが特命大使として日本に派遣されていた。表向きは三年前に開催された独立百周年記念式典への日本代表団派遣に対する答礼だった。それにはすでに半年前にディアス大統領の弟フェリックス・ディアスの派遣が決まっていたが、日本政府の反対で中止されていた。日墨関係の親密化が日米関係に悪影響を及ぼすことを警戒したからだろう。明らかでないが、デ・ラ・バラは東京で三井関係者と接触、三井は武器輸出と引き換えに石油利権の取得などさまざまなメキシコ進出計画を打診、交渉したという。そして明くる一九一四年はじめメキシコへの武器輸出が行なわれる。だが、それはロサンゼルスでの積み替えのときアメリカ政府に差し押さえられたためウエルタ軍には届かず、その後、アメリカがカランサ政府を承認したあと一六年にカランサ軍の手にわたっている。

 ウエルタ政権の崩壊はこうした日本とメキシコの接近から約半年後の一九一四年七月のことだが、すでにその衰退は前年の暮れから目に見えて激しかった。「自衛計画」はそうした情況のなかで日本公使館が在留民を使って防衛を計ろうとしたものだった。また、そうした混乱のなかで租借の試行をしたのではなかったか。いずれにしても、防衛、警戒は公使館を中心とする地域だけで、在留民の避難場所と指定されていたとはいえ、けっして在留民を保護するためではなかった。列強も同様だろう。

 一方、その間、出雲はメキシコ太平洋岸からアメリカのサンディエゴにいたる一帯を数度にわたって航行し、ビジャやカランサ軍とも接触したり、八月にはサンディエゴに入港、また、翌一九一五年一月にはバハ・カリフォルニア半島中部の日本人漁業基地バイア・トルトゥガス(タートル湾)で座礁した浅間の救出にもあたり、それぞれにかなり長期間にわたって係留しているが、それ以外はほとんどマンサニージョに投錨し、混乱のメキシコを遠望していた。首都が動乱の戦場になり公館と在留館員が危険にさらされたときの援護と、そうした行動が投影する日米関係の情報を日本に伝える役目もあったのだろう。日本公使館との連絡も密に行なわれ安達も何度か足を運んでいる。一度は一四年六月一日のことだった。メキシコ・シティからグァダラハラを経てコリマ鉄道でマンサニージョに入っている。当時、メキシコ・シティからグァダラハラまでは十六時間、それから先マンサニージョまでは十時間の行程だが、連絡がうまくいかないときはグァダラハラ泊となって二日はかかる。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなど大西洋岸のベラクルスを基点にした列強の場合は、メキシコ・シティに入るには十二、三時間あればよかったことを考えれば日本は不利な立場にあり、首都非常時にはほとんど意味がなかった。また、当時、グァダラハラとマンサニージョとの間は憲政軍の影響下にあり、いくつもに分派したゲリラが出没していたからなおのこと。このときの安達一行も、翌日、帰途についたがコリマを過ぎたあと少し北のサユラ付近で憲政派ゲリラに列車を襲撃され、被害はなかったものの鉄道が破壊されたため、サユラのホテルに数日にわたって足止めを食わされている。このとき、安達の一行を救出しそのあとメキシコ・シティまで護送したのが森を隊長とした十三人の特別派遣隊だった。そのときの様子を森は詳細に報告しているが、かれは分遣隊の派遣を首都非常時の一種の演習と考えていたようで、それにさまざま協力を強いられたのがコリマ鉄道近在にいた日本人移民だった。

 一方、そうしている間にも、北部では六月二十三日からビジャ軍がサカテカスへの総攻撃を開始し約六時間の戦闘でウエルタ軍を敗走させ、翌日には陥落させたことから、ウエルタ政権の凋落が明らかになる。そして、浮足立ったウエルタは七月十五日にはメキシコ・シティから逃亡。八月十五日にはオブレゴンが、さらに、三日後にはカランサがメキシコ・シティに入った。依然として首都は混乱にあったが、次第に憲政派が勢力を拡大したことから、一五年十月十九日、アメリカはカランサ政府を承認。それによって列強による分割の動きは終わった。アメリカはイギリス、フランス、日本などの列強を排除し、メキシコでのアメリカ資本の伸張と支配を強化しようとしたのだった。

三幕 変容の時代

カリフォルニアからの南下

 反乱によってウエルタが政権をとった一九一三年から、カランサ、オブレゴンと続いてプルタルコ・エリアス・カイエスが大統領となった二四年にかけて、メキシコの北部国境地帯では、それまでの日本人移民の歴史になかった新しい動きがはじまっていた。カリフォルニア州南部の日本人移民の国境を越えての南下だった。その最大の契機になったのはカリフォルニア州での排日土地法の成立だった。

 アメリカでは一九〇八年の紳士協約のあと、西海岸諸州を中心に排日運動はさらに激しくなり、一三年四月十五日には、ヘニー=ウェッブ法案がカリフォルニア州議会下院を通過、五月十九日には発効し、八月十日から実施されることになった。外国人の土地所有を禁止すると同時にその借地権までも三年間に制限しようとしたもので、表面上は外国人一般に対するものとされていたが、実質的には、当時、二十万エーカーを超える農地を耕作し、その農業生産高は全カリフォルニアの約一割を占めるなど農業活動を中心に基盤を築きはじめていた日本人移民を対象にしたものだった。カリフォルニアでの最初の排日土地法で、これによってカリフォルニアの日本人移民は帰化権がないことを理由に土地の所有権を奪われたのだった。その後、同様の土地法は一七年にアリゾナ州で、また、ワシントン州では二一年に、さらに、二三年にはオレゴン、アイダホ、ニューメキシコ、テキサスなどの諸州でも制定されている。

 だが、カリフォルニア州ではその後一九二三年には、さらに徹底した外国人土地法が成立する。一三年の土地法とそれを修正した二十年の土地法をさらに修正したもので、小作契約も不動産権の一部と規定され、帰化不能外国人は不動産の所有と使用、譲渡ができず、帰化資格のない外国人が不動産の後見人となることまで禁止されることになった。これによって日本人移民の土地所有は完全に不可能になり、それまでの耕作権も奪われることになった。そして翌年五月二十六日には、いわゆる日本人排斥法が移民割当法として成立、実施に移された七月一日からは、日本人移民の新たな入国も禁止されることになった。

 メキシコへのカリフォルニア州南部の日本人移民の南下は、こうした排日激化のなかではじまっている。排日土地法によって深刻な打撃を受けたかれらは南のメキシコに新たな活動の場を求めたのだった。最初はアメリカでそれなりの地位を築いていた者が、その資力をもって新たにメキシコに生活基盤を築こうとした動きが多かったが、次第にその層も一般労働者の移動へと拡大していった。前者の代表的な例としては、メキシコへの移動をその経営する新聞紙上で呼びかけ、自らソノラ州の荒野の開拓に挑んだ副島八郎があげられるだろう。

 また、直接的なアメリカへの移民ではなかったが、日本の移民会社である海外興業を通じて新規移民を呼び寄せ、バハ・カリフォルニアに漁業活動を拡大した近藤政治もその一人として考えていいだろう。そして、大和民族発展社のようにメキシコの土地法を無視したかなりきわどい手法でメキシコに利を求めようとした試みもあった。また、これはカリフォルニアからの南下によるものではなかったが、初期にはひじょうに有望視され、二回にわたって日本からの入植者を迎えながらも資金不足のために失敗した、ハリスコ州のエスタンスエラ農場の経営や、そうした動きに刺激された形で鉱山開発を手がけた条勉のような者もいた。

 かれらはメキシコでの日本人社会発展の理想に燃えたのか、あるいは言葉は悪いが、自らの欲得の果てのことだったのか、いずれにせよ、その活動がメキシコの日本人社会に大きなインパクトを与えたことはたしかだった。一方、そうした動きとかけ離れた南部では引き続いて日本人移民の定着が着実に進んでいたが、革命の動乱のなかで移動の激しかった北部の日本人移民の間では、こうしたかれらの活動が一つの契機となって日本人社会の形成がはじまったといってもいい。

 ただ、そうした動きも長くは続いていない。一九二九年にはじまったアメリカでの経済恐慌の煽りを受け、メキシコ経済は次第に不況に陥り、その影響が日本人社会にも及びはじめる。親日的といわれたメキシコでの排日の幕開けだった。メキシコ人の八十パーセント雇用を定めた、いわゆる八十パーセント法や、マサトランでの日本人理髪店閉鎖問題、そしてベラクルスでの労働法制定問題など日本人移民に対する排斥運動が、この時期にいくつか起こっている。ただ、それらがカリフォルニアでのように激しい形で現われなかったのは、いまだ日本人社会が確固たるものとして成立していなかったからだった。

 そうした日本人社会に大きなインパクトを与えたカリフォルニア南部の日本人移民の南下の動きからはじめ、その後、約三十年、ようやく生まれつつあった日本人社会が崩壊の危機にさらされる日米戦争までの時期に焦点を絞り、各地の日本人移民の様子を追ってみよう。メキシコにおける日系社会形成の時期であり、そうした形成に奔走し、その後の日系社会を牽引していく人物もさまざま登場してくる。そして、この時期を境に、メキシコの日本人移民史も、個々の舞台であれ、集団としてのそれであれ、メキシコとアメリカとの経済関係を語ることなしにはすまされない時代に入っていく、移民変容の時代でもあった。

バハ・カリフォルニアへの漁業移民

 これまでのメキシコ日本人移民史には、バハ・カリフォルニアでの日本人漁業移民の記録がすっぽり欠けている。当然のことで、かれらの旅券上の渡航先はメキシコだったが、その生業や活動基盤はアメリカにあったからで、かれら自身もメキシコ移民とは思っていなかった。

『在米日本人史』(在米日本人会編)によれば、カリフォルニア南部での日本人移民による漁業の先駆けは千葉県出身の佐野初次だったという。今世紀はじめ、ロサンゼルスでのことだった。当時のアメリカにはそれほどの水産物需要がなかったため、かれは数年で事業を中止しているが、その後の人口増加によって市場が確立したため事業を再開、それに刺激された日本人移民も加わって、日本人移民による漁業活動は南のサン・ディエゴまで拡大し、一九一〇年前後にはロサンゼルスを中心に、採鮑や採蝦、鮪漁業を続け、ロサンゼルス南郊のサン・ペドロやその対岸のターミナル島(現、サンタ・カタリナ島)に缶詰工場をもつまでになっていた。ただ、農業同様、漁業面でも排日運動が激しく、鮑の漁獲制限をはじめとする漁業法案が成立するなどさまざまな圧迫があった。だが、それに対抗して一六年には漁業組合を設立し、その後は鮪缶詰の需要の増大によってサン・ペドロとサン・ディエゴを中心に基盤を築き、メキシコのカリフォルニア半島の沖合いにまで漁場を拡大している。

 そうしたカリフォルニア南部での日本人の漁業活動に大きな刺激を与えたのが近藤政治だった。農商務省あるいは内務省の役人だったと思うが、西海岸での漁業活動の視察だったのか、一九一〇年前後にカリフォルニアからメキシコ北部にかけての沿岸部を回遊している。そのとき、バハ・カリフォルニア付近の水産資源が豊富なのに注目、すぐにロサンゼルスに居を移し、サン・ディエゴに水産会社MKフィッシャーズを設立した。一二年前後のことだろう。アメリカ人との合弁で、MKとは近藤政治のイニシャルだった。そして、日本から漁業移民を呼び寄せた。ただ、漁業面でも排日が激しかったため、近藤はかれらをアメリカ移民としてではなくメキシコ移民として呼び寄せた。そして、バハ・カリフォルニアの沿岸部での採鮑と沖合いでの鮪漁業に乗り出した。

 移民の募集にあたったのは海外興業株式会社(以下、海外興業)だったが、それ以前は、近藤と親しかった東京水産講習所(現、東京海洋大学)の所長だった伊谷以知二郎が個人的に仲介にあたっていた。一九一三年に、岩手、宮城、茨城、静岡、三重の五県から十三人がメキシコに入っているが、茨城県からは小川某と関伊三郎の二人が入っている。茨城県からメキシコへの草分け移民ではなかったかと思う。一九〇六、七年という大量移民のときでさえ、移民名簿上、南部砂糖耕地や北部の炭坑などに茨城県から入った記録はない。

 その後も、岩手、宮城、三重、和歌山などから二十人前後が呼び寄せられている。それにロサンゼルス付近の日本人漁夫も加わり、一九一六年前後には漁業会社としてのMKの地盤も固まり、さらに事業の拡大を計ったのだろう。一八年には海外興業を通して日本から漁業移民を導入している。ただ、このときはMKだけのものではなかったかもしれない。雇用者はMKの近藤ではなく、メキシカン・インダストリアル・カンパニー(メキシコ興業組合、以下「組合」)の近藤となっている。

 MKと「組合」とはどのような関係にあったのか。『在米日本人史』は「サウザン・コンマシャル会社は、其本拠を低加州に置き、元大阪府人十二名が株式組織を以て帆船『十二丸』を作って漁業を墨国沿岸に試みた」と述べている。一方、海外興業の「状況書」には、「同組合は本邦第一流の実業家十二名より成り、内外人間に多大の信用を有する堅実なる実業団体なり」と記されている。おそらく、この「サウザン・コンマシャル会社」と「組合」とは同じものだろう。続けて『在米日本人史』が「邦人中鮪漁獲と缶詰の開祖である」としている近藤は、当時、その代表になっていた。メキシコに漁業活動を拡大するためにMKをはじめとした日本人漁業者たちが同業組合を結成していたのだろう。

 海外興業は第一回移民として五十人を予定して募集。宮城七、茨城二十一、千葉五、三重三、和歌山三、長崎十の計四十九人が自由移民としてメキシコに入っている。東洋汽船の南米航路あるいは北米航路でサンフランシスコあるいはロサンゼルスに入り、それから先は「組合」所属船による、と海外興業の「状況書」には記されているが、直接、「十二丸」(帆船、二百トン)で太平洋を渡ったこともあった。メキシコまでの渡航費は全額「組合」負担で、日本の乗船地までの旅費と船待ちの宿泊料三円も含まれていた。

 では、労働条件はどのようなものだったのか。「組合」の「雇用条件書」に見ておこう。

 労働地は主としてアメリカの日本人漁業者がサン・バルトロメ湾あるいはタートル湾と呼んだバイア・トルトゥガス(亀湾)だった。「雇用条件書」にはそのほかにグァイマス、マサトラン、ラ・パスがあげられているが、ほとんどはバイア・トルトゥガスに設けられた缶詰工場とその付近での採鮑、そして、そこを基地とした沖合いでの鮪漁だった。

 労働契約は三年、労働時間は一日十時間。賃金は漁夫の場合は月二十五ドル、採鮑のダイバーは五十ドルだったが、ほかに漁獲量に応じた歩合制がとられていて、その三割は「組合」側が「契約保証金」と帰国旅費にあてるために保管し、契約満了時には払い戻されることになっていた。ほかの条件としては、「組合」は台所とベッドの付いた住居を用意し、食料、調理用具、漁具などを支給、さらに、医療が無料だったほか、就業中に死亡した場合、また、労働不能の負傷を負った場合は二百五十ドル以上の補償金が与えられることになっていた。

 海外興業による二回目の募集は一九二三年だった。一八年の第一回以後、岩手、宮城、和歌山などから三十人前後が呼び寄せの形で入っているが、この二三年の募集のとき「組合」側は百人の雇用を予定、それに対して海外興業は、岩手十六、宮城七、茨城三十二、千葉五、静岡二十二、三重十八の計百人を予定して募集したが、実際に海外興業の手を経て渡航したのは宮城二、茨城六の計八人だけだった。ただ、翌二十四年に静岡から二十四人が海外興業の取り扱いでない自由移民として渡っているが、これも「組合」によるものだろう。条件は、契約期間が四年になり、新たに保証人制度が取り入れられた以外はほとんど変わりなかったが、大きく違ったのは賃金制度だった。「組合」は漁夫の場合に限り、それまでの月給制を廃止し、歩合制一本に切り替えている。「組合」の「歩合金計算説明書」によれば、その歩合率は次のようになっていた。まず、それぞれ一トン当りの価格評価から。

 〈釣魚北部漁場〉

 鰭長鮪 二十ドル

 鮪、鰹、鰤 八ドル

 〈釣魚南部漁場〉

 鮪、鰹、鰤 六ドル

 〈巾着網漁〉

 鮪、鰹、鰤、バラクダ、シーバス 八ドル

 〈採鮑漁業〉

 乾鮑 百三十ドル

 北部漁場というのはアメリカのカリフォルニア州の沖合い、南部漁場とはメキシコのカリフォルニア半島の沖合いのこと。「釣魚」はいわゆる一本釣りのことだが、竿は短い上に釣糸は一メートル前後しかなく、漁師たちは漁船の舷に金網で張り出しをつくり、その上に乗って引き上げるようにして釣り上げる大胆な漁法だった。資源が豊富だったからだろう。また、「巾着網漁」は網を丸く張ってその口を締めながら魚を追い込む方法。鰭長鮪というのは、いわゆるビンチョウマグロ、鮪というのは主としてキワダ(キハダ)と呼ばれているもので、ともに三メートルを超える。

 次に、漁獲量の方は、①「釣魚北部漁場」の鰭長鮪が一カ月十トン、②鮪、鰹、鰤が四カ月で五十トン、③「釣魚南部漁場」の鮪、鰹、鰤が一カ月五十トン、④「巾着網漁」が一カ月百二十トン、⑤「採鮑漁業」が一カ月五トンである。そして、それらの人員構成としては、①、②、③の場合は漁船一隻に四人、④の場合は十二人、⑤の場合は八人が最低限必要だったから、それぞれの平均一人当り一カ月の歩合率は、①五十ドル、②二十五ドル、③七十五ドル、④八十ドル、⑤八十一ドルになる。

 ただ、漁獲期間は、④、⑤がともに終年だが、①、②は六月から九月の四カ月間、③が九月から翌年五月までの九カ月間だけだったから、毎月決ってこれだけの収入になったわけではない。また、採鮑のように、ダイバー一人、空気ポンプ担当三人(こぎ手二、ホース固定一)、舵取一人、漕ぎ手一、二人、炊事担当一人と通常七、八人単位で漁をしていた場合は、それぞれの労働量によって歩合率にも上下があった。ふつう、ダイバーはほかの者の三倍前後の収入があったという。

 もちろん、これらは募集のために「組合」側が呈示した数字に過ぎず、時期によって変動があったことはいうまでもない。缶詰工場での報酬の詳しいことはわからないが、いずれにしても一般的にみれば月平均三十ドルから五十ドルの収入だったとするのが妥当なところだろう。

 その後、近藤は一九二六年前後にMKの経営を放棄し日本に引き揚げたというが、それまでに呼び寄せられたのは、宮城、三重、和歌山、長崎などからの百人前後だった。そして、さらに、三六、七年までの時期に四百六十人前後が入っている。ただ、これらは「組合」にだけ関係したものだったかどうか明らかでない。トータルすれば直接日本からメキシコに入った漁業移民は六百八十人を上回ることになる。ただ、数度にわたる渡航が多かったことを考えれば実数としては、この半数前後から四百人前後と考えていいだろう。バイア・トルトゥガスやエンセナダには多いときには四百五十人を超える日本人が就労し、うち二百人前後が茨城県出身者だったとする記録もあるが、日本から直接入った同県出身者は多くみても七十人前後で、あとはカリフォルニア南部からの南下組だったろう。直接、日本からの渡航が多かったのは、まずトップが和歌山県で、ついで茨城、宮城、三重、岩手、高知、長崎の順となるだろう。

 その後、MKはサン・ディエゴに本拠を置いていた大洋産業株式会社(Ocean Industry Co.)が事業を引き継ぎ、国際水産株式会社(International Marine Products Co.)として経営を続けたが、一九三〇年頃までは日本人移民の間では従来通りMKで通用していた。二九年に二度目の漁業移民として渡った富田一(茨城県日立市)が入ったときもMKで通っていたという。同氏がメキシコでの漁業を知ったのは同郷の先行移民小川、関からの土産話で、父伊勢松はまず長男のかれを一九二三年に渡航させた。伊勢松は多賀郡高鈴村(現、日立市)の採鮑の網元で小規模だったが最盛期には五、六トンの船を二隻持ち、近在の漁師十五、六人を使っていたという。しかし、一五年前後から海水汚染が酷くなり、海草が育たなくなったため、鮑も採れなくなり出稼ぎがはじまった。その後、一は二年で帰郷、代わって伊勢松が渡航、二年ほどバイア・トルトゥガスで採鮑に従事したあと帰郷し、それを待ってまた一が渡航。こうして一は前後、二、三年、三回にわたってメキシコに入っている。お会いしたのは八九年だったか、いまも元気にしておられるかどうか、日立のホテル天地閣のオーナーだった。

採鮑移民

 メキシコ太平洋岸での日本人移民による漁業活動はどのようなものであったのか。鮪漁業の基地になっていたのは、やはりサン・ディエゴだった。出漁の期間は五月から九月にかけてで、それ以後は南に遠くパナマ沖合いから赤道付近にまで鮪の群れを追っていく。すでに冷凍船が登場していた時代で、漁期は二、三カ月にわたった。一方、カリフォルニア半島の沖合いでの漁獲のときは百トン前後の小型船で一回の出漁は十日から十五日前後、そして、どちらの場合もサン・ディエゴに戻って荷揚げする。後者の場合、月に三回も往復すれば豊漁の極みだったという。初期の頃はMKなど漁業会社の所有船に乗っていたが、三〇年代になると日本人漁民のなかにも自ら漁船を持つ者が現われる。富田一は二度目のメキシコ入りのときに漁船エンタープライズ(八十トン)を約六百ドルで手に入れている。

 鮪漁業者に限れば、メキシコ移民とはいうものの、漁に出れば海の上、陸に上がるのはサン・ディエゴというわけで、メキシコにいたという実感はほとんどなかった。一もメキシコのエンセナダには二、三カ月に一度、漁業ライセンスを取りに出かけただけで、ほかにラ・パスやマサトランなどに寄港することもあったが、陸に上がるのはサン・ディエゴだけで、アメリカに移民していたという感覚の方が強かったという。ほかにサン・ディエゴを基地として活動していた漁業者にはアメリカ人以外ではポルトガル人、ドイツ人が多かった。

 一方、採鮑の中心はバイア・トルトゥガスだった。MKをはじめ日本人漁業家の缶詰工場と採鮑漁業者たちのキャンプがあり、一九三〇年には百三十九人の日本人移民がいた。ただ、缶詰工場で働いていた日本人移民はごくわずかで、ほとんどが鮑採りをしていた。湾内では海藻が多かったため、採鮑には平底船を使い、岸からは脈曳と呼ばれた曳船に二、三隻が一組になって採取場まで曳航されたという。採鮑船の乗組員構成は、先に述べたように、海に潜るダイバー一人のほかに六、七人が付いたときもあったが、ダイバー一人に漁夫四人という組み合せもあった。後者の場合は船上での炊事はできなかったからキャンプに戻らなければならない。鮑は干鮑や缶詰にして、週に一、二回、サン・ディエゴからやってくる運搬船で、いったんサン・ディエゴに運ばれたあと、中国、マレー、ハワイなどに輸出されている。中国料理に欠かせない鮑は高価に売れたから干鮑の方が生産量は圧倒的に多かった。

 また、少し北のセドロス島でも漁業は行なわれていたが、缶詰工場が設けられたのは一九三〇年前後のことで、その時点でも日本人漁業者は三十人前後と、バイア・トルトゥガスに比べればわずかだった。そのほかバイア・トルトゥガスではランゴスタ漁も行なわれていたが、鮑に比べれば漁獲量は少なく売値も安かった。

 いまではエンセナダもバハ・カリフォルニア州の一大漁業基地になっているが、一九三〇年当時は人口三千人止まりの小さな町で、のちに述べるように農業方面ではかなりの日本人移民がいたが、漁業に限れば漁獲の合間に立ち寄る程度で長期にわたって滞留する者はほとんどいなかった。福島外務書記生のレポート「墨国エンセナダ方面に於ける本邦人の発展状況」は、一九三〇年には百十九人の日本人漁業関係者が在留していたとしているが、それは旅券上、エンセナダ在留として漁業ライセンスを登録していたからだった。また、同年にはコンパーニャ・デ・プロドゥクトス・マリノス(海産株式会社)というメキシコ資本の会社が設立され、北西に約十キロ離れたエル・サウサルに缶詰工場をつくっているが、その後、二、三年で事業も中断している。日本人漁業者にとってエンセナダはほとんど活動の地とはなっていなかった。

 このように、鮪漁獲を除けばほとんどが採鮑だったわけで、バハ・カリフォルニアの鮑は絶滅の危機にあったのかどうか、一九三二年八月にはメキシコ政府によって、バハ・カリフォルニアでの缶詰用以外の鮑の採取と輸出は五年間にわたって禁止され、また、缶詰用の鮑の採取量にも制限枠が設けられている。バハ・カリフォルニアでの日本人による採鮑は独占を超えた寡占の状態にあったから、先のコンパーニャ・デ・プロドゥクトス・マリノスをはじめとするメキシコ漁業資本からの圧力があったにちがいない。ともかく、これによって採鮑の日本人漁業者は手痛い打撃を受け、ほとんどは天草採りやランゴスタ漁に移ったほか、鮪漁業に転じた者も多かった。といっても、影響をまともに受けたのは直接採鮑に従事していたダイバーなどの漁業者だけで、日本人経営の漁業会社にはほとんど影響はなかった。あとで述べるように、採鮑には請負制がとられていたからだった。

 さて、日本人漁業者の労働形態だが、初期の頃は会社からの月給制がほとんどだったが、一九二五、六年頃になると、自ら漁船を所有する者が多くなり、同じ日本人移民のほかにメキシコ人も使って請負をはじめる者も出てきた。「墨国エンセナダ方面に於ける本邦人の発展状況」によれば、三〇年頃には植地久太郎(和歌山)、柴田信(静岡)、伊藤昂(広島)、今井三次郎(三重)、大庭義松(福岡)がそうした請負漁をしていたという。植地はアメリカの漁業会社から三隻の船を用船し三十人前後を使っていた。といっても、かれらも出資していたから実際は共同経営のようなものだったという。伊藤はエンセナダで理髪店を経営していたが、三〇年に所有船一隻で採鮑の請負をはじめた。大庭は十五、六人を使ってランゴスタ漁と天草採りを、鈴木は鮑採りをしていた。また、柴田は漁船と運搬船のほかに採鮑船曳船五隻を所有し、エンセナダ、セドロスなどにキャンプを置いて七十人前後を使っていたという。

 請負漁獲物の会社渡し価格は、トン当り、鮪は六十ドル、鰤三十ドル、鮑九十ドル前後だった。こうした請負者が手がけていたのは採鮑と小規模の近海漁業と缶詰加工で、配下の漁業者には賃金制をとっていた。賃金は一カ月三十ドルから五十ドル前後で、採鮑のダイバーだけは経験のいる専門職だったから、独立して漁を行ない、採取した鮑はトン当たり七十ドル前後で請負者に納めていた。

 一方、数においても多数を占めていた鮪漁の漁業者のほとんどはサン・ディエゴに拠点を置いた国際水産や大洋産業などの漁業会社に直属して漁を行なっていた。ただ、漁船を持っていた者は部分的に請負制をとっていたのだろう。一九三〇年前後には一漁期が終わると、ふつうでも数百ドル、景気のいいときには数千ドルを手にすることができたという。日本では日当四十五銭という時代、うまくすれば一万ドルという大金を手に帰郷することも希なことではなかった。

 だからか、その後、カリフォルニア半島での漁業が衰退すると、ほとんどが日米戦争以前に移転あるいは帰郷している。ほかのメキシコ南部の砂糖耕地や北部炭坑に入った日本人移民と比べれば、メキシコはかれらにとってほんの一時の地に過ぎなかった。

メヒカリ棉作とアグラリスタ運動

 もう一つ、カリフォルニア南部とのつながりで注目されるのが北部メヒカリ周辺での棉作だった。

 第一次世界大戦は一千万を超える兵士と一般市民の命を奪い四千億ドルの富を破壊しているが、その裏で、アメリカ経済は軍需工業を中心に未曾有の好況を手にしている。国内的には戦争によってヨーロッパからの移民の流れが中断し、その労働力不足を解消するために南部の黒人労働者が大量に北部の工業地帯に送られたのもこの時期だった。そうしたなかで綿花市況も好況を迎え、それを契機にカリフォルニア州南部の日本人移民のなかにはメヒカリ周辺に移動し綿花栽培をはじめる者が出はじめる。多かったのは和歌山県出身者で、インペリアル・バレー周辺からの移動だった。

 こうした移動は、カリフォルニア州でヘニー=ウェッブ法案が成立し、日本人移民には土地所有と同時に借地さえもできなくなった一九一三年頃からはじまっていたが、綿花価格が急騰した一七、八年頃からその数は急増している。『日本人メキシコ移住史』によれば、一六年にはカリフォルニア州に本拠を置いた新谷楠太郎はじめ四、五人の日本人が棉農園を経営していたというが、最初は多少ともまとまった資力のある者がメヒカリ周辺に土地を購入して近隣の日本人移民を使っていた。革命の動乱のさなか、ソノラ州北部にいた日本人が難を避けて移動し、メヒカリ周辺にはかなりの日本人移民がいたからだった。アメリカに密入国しようとやってきたのだが、メヒカリでの棉の好況につられて残留したのだった。三人に二人が残留している。

 その後、日本人移民も独立し、多くは、メキシコ政府から広大な土地の監理権を取得していたアメリカのコロラド・リバー・カンパニーから土地を借りて棉の栽培をはじめている。もちろん土地といってもただの原野に過ぎず、それを切り拓いて棉畑にするのだった。契約は五年が基準で、まず一年目は借地料なしで、二年目からの支払いは五パーセントずつ上がっていき、五年目からは収穫高の十五パーセントを現物で会社に支払う仕組みになっていた。耕作資金や潅漑用水の資金はコロラド社系列下のハボネラ・パシフィコ社から借り入れている。

 こうして、日本人経営の農園が増加するにつれ、呼び寄せられてやってくる者や、また、周辺には個人商店を経営する者も増え、一九一七年五月には日本人会もできている。しかし、棉景気の凋落の波は激しかった。まず、二〇年を過ぎると最初の暴落がはじまり、それによって一時、カリフォルニアへの引き揚げ者が続いた。『日本人メキシコ移住史』は記している。

「摘み賃も出ないまま広大な畑地一面にまっ白な良質棉が放棄され、そのまま次期作付のため耕されるという無惨な光景が展開された。多くの邦人農家も僅かにその住居を残して財産全部を失い無一文となった」

 それが二三年頃から再び景気もよくなり、日本からの呼び寄せも増加して、多い年には百五十人を超えることもあった。ただ、そのすべてがメヒカリに留まったのではなく、その後、アメリカに密入国する者も多かった。もちろん、最初からアメリカへの密入国を目的にしていた者も少なくなかった。そのためロサンゼルスの日本領事館は本省に、メヒカリ方面への呼び寄せは親族以外は一人年間三、四人までという制限を設けるよう要請している。当時、メヒカリに限らずバハ・カリフォルニア州は国境を越えての日本人の移動が激しかったため、もっとも近いロサンゼルス領事館の管轄下に入っていた。

 こうして一九二五年前後には、メヒカリ周辺の棉作耕地面積は約二万ヘクタールにまで広がっていたが、うち約七十パーセントを日本人が占め、残りを中国人とアメリカ人が耕作していた。詳細は明らかではないが、日本人移民も五百人を超えるようになっていたのではないか。カリフォルニア州南部の日本人との交流も盛んに行なわれていたのだろう、二六年の益子暗殺事件もそうした交流と日本人社会の急激な発展に絡んで起きた事件だった。そうして三〇年に入ると世界恐慌の波がメヒカリにもやってくる。

 好況時なら数万ドルという現金が残るが、それをほとんど次の年の作付拡大資金に回してしまうからいくらも残らない。だから不景気になると借金ばかりがかさむ。三〇年代前半の不況時にはハボネラ社はもちろん、横浜正金支店をはじめとする日本の銀行筋からさえも借入れができなかった。それでも、地道に営々と基盤を築いていった。

 三〇年代後半のメヒカリ周辺では代表的な日本人経営の棉農園とされ、片桐敏雄兄弟を中心とした七人の日本人で経営されていたランチョ・カヘメ(カヘメ農園)ではメキシコ人の棉摘み労働者が二百人近くいたという。四十五馬力のトラクターを二台所有し、開墾には二台を横に並べ、間に太いチェーンを張り同時に平行して走らせた。小さい潅木ならチェーンで薙ぎ倒すことができたが、大木のときはチェーンの代わりに鉄道のレールを使った。こうしてたいていの土地は開墾できたが、さらに大きな木を倒すときは滑らないように木にチェーンを巻き付け、トラクターで体当りして根こそぎ倒したという。

 片桐の住居はランチョの真ん中にあったが、冗談にも立派なものといえるものではなかった。労働者用と変わらぬテント張りで、床は板敷きのまま、家財道具もほとんどなく、鍋や茶碗などの食器は石鹸の空き箱に入れた。妻の邦子は四〇年に十九歳で長野県から嫁いでいるが、そのときも変わらず粗末な暮らしを続けていたという。

 広大な農園だったから連絡にも工夫が要る。昼食はランチョの真ん中に立っている小旗で合図する。太い柱にもう一つ細い木がくくりつけてあり、その先に白い旗が結んであった。その細木を持ち上げると旗が斜めに上がる、それが合図だった。そうして昼休みが終わると鐘が鳴る。ともに女の役目だった。

 周りは行けども行けども日本の柳の木によく似たメスキテという潅木ばかりの広大な原野で、方角がわからず迷うことも度々だった。そんなときは慌てず馬の手綱を緩め、そのまま馬に身をまかせるとランチョまで戻ってくれる。水はメンカナルからとっていた。コロラド河からの引水で、英語のメイン・カナルがなまったものだが、英語が語源だとはだれも知らなかった。水利の不便な土地が多く、ハボネラ社から融資を受けて、コロラド河から細い運河を引いて農業用水にしていた。

 食事も粗末だったが、それなりに工夫していた。朝は小麦粉でつくったトルティーヤに一人一個ずつ卵を付けた。鶏も飼っていて、鶏卵なら十分にあったからで、昼食や夕食には鶏肉を使った日本食をつくることが多かった。

 問題は子どもの教育だった。メヒカリには一九二四年に、のちにメヒカリ学園となる日本語学校が創立されていたが、遠くて通えない。ランチョには四十人前後の日本人がいたから、日本語を教える寺小屋のような学校をつくり、母親たちが交替で日本語を教えていた。もっとも子どもたちが大きくなると、メヒカリ学園に行かせたが、通学できる距離にはなかったから知人の家や日本人経営の下宿屋に預けたりしていた。

 このように、一九三〇年代の後半に入ると日本人経営の農場は大きなもので二十を超えるまでになっていたという。だが、数年とたたないうちにその基盤を揺さぶるアグラリスタ運動の嵐が襲ってきた。

「オンブレ・リブレ、ティエラ・リブレ」(人は自由、土地も自由)をモットーに、一九三四年、ラサロ・カルデナス政府のもとではじまった農地解放運動で、実際の行動にあたっていたのはアグラリスタと呼ばれた一種の農民兵組織だった。大地主擁護のボス政治に加えてアメリカ寄りの政策を続けたカイエスのあと、世界恐慌のあおりを受けたメキシコ経済は停滞し、各地で農民運動や労働運動が激しくなるなか、大統領になったカルデナスは、カイエス旧勢力を排除するために、大地主からの農地分割を政治綱領に掲げ、農民や労働者を組織し、のちにメキシコ革命党(PRM)として一体化されることになる政治権力の集中と再編成を計ろうとしたのだった。農地解放はメキシコ革命の中心課題で、以来、小規模ながら進められていたが、カルデナスのもとで広範かつ急進的に進められることになった。

 農地分割の対象は大農園主の土地であったが、かれらから土地を借りていたメヒカリの日本人農家も例外ではなかった。一九三七年に入るとメヒカリでもアグラリスタ運動は激しくなり、汗水流して開墾した農地の多くはアグラリスタに接収され、メキシコ農民に分配されていった。やっと棉の実がついたばかりの畑もあったが収穫前に接収され、一銭の補償もなかった。ただ、州政府や中央政府との交渉の結果、日本人移民はメヒカリの農業開発に貢献したとしてコロラド川右岸のソノラ州サン・ルイス方面などに代替地が検討されたり、接収時期も収穫後に延長された例もあったが、急激な農地の接収に前途を悲観し、アグラリスタとの係争に入る前に自ら農地を引き渡した者も多く、また、以前からの経営困難もあって、それを区切りとして棉作を放棄した者も少なくなかった。一方、アグラリスタと係争に入った者は農地の接収に対し、州政府に総額十六万ペソにのぼる賠償金を要求したが、州政府は賠償の責任は実際に土地を引き受けたアグラリスタ側にあるとして応じなかった。

 こうしてメヒカリの日本人棉作農家は総耕作面積の六分の一にも及ぶ約六千エーカーにのぼる土地を接収されている。なかには代替地に移動して棉作を再開した者や、また、わずかながらも賠償金を手に入れて生活を繋いだ者もいたが、これが最期と日本に引き揚げた者も少なくなかった。ただ、すべてをなくしたうえでの帰郷である。郷里での新たな営農はむずかしかったのだろう、満州に新天地を求めた者もいた。

 その後、アグラリスタ運動は一九三八年まで続き、それによって多くのメキシコ農民はそれまでのペオン同様の貧しい暮らしから解放されることになった。だが、分割された多くの土地は組合のもとでエヒード(共有地)として耕作管理され、農民はその使用権を得たに過ぎなかったこと、また、それまで土地を持たなかったかれらには十分な農具がなく、営農にも熟練していなかったため、ほとんどの土地は未耕作のまま放置されることになり、解放運動も次第に勢いをなくしていく。中国革命のなかでの初期の合作社の状況によく似ている。土地を手にしたにもかかわらず、それを放棄してまたもとの農業労働者に戻っていったのだった。

 こうして農地解放運動は実態を無視したあまりの性急さゆえに失敗した。カルデナスのねらいは社会主義経済を意識した集団農場の創設にあったともいわれるが、植民地時代からの大農園アシエンダのもとでペオンとして虐げられた歴史のなかで生きてきたメキシコ農民の願いは、もはや集団体制ではなく、自ら土地を所有することだった。結果として解放運動にあったのは、農民と労働者を組織化し統一的政党のもとで体制の強化を計ろうとした政治目標だけで、メキシコ農民が革命に賭けた土地所有の夢は権力獲得の手段に踏みにじられただけだった。

 分割された農地のほとんどは日本人移民の血と汗にまみれた開拓の努力をよそに、もとの草だらけの荒れ地に戻ってしまったが、アグラリスタ運動の嵐が去るのをじっとこらえていたかれらは再び棉作に起ち上がる。アグラリスタ運動はアメリカ資本の土地会社の国有化までは徹底できなかったため、再度、借地が可能になったこともかれらを助けている。

 だが、それも束の間、今度は農地はおろかわずかな財産までも奪われることになる。日米戦争のはじまりだった。アメリカとの経済関係から日本との国交を断絶せざるを得なくなったメキシコ政府は、国境から約百キロ以内、海岸線からは約五十キロ以内に住む日本人に対し、そこからの即時退去を求めたのだった。

 農園で労働者として働いていた移民たちは、家屋についてはいつでも移動できるようにテント暮らしをしていたから移転は簡単だったが、移動の費用がなかった。また、棉作農家以外には、食料品店や雑貨店、写真店、精肉店、アイスクリーム製造販売、ビリヤード、ボーディング・ハウス、公衆浴場、トルティーヤ製造販売、日本食販売などさまざまな商店経営者がいたが、すべて店舗や財産、在庫を二束三文同様に叩き売らねばならなかった。当時、メヒカリには八百人ほどの日本人がいたというが、うち四分の一はグァダラハラに、ほかはメキシコ・シティに移転している。メヒカリからソノラ州のプエルト・ペニャスコまでは鉄道で、そこからアルタル沙漠を越えてサンタ・アナまではトラックあるいはバスを使った。そしてノガレスからやってくる列車を待ってグァダラハラに、さらにメキシコ・シティに向かったのだった。メキシコ・シティでは、ごくわずかの身の回りの物しか持ち合わせていなかったため、とりあえずのこととして松本三四郎のバタン農園に落ち着いている。

副島八郎のソノラ入り

 カリフォルニアからやってきた日本人移民のなかでも特異な位置を占めていたのが副島八郎だった。サンフランシスコで日本人キリスト教青年会(ヘイト青年会)に関係していたかれは、青年会で機関誌発行の計画が進んでいた一八九四年五月、それに先駆けて『新世界新聞』を創刊している。活字による日刊紙としてはアメリカの邦字新聞のなかではごく初期のものとして位置づけられる。だが、そうしたことで青年会との関係が悪化したため同紙を離れ、しばらくアメリカ人家庭に入って働いていたが、一九一一年にベーカスフィールドで開かれた天長節祝賀会での御真影に対するメソジスト教会員の作法問題に端を発して、いわゆるフレズノ不敬事件が起こり、日本人社会が仏教系とキリスト教系に分かれて激しく対立したとき、購読者をつかもうとしたかれは仏教系を支持して『国民新聞』を創刊した。だが、これも両派の対立が下火になるにつれて経営も傾いて廃刊。二年後の一三年には新たに『北辰』を発刊している。不敬事件のとき副島といっしょに仏教系を支持する帝国臣民義会をつくった池田貫道の出資によるものだった。それを十三年間続け、激しくなりつつあった排日運動への対処として『北辰』紙上で熱烈にメキシコ転航のキャンペーンを張った。そして二六年に、同紙を大沢栄三に売却すると、ソノラ州エルモシージョ西郊に五百エーカーの土地を購入して自ら移住したのだった。エルモシージョからカリフォルニア湾岸のキノに向かう途中のエル・カリサルというところで、地名はあったものの人家も道路もまったくない、メスキテとサボテンだけの荒涼とした沙漠の真ん中だった。

 ソノラ州は降雨量の少なく、現在でも年間平均湿度は五十七パーセントと、チワワ州、バハ・カリフォルニア州につぐ乾燥地帯である。当時は飲料水や農業用水には地下水を風車で汲み上げていたが、水脈が深く、井戸を掘り当てるのが難しかった。副島はインペリアル・バレーでの潅漑農業を頭に描いていたのだろう。『日本人メキシコ移住史』によれば、最初の仕事として井戸を掘ったが、不運にも良質の水脈に行き当たらず、飲料水にも事欠くほどのわずかな水しか汲み上げることができなかった。だが、屈せず、まず小高い丘の上に自分で煉瓦を焼いて住居を建て、周りに菜園をつくり、養鶏もはじめている。井戸には高さ十五メートルの塔の上に風車を据え、風を利用して揚水していた。そのため、付近を通るメキシコ人農夫は、かれのランチョを「日本人の風車」と呼んで、エルモシージョへの往復にはきまって立寄り、水を飲んでいったという。それ以外、文字通り犬も通わぬ広漠たる荒野だった。かれには内山、草島という二人の同行者がいたが、住み慣れたアメリカとはあまりにも生活環境がちがい過ぎたのだろう、いくらもしないで草島は精神に異常をきたし、翌年、日本に送還されている。現実は副島の計画とはほど遠く、ほとんど生活を維持するのが精一杯の営農ではなかったか。年齢からいっても無謀過ぎる計画だった。

 その副島と内山が死体となって発見されたのは一九二八年八月末のことだった。いつものように通りがかったメキシコ人農夫が不審に思って立ち入り、半ば白骨化した二人の遺体を見つけたのだった。いずれも銃で撃たれたうえ、無惨にも激しく頭部を撲打されていた。副島の部屋からは現金と小切手帳がなくなっていて、また、雇っていた運転手ホセ・ガルベスが姿をくらませていたことから、ホセの犯行とみて捜査がはじまった。そして数日後、エルモシージョの銀行で小切手を現金に換えたあとアメリカに逃亡しようと西に八十キロ離れたアラモスにいたところを逮捕され、逃亡罪が適用されている。

 逃亡罪とは、ソノラには死刑制度がなかったため、犯人を人里離れた沙漠や荒野に連れ出して釈放し、逃亡したという理由で背後から射殺するものだった。当時、ソノラ州の視察中に事件に出くわし、エルモシージョの日本人会といっしょに事件の事後処理にあたり、犯人の逃亡罪の実行に立ち会ったマサトラン領事館の村井正蔵は『日本人メキシコ移住史』のなかで記している。

「十日朝三時半迎えに来た畑田日本人会長以下役員、メキシコ側より判事、警察署長、護衛の兵士等と四台の自動車に同乗して(略)犯人を連行して現場での検証、メキシコでいう『犯罪事実の再現』に出発した。エ市から副島耕地迄は五里の距離だが、途中二度程道を間違えたり、砂に車輪をとられたりして十時頃ようやく現場に到着、早速現場検証が始められ、犯人ホセから犯行の模様を聴取した。(略)一切の陳述が終って一行は午食を喫し、ホセには特に葡萄酒が与えられた。まずホセを乗せた自動車が先行し、我々日本人一行が待機していると、はるか砂漠の向うで銃声が聞こえ、逃亡法が適用されたことを知らされた。我々一行が後車で行って見ると、ホセは俯伏せに倒れており砂漠はホセの血を吸って黒く塗まっていた。ホセの死骸を自動車の外側の踏台にくくりつけてエ市の陸軍病院に運んで犯人の処罰を終わった」

 その後、副島の農園は未亡人からエルモシージョの日本人会に寄贈されたが、気味悪がってだれも近寄らなかったという。ソノラでの農園開拓に人生の再起をかけながらも、途上、あまりにも無惨な最期を遂げる副島の怨念が見えたのだろう。

 副島のこの土地入手について、『在米日本人史』は「南加に於て木下準一郎等によって組織されたる墨国某土地会社に関係」しての入手だったとしている。詳しくは次節で述べるが、当時、メキシコでは一九一七年憲法によって海岸線から五十キロ以内、またアメリカとの国境から百キロ以内の区域においては国防上の意味あいから外国人による土地所有は禁止されていた。ただ、メキシコの会社名義にさえすれば難なく土地所有もできたのだった。「墨国某土地会社」というのはそのために設けられたダミー会社だったろう。当時、メキシコの北部辺境の多くの土地を所有していたのはアメリカ資本の土地会社で、カリフォルニアにいたという「木下」はその転売の仲介をしながら報酬を得ていたのではないか。典型とされるのが次に述べる大和民族発展社だった。

 副島はこの「墨国某土地会社」にどれほどかかわっていたのか明らかでない。かれは被害者だったのか、あるいは逆に「墨国某土地会社」そのものに直接かかわっていたのか。たぶんに後者であった臭いがするが、明言できる史料はない。同じ時期、白川某もエル・カリサルに近いソノラ州の海岸辺に土地を購入して農園開拓を試みたというが、実態はどうだったのか。明らかなのは、当時、カリフォルニアには排日運動の高揚を避けて他に活動の場を求めようとしていた者が少なくなかったこと、そして、その一部はメキシコに土地を求めて移動しようとしていたことで、かれらを相手に土地の仲介を計ろうとするブローカーも少なくなかった。「木下」はそうした一人ではなかったか。

 先の近藤は利益追求の場としてのみメキシコを見た。そして副島も『北辰』においてメキシコ開発のキャンペーンを張った初期には近藤と同じねらいだったかも知れない。だが、自らメキシコの荒野の開拓に挑んだかれは、メキシコに生を求めた一人の移民として骨を埋めることになった。それがカリフォルニアの日本人移民に与えたインパクトも大きかった。サンフランシスコの日本人会はかれを追悼し、サン・マテオ日本人墓地に記念碑を建立して顕彰している。

土地法無視の大和民族発展社

 一九二六年五月五日、富山県西砺波郡赤丸村の桜木豊太郎に一通の郵包が届いた。差出人はサンフランシスコのスタックトン街七百六十二番地の大和民族発展社で、包みの中には「墨国ソノラ州大和民族発展殖民地特別提供」と題した案内書と「土地売買契約書」がそれぞれ十数部ずつ入っていた。さらに、桜木勇次郎名で一通の封書も同封されていて、ソノラ州エルモシージョ郊外に「大和民族発展地」として購入されたという土地の売買について、日本での募集事務と周旋を依頼する由と、加えて、同様のものを日本全国の中学校にも合わせて約千部送付したことも認められていた。

「大和民族発展社」の社長を名乗る桜木勇次郎とは豊太郎の実弟で、それ以前、一九〇二、三年にアメリカに渡ったまま音信不通になっていた。

 懐かしさはすぐに吹っ飛び、事情が呑込めない突然の周旋依頼に豊太郎は驚いた。だが、ともかく、「案内書」なるものに目を通してみることにした。

「墨国ソノラ州大和民族発展殖民地特別提供」と題した「案内書」は、まず冒頭に「大和民族発展地」として次のようにあった。

「売出しとは表面上の意味、其実は地面の配分である。当分の処一英加エーカー八十円、目下代理販売人を置かぬ其は地面をなるべく安く御手に入れになる様にと思ひただ便利上富山県西砺波郡赤丸、桜木豊太郎氏方に色々なる参考品、参考書類及び申込用紙等を備付そなえつけてありますから御希望の方は自ら右桜木豊太郎氏方に行き御勝手に備付品を御調査になって下さい。桜木豊太郎氏は何等大和民族発展地に関係なき方にて皆様と同様便宜上備付方を頼みし者にて代理者でもなく其積そのつもりにて営利的の関係を持って居られる方で全々無い事御承知を願ひます。今回特別提供地三千英加」

「売り出し」ではなく、「配分」だというのだが、どうちがうというのか意味がわからない。全体を「殖民地」とし、それを区分して配分するという意味だろうか。ともかく、一エーカー(四千平方メートル、千二百坪)八十円で、今回の配分はトータルで三千エーカーだという。また、豊太郎は代理人でもなんでもなく、販売代理人を置かないのは価格を低く提供するためといっている。

 では、「大和民族発展地」なるものはどこにあるのか。

「墨国ソノラ州大和民族発展地建設区内墨国カリフォルニア海キノ湾に沿ひ、ヂブロン(ティブロン)、カメオンの両島を前にして景勝の地。(略)耕地よりソノラ州のエルモシヨ市へは四十五マイル、キノベー(キノ湾)港へは十五哩」 

 ソノラ州エルモシージョから西方、カリフォルニア湾に向かって七十二キロ行ったところで、その二十四キロ先はキノ湾だという。そして、土地の地味については、「墨国農問題で重なるものは水である」と、まず断わり次のように記している。

「本地積は五十尺より七十五尺にして尽きぬ潅漑水あり。現に米人千英加の地面に井戸一個を有す。特別提供地をへだたる東方五哩南方三哩水は地平より三十尺の下にあり。深水々量は四十尺、則ち七十尺の井戸に無量の水量ありと試験済み。さらに近くに英国マンチェスター会社の新井戸あり。地下三十尺で第一水、五十八尺で多量の水、十六インチの水管で千幾百英加の用水につ。同会社は同様のものを更に東方にも掘る」

 八キロ前後離れたあたりにあるアメリカ人やイギリス人の土地には地下水が豊富で、それを汲み上げて潅漑をしているというのだが、「発展地」そのものにどれだけの潅漑が可能なのかはまったく述べられていない。また、

「本地面は元来降雨洪水(何千年の昔)作用で出来たデルタなり。実に平坦なる事といしの如し。地上に大樹巨木が生ひ茂り其多くは枯れ倒れ或は朽ち果て居るを以て地質の肥痩ひそうを見取り得べし。視察者の老農家が驚嘆の余り『此様に結構な地面は拝まふとして拝まれぬ』と申された」

 というのだが、現在もデルタ地帯になっているのかどうかは明らかでない。そして、生い茂っていた大樹が朽ち果て地質を肥しているというが、それも現在のことなのか、遠い過去のことなのか、文面だけではどうにもわからない。気になるのは費用のことで、それについては「資金と開拓」として次のように記されている。

「特別提供地は二十五英加以上五百英加を持って一団体として、当分一英加八十円、特別提供地分譲申込と同時に半金を入れ残金を申込より三ケ年以内に払込むものとす。全額払込済みと同時に登記手続を了し墨国政府公認の地券を渡すものとす。全額一時に払込むも差支えなし、開拓費は英国のマンチェスター会社のフオマンは其帳簿を示して、一英加四円より二十円、全部を通して二十円平均としてあった。用水設備は今後米作等に従事さるる時は格別なれど綿作等に井掘費、ポンプ、エンジン及び家屋設立費を合して一英加十円とす。けだし現在の水源を標準として一セクション『二千四百反』の米作に一万四千円を要した『桑港及びセントルヰに聞合せ研究したもの、即ち両会社が請負ふたものは一万二千四百円で之れに掘井費を加へて一万四千円とはしたるものなり』し小麦、大豆、トオモロコシ等一作物を耕作する場合は小さい仕掛けの井戸にて足る。れに巧に雨水を集むる時は井戸無しでも一作はできる。生活費は米と醤油、野菜は三ケ月後には汁の浮けみとなる。魚類は手掴てづかみ鉄砲一挺用意せば小鳥の焼物は食膳に上る。豚、牛などは共同で飼ひ、月一回豚を殺して分配すべし」

 なにやら、いいことずくめだが、土地の区分は二十五エーカー以上五百エーカーが一単位で「配分」され、土地代金の支払いは申込時に半額、そして、残金は三年以内に支払い、その時点で登記手続きが行なわれメキシコ政府公認の「地券」が手渡されるという。また、開拓費用は近くのイギリス人の土地の例によれば、一エーカーにつき四円から二十円、潅漑設備費用としては棉作を行なうときは一エーカーにつき十円。ほかに、生活費としては魚類は「手掴み」で採れ、小鳥は銃さえあれば捕らえられるという。

 それでは、と、豊太郎は鉛筆を取り出し紙切れに計算してみた。たとえば百エーカーの購入を申し込んだとしよう。土地代は八十円×百エーカー=八千円、開拓費が平均十円として千円、潅漑費も千円、都合、一万円になる。これをたとえば五人共同で営農するとしても一人二千円。村で一日日雇いに出ても五十銭にもならないというのに、こんな大金を用意できる者がどこにいるというのか。そして、続く一文に、開いた口がふさがらなくなってしまった。

「桜木は在米国二十四年の住み慣れた米国を振り捨て墨国に移住して人生の最後を完成せんと覚悟のみ。自分は人に見られ、人にめられ、又金を作る為めに生て居ない。あえて格別に富を作っても用はない。ただ一日生存すれば一日け天分を重んじ人生を大切にして行詰まれる日本民族永久発展の為めに己の本文丈けはけだし一生を之にささげていざるものである」

 勇次郎のやつ、いったい何を考えているのか……、ますますわからなくなった。

 そこで、不安になった豊太郎は村役場に走り、そこから富山県知事を経て外務省の知るところとなった。

 当時、マサトラン副領事にあった淀川正樹の「対墨農業投資に関する注意事項」によれば、これ以前からすでに日本から土地買収を目的としたメキシコ北部への進出がいくつかのグループによって進められていたことがわかる。それにしても「大和民族発展社」の場合はあまりにも杜撰だった。

 まず、外務省はサンフランシスコ領事館に、桜木勇次郎の身元調査をさせている。それによると、桜木が事務所の所在地と記していた「スタックトン七百六十二番地」には薩州ホテルがあり、そこにかれは三、四、五号の三室を月四十ドルで借りていただけだった。経営者夫人の話によれば、桜木は七年前から同ホテルに滞在、二年前までは付近のアメリカ人経営の文房具店に「掃除人」として働いていたが、ここしばらくは定職もなく「人事その他各種周旋」をしているようだったという。(サンフランシスコ総領事武富敏彦「墨国ソノラ州大和民族発展社ニ関スル件」)

 一方、同様の指令を受けたマサトランの領事館はエルモシージョの日本人会長に「大和民族発展地」の実態調査を依頼。その結果を「墨国ソノラ州大和民族発展社ニ関シ取調回答ノ件」として報告している。それによれば、まず、購入者がメキシコ政府公認の「地券」を得ることはメキシコの土地法から見てまったく不可能だった。

 メキシコ政府は一九一七年憲法第二十七条第一項で、次のように外国人による不動産取得を禁じている。

「出生あるいは帰化によるメキシコ人ならびにメキシコの会社に限りメキシコ共和国内において土地、水およびその付属物に関する所有権を取得する権利、あるいは鉱山、鉱物性水および燃焼物採掘に関する利権を得る権利を有す。国家は外国人に対しても同一の権利を付与することを得る。ただし、この場合、外国人はあらかじめ外務省に対し、その取得せんとする財物に関しては内国人と見なされ、したがって同財物に関する限りは本国政府の保護を要請せざることの契約をなすことを必要とす。この契約に違反したるときは、契約の結果たる財物は国家に没収せらるるものとす。国境に沿う百キロおよび海岸における五十キロ以内の地域においては、外国人は理由の如何を問わず土地および水に関する直接の所有権を取得することあたわず」

「鉱山、鉱物性水および燃焼物採掘に関する利権」とは、石油をはじめとする地下資源の利権のことだが、土地に関しては、すでに述べたように、メキシコの土地会社など法人名義でのものであれば問題にならないという抜け道があった。だが、それも一九二六年一月二十一日に公布された憲法第二十七条第一項施行法、いわゆる外国人土地法によって、「国境に沿う百キロおよび海岸における五十キロ以内の地域においては、如何なる外国人も土地および水に関する直接の所有権を取得すること能わず。かつ、また右地域内において同様の権利を取得しようとするメキシコの会社の社員たることも能わず」(同第一条)と禁止されていた。

「大和民族発展地」は「案内書」にもあるように、太平洋沿岸からわずかに二十四キロ前後しか離れていなかった。なのに、「案内書」は「墨国農法」という項目を設け、

れ墨国市民に多少の地所を所有せしめて其生業なりわいを救助する社会政策に基き立方立法したるものなり。我が大和民族発展社の経営に地盤をへる人々に関係なし。現に古谷公使は此の事にきソノラ州知事と面語の際同知事は本州には農法問題は無し、又其の必要も無しと語られしと打明うちあけされたり」

 と、土地法にはいっさい抵触しないとまで断言している。ただ、この外国人土地法によって、それまでの所有権がすべて没収されてしまったというわけではない。その第四条では「本令施行の前より農業を目的とする土地を所有するメキシコ会社の全資本の百分の五十またはそれ以上を所有する外国人は、個人の場合はその死亡の日まで、法人の場合は十カ年間その権利を保持することを得る」と規定されていたため、たとえば、先の副島のように同法公布以前に購入していた者はその所有権を侵害されることなくすんだのだった。

 一方、土地価格については、「案内書」は一エーカー八十円としているが、「発展地」のように辺境なうえ、潅漑設備もないようなところは、日本円にして、せいぜい二、三円という地価だったという。

 潅漑については、同じように乾燥地帯であれメヒカリのように河川から水を引いての潅漑が可能なら問題はなかったが、井戸による地下水利用ではたとえ掘りあてたとしても費用がかかり過ぎるうえに水量も限られ、とうてい農場としては使用できない土地だった。「案内書」では、付近にはイギリス人所有の土地があるとしているが、それは耕地ではなく牧場だった。また、地味についてもエルモシージョの日本人会による実地調査は「表土は浅く、わずかに一、二尺に過ぎず、土質は赤味を帯び、処々塩分多量に含める部分もあり、一般にむしろ痩土にして大樹巨木生い茂れりと云ふは事実をる事遠く、矮小なる潅木の這生せるにすぎず」としている。

 さらに、生産物の販路については、

「我が着目したるものは海なり。此港(キノ)を利用してロンドン、カナダ、オーストラリヤ及び日本等に近い将来に波止場を築く設備中である。ソノラ州の首府エルモシヨ、キノベー間の鉄道も測量済みとなれり。(略)それに米国北太平洋鉄道会社の線が中央高原地方、即ち人口稠密、製造工業等一般の産業盛大なる地方に連絡の上はソノラ州、シナロワ州、テピコの農産物は飛ぶが如くにさばけるのである。現に其の鉄道が大正十六年六月に完成するとエスピー鉄道会社が公表している。米国政府は其の完成後の墨国産業界を予想して、今の中にソノラ及びシナロワ地方に土地を買ひ占めて置く事を米国人一般に奨励してさきに米国政府自ら『ウエストコースト』(西海岸)と言ふ書物を出版した。其さとす所は墨国西岸諸州の産物は不足する程に販路の存在すると言ふ事である」

 としているが、いずれも数年先を見た話で、作物をエルモシージョに運搬しない限り売りさばくこともできず、価格もきわめて低いというのが現実だった。

 さらに、驚いたのは、「案内書」のいう「三千エーカー」の土地はたしかに存在したが、それは桜木勇次郎のものでも、「大和民族発展社」のものでもなかった。エルモシージョの日本人会は実地調査の結果として、「桜木勇次郎なる者は当地方及付近に土地を所有せず」と報告している。

 こうしてみれば、「案内書」に記された内容のほとんどは偽りだったことがわかる。唯一、疑いなかったのは、その土地を桜木勇次郎の所有如何にかかわらず、一エーカー八十円という高額で売却するということだけだった。

 では、なぜ、かれはこうした計画をたてたのか。村井正蔵は『日本人メキシコ移住史』のなかで振り返っている。

「大和土地会社と称する日本人への土地分譲会社が設立せられ、(略)日本人農家を入植せしめるという名目の下に、メキシコ行きの農民を日本で募集してメキシコに渡航せしめていたが、これら渡航者は移住地に向かうこともせず、マンサニーリョ港から直接汽車でマサトラン港迄来て、低加州行きの沿岸航路船に乗り替えメキシカリ方面に向かうという、当初からメキシコ移住を目的としたものでない者が多く、大和土地会社は全くの偽装された米国潜入あっせん会社と思われた」

「大和民族発展社」の募集はアメリカへの密入国のための偽装工作だったという。ただ、これは村井が直接確認したことではなかったようだ。

 では、たんなる詐欺だったのか。といっても「案内書」に記されたようなことはだれでも眉唾に思えるはずで、また、それに応じるだけの資金もなかっただろう。もし、応募者がいたとすれば、村井のいうようにアメリカ密入の手段として、募集に応じたのだろう。

 興味深いのは、「大和民族発展地」は、先の副島八郎のエル・カリサル農場に近いこと。そして、桜木勇次郎は一年前の一九二五年十一月に、副島が関係していた「墨国某土地会社」の木下準一郎とともにエル・カリサルに「視察」と称して足を運んでいることだった。すると、副島も関係していたのか。おそらく桜木と木下は土地の下見のためにやってきたのだろう。そのとき、桜木はエルモシージョの日本人会の役員の一人に、「近き将来に於て永住的目的を以て入墨し商業を経営し度き方針」を語ったという。

 もともと、エル・カリサルを含めたエルモシージョ郊外の荒地はアメリカの土地会社が所有していた。それが一九二六年以降は所有権が外国人土地法によって確保できなくなったため、処分しようとしていたのだった。「墨国某土地会社」の木下準一郎も「大和民族発展社」の桜木勇次郎も、そうしたアメリカの土地会社のもとで売買仲介をしようとしていたのではなかったか。先に述べた白川某は井戸掘りに失敗してカリフォルニアに引き揚げていたが、その土地も桜木勇次郎は「大和民族発展地」の配分予定地として宣伝していた。

「日本民族は埋骨の地が無い。成る程大日本帝国と云ふ生れ故郷はあるはあるが時の政府及実業家はつねにドウカ海外に発展して呉れよと毎年人口増加で困る。一度海外に出た者は帰ってれては迷惑をすると云ふて居る。大日本帝国は我等大和民族安定の地としては余りに小さい事は云ふ迄もない。毎年々六十万人七十万人増加して居る。一方には日本が海外移住史五十年の今日海外に居る同胞約六十万人。其内多数は米国及米国領地に居るが、絶対移民禁止法に会ひ之も帰国者が年々増して居る。鳥に巣あり狐に穴あり、然れど我等は枕とする処なし。何か思案を極めて落着く処を定むべきであるが、兎角とにかく生活難に会ひつつも有邪無邪うやむやに国内にかじり付くと云ふ病気は深く根に入って居る。くして精神上の自殺者となって折角の天職も恨を含んで終るのである」

 と、「案内書」は応募の決断を促して締めくくっている。

 だが、かれもまた一人の移民であって、わが身をどこに置くのか、「思案を極めて」いたのかもしれない。どこか哀しい結びでもある。

エスタンスエラ農場と小林直太郎

 こうしたカリフォルニアからの南下の動きとは別に、先にも述べたように、直接、日本から農場経営に乗り出した例もあった。ハリスコ州のエスタンスエラ農場である。

 エスタンスエラ農場、正式にはサン・ロレンソ・デ・ラ・エスタンスエラ農場は、ドイツ人が所有していたもので、一九二六年、大阪の都土地株式会社(大阪市南区鰻谷西之町十二番地、代表篠野乙次郎)との間で売買計画が進められた。仲介には、のちに現地管理人となる小林直太郎があたっていたと思われるが明らかでない。それ以前、エスタンスエラで生産されるテキラの買付けを専門にしていたグァダラハラ在住のメキシコ人ルイス・アベリナが購入を希望したというが、資金の貸借関係をめぐって問題があったらしく、都との交渉を選んだという。

 ハリスコ州グァダラハラの西方約六十キロ、現在のSP線のテキーラとアメカ線のラ・ベガとのほぼ中間点、北には海抜二千八百メートルを超えるテキーラ山からの丘陵が続いているが、南にはリオ・アメカやリオ・テオティトランが流れ、ところどころ湿地帯も見られる見渡す限りの大平原だった。

 全体として海抜九百メートル前後の高地で気候もよく、当時、すでにアメカ線は開通していて、消費都市グァダラハラへの生産物輸送にも便利とあって、公使越田佐一郎をして「日本人の模範的農園設立に適す」とまでいわしめたほどの適地だった。所有者のドイツ人はすでに百二十万ペソ前後の資金を投入していて、製糖所のほか、テキーラ製造所や農耕具もそろっていたため、買収しても当面は資本投下の必要もなく収益をあげることができるという好条件だった。

 その様子どんなものだったのか、一九二六年五月、越田の命で現地視察をした高田書記生の報告「墨国ハリスコ州サン・ロレンソ・デ・ラ・エスタンスエラ農場」から見ておこう。

 まず、農場は総面積一万七千八十七エーカー(約六千八百ヘクタール)で、うち丘陵地帯が四千七百三十七エーカー、残りの一万二千三百五十エーカーが耕作地で、そのうちの千七百二十五エーカーが潅漑の必要のない湿潤地で、四千九百四十エーカーが潅漑可能地、五千六百八十一エーカーが比較的高地になっていた。湿潤地のうち三百七十一エーカーにはすでに砂糖黍が、そして、高地にはテキーラの原料であるメスカルが約五十万本栽培され、丘陵地帯には樫やならなどの高木が繁茂して、それらは薪炭用や建築材に使われていた。また、そのほか、農場内のあちこちには合計千三百五十頭の牛が放牧されていたという。

 施設としては、農場の真ん中に所有者の住宅や事務所のあるアシエンダがあり、それに付属する形で各所に倉庫や、テキーラ、ラム、粗糖の製造工場があった。ハリスコ州はむかしからテキーラの産地として有名で、植え付けてから六年の成熟したメスカルを蒸気室で蒸し、圧搾した液を発酵させてつくられる。農場では年間約五百バレルを生産し、売上げは二万ペソに達していた。一方、ラムは砂糖黍からつくられる。年間五万リットルを生産し二万ペソの売上げがあった。また、パノチャと呼ばれた粗糖は年間百五十万キロを生産し、売上げは二十三万ペソにのぼった。

 潅漑は農場の西側を流れるリオ・テオティトランから運河が縦横に引かれ、それに加えて井戸からの汲み上げによって七千エーカー前後の潅漑が可能だった。すべて州政府からの水利権を得ていて、また、高地にはいくつかの貯水池もあった。

 都土地会社との売買問題が持ち上がったとき、農場には二百家族のメキシコ人労働者が働いていた。いずれも小作あるいは農場の賃金労働者としてで、後者の場合は日給二十センタボスから四十センタボス。それ以外の手当として日々の食料のほかに家族数に応じた玉蜀黍が現物支給されていた。さらに、農閑期の六月から九月にかけては農場内の土地を無料で提供して玉蜀黍を栽培させ、収穫の半分を納めさせていた。逆に、農繁期の人手不足にはテオティトランなど近隣の町や村から日給五十センタボス前後で六百人の季節労働者を雇い入れていた。こうした情況をこと細かく報告したあと、高田は次のように農場の価格評価をしている。

 土地二十六万ペソ、植付済メスカル十五万ペソ、植付済砂糖黍十二万五千ペソ、テキーラ製造所機械類一万五千ペソ、ラム製造所機械類七万五千ペソ、牧畜類七万五千ペソ、潅漑設備七万ペソ、建築物四万ペソ、農具類一万五千ペソ、水力利用利権一万ペソ、計八十三万五千ペソ。

 そして、こう結論した。

「エスタンスエラ農場の土地が付近の農場の如く農作に好適なるは殆ど疑をるるの余地なき所にして、又同農場に於ける水利の便予想外に良好にして潅漑の極めて容易なるは特筆すべき点なり」

 地味や管理状況のほか、北部メキシコではとかく問題の多い水利についても問題なく、農場としてはまったく申し分ないという。そうして翌二七年三月十九日に契約が結ばれている。買収価格五十万ペソ、手付金として二万ペソが契約と同時に支払われ、同年五月までに十八万ペソ、次の年には十万ペソ、残りは、その後、毎年五万ペソずつ支払うことになった。

 入植者の募集については、都土地会社が、少し前の二月に、広島、山口、福岡、鹿児島県で新聞広告などを通じて行なっている。その「墨国エスタンスエラ農園概要」と題した案内書によれば、十エーカー単位の分譲が三千円で、申込時に手付金として三百円、残りは旅券受領後ただちに支払うというものだった。だが、高額だったため、十エーカーを五人一組とし、一人二エーカーを六百円で分譲した場合の方が多かった。旅費については、神戸からマンサニージョまでの船賃百三十円に加え、現地までは三十円前後の汽車賃がかかったがもちろん自前だった。

 結果として、広島県から十二家族三十二人、山口県から一家族三人、鹿児島県から二家族八人の応募があった。そして一九二七年五月十一日、十二家族三十一人が東洋汽船の安洋丸で出発、六月上旬に農場に到着している。

 当時、メキシコでは革命後の混乱と、農地分割による土地所有者と農民との紛争が絶えず、疲弊した農村をあとにアメリカに密入する者が多く、ときには一日五千人を超えることもあったという。そのため、農村はさらに荒廃していくことに危機感を抱いていたのだろう、エスタンスエラ農場への入植民がマンサニージョに到着したことについて、『エクセルシオル』紙は、放棄された農地は日本人移民やほかの外国人移民によって所有され、やがてメキシコはかれらによって管理される貸家になるだろう、と論評したほどだった。外国人移民の入国に反発していることはもちろんだが、それ以上に、メキシコ人の北への流出を憂えているのだった。

 では、入植がはじまったエスタンスエラ農場の様子を、一九二七年七月の進藤書記生の報告から見てみよう。かれが現地に派遣されたのは、六月に入植した第一回移民十二家族のうち六家族が、数日とたたないうちに農場を出てしまったからだった。

 まず、入植者は日本出発時点で土地分譲金を払い込んでいたにもかかわらず、現地に到着してみると、分譲地の区画さえも決まっていなかった。また、住宅について、「案内書」には「農園内適当なる地区に住宅地を選定し、各戸百五十坪程度の宅地を供し、一定の様式に依り家屋を新築し植民者に無償供給す」と明記されていたにもかかわらず、住宅の建設はおろか、宅地となる場所も決まっていなかった。

 これについては、都側の現地代表者と入植者との折衝で、アシエンダの南約六百メートルのところにアドベ造りの寝室と炊事場だけの一戸建て八坪前後の住宅を建て、周辺に、一戸につき三百坪の耕作用の土地を付帯したものを年賦償還二百ペソ(ただし、十エーカーの購入者には無償)で供給することで一応の決着がついている。だが、選定された土地は低地だったため、排水の便が悪く、井戸水も飲料には適していなかったため、住宅問題が再燃している。

 一方、収入は、基本単位である二エーカーの土地に玉蜀黍やガルバンソ(豆)などを栽培したとして年間収穫高は約九百六十ペソ。それに対し、年間耕作費は二エーカーにつき、牛二頭の飼育費百八十ペソ、農具諸費用五十ペソ、メキシコ人雇用費三十六ペソ(一人一日六十センタボスとして、二人三十日間)、種子代二十四ペソ、給水費八ペソで計二百九十八ペソ。そして、生活費は、一家族二、三人の場合、一カ月約三十ペソとして年間三百六十ペソの食費がかかる。結局、これらを差し引きすれば年間純益は三百ペソ前後にしかならなかった。これは「案内書」で予告されたものとほとんどちがいはなかった。だが、収入は先を見越してのもので、これに住宅年賦も必要になってくる。そのため、残留家族は共同耕作をはじめることで無駄な出費を減らして切り抜けようとしていたという。ほとんどの家族は二エーカーの分譲だったが、大農法のメキシコではエーカーから十エーカーなければ農業として成立しなかった。

 その土地の分譲については、農場が広大だっただけに位置決定に問題が多かった。遠隔地にあたると生産物の運搬や労働者雇用に費用がかさんだからだった。さらに「案内書」では生活費は六カ月分(一人百二十円から百五十円)を用意すれば十分で、農具も大きなものや牛馬は貸与するとしていたため、切り詰めた額しか用意していなかった者が多く、それに対して現地代理人は年賦返済による貸付を決めているが、このことも入植者の不安を大きくした。

 農場を去った六家族について、進藤は「元来いずれも農場に残留する意志なく、(略)退去を希望して居た者は長年北米で労働をして居たと云ふ或る一人だけであって、他の者は皆彼に扇動誘惑され、それに誘惑者自身は北米で自動車業の経営を初めやうと云ふ目的で新に渡来したるものである」としているが、すでに土地分譲代金を払い込んでの入植だったから、容易に人の扇動に乗れるものではなかっただろう。

 その後、さらに、第二回入植者六家族も七月末に到着し、住宅もないまま、アシエンダの一室に同居していたが、うち三家族も「船中にして同僚に退去希望をもらし北部親戚を頼り行く旨語れる由」という情況だった。

 このように「案内書」とはかなりの食い違いがあったから、それだけ現地代理人との対立、不和も絶えなかった。現地代理人の一人として、農場管理にあたっていたのは小林直太郎だった。進藤は小林についてこう述べている。

「永年墨国に在住し、特に植民方面に対しては抱負を有し、此の方面にいての著書等もある関係上、同氏を農場の管理人としたるものなるが、農場に於ける氏の評判は期待を裏切り、入植者到来前氏は農場に入って将来入植者の栽培すべき農作物の種類及農場財産等の詳細調査の使命を帯び居たる由なるが、其方面に対する仕事は何等之を進ることなく、又入植者到来後といえども入植者の相談相手として極めて冷淡なる由なり」

 管理人としての小林の職務怠慢を批判しているが、もちろん、これは入植者側からの観点で、東洋移民会社の社員として南洋移民の送出に監督としてかかわったのち、榎本殖民地に監督として留まり開拓経験を持っていたかれにはそれなりの営農方針もあったのだろう。かれは土地分譲については入植前の一括払いではなく年賦償還を都に主張していたという。だが、そうしたかれの方針は取り上げられなかった。これによって、小林はエスタンスエラ農場の結末が見えたのだろう、農場譲渡あるいは経営が失敗した場合を想定して、先に買収を拒否されたアベリナに接近していった。メキシコ人夫人とともに家族五人で入植していたかれにも生活があったから、エスタンスエラ農場との心中はできなかったのかもしれない。

「日本側が払込契約を果し得るか否かを疑ひ、し万一の場合には之をアベリナに買収せしめんとする意向なるや哉にて、同氏が農場に対して冷淡なるも又植民者に対して不親切なるも多少此辺の事情にもとづくにあらずやとの噂あり」と進藤は記している。

 こうした動きと、不況に喘ぐ日本経済を考慮したのか、所有者側は払い込み時期を譲歩し、一九二七年度払い込み分の二十万ペソについては七月末までに四万ペソ、残額十六万ペソは八月から翌年三月まで二万ペソずつ払い込めばあとは年賦償還として、とりあえず土地の権利を譲渡するということで折り合った。

 その後のエスタンスエラ農場について、詳細な記録はない。ただ、譲渡がうまく運ばなかったことだけは想像がつく。同年九月十二日付の田中外務大臣宛青木公使の公信によれば、都土地会社が一九二七年八月末までに払い込んだのは三万ペソで、そのため所有者側から再度請求があり、九月に「隈部」を派遣、交渉した結果、所有者側は、日本政府の保障がとりつけられるなら、残額四十七万ペソを三十六万ペソに減額し、九月までに一万ペソ、年末までに二十万ペソ、そして翌年六月末までに十五万ペソを利子八分で支払うという条件なら契約を継続するとまで譲歩している。

 しかし、日本政府は保証を拒否。さらに、所有者側は、ただちに一万ペソを払い込めば「地権」だけは「保存」するとした。他に譲渡しないという形で今後の交渉を待つというのだったが、その後、実際に払い込みが行なわれたかどうか、また、入植者たちのその後を伝える史料もない。

 小林は、このほかロサンゼルスに住む日本人を出資者に、ナヤリト州サンチアゴに農牧を中心とした農場開拓を計画したこともあった。テピクの西、サン・ブラス港に近い肥沃な土地で、営農計画としてはうまくいくはずだったが、十分な資金が集まらず失敗している。エスタンスエラ農場同様、農場開拓にはやはり大きな投資が必要だった。

 のちに、分裂時のメキシコ日本人会の初代会長になるなど、またちがった道を歩んだかれだったが、一九三四年にメキシコ・シティで死亡している。伊藤敬一はその著『墨国を語る』のなかで先逝した『歩みの跡』の著者藤岡紫朗に寄せる形で、小林の人となりとその最後を次のように記している。

「彼は仲々の外柔内剛者であり、(略)終始移民問題と取組み、之を畢生ひっせいの事業としたのですが、惜しむべしさがすこぶる剛頑、調和性に欠けていました。従って他から誤解を受け易く、其の素志を達するに至らず、六十何歳を一期として永久の旅に立ちました。それは引続き二回の癌手術が不成功に終り、遂に不遇のうちに此の世を去ったのであります。恐らく彼が得意の絶頂にったのは、故鈴木梅四郎氏(代議士、三越監査役)其の他と共に、日本殖民会社を起し、夫人と共に西語を繰りつつ、手に手を組んで、墨国に再渡航した時であります。しかし此の会社は故あって解散し、鈴木氏は彼と絶縁しました。しこうして彼は其の後日本人の細君と離縁し墨国婦人と再婚しましたが、晩年の彼は不遇でありました。だが彼は強健な身体にものを云わせ、色々の障碍を乗り越え、一意目的の貫徹に努めましたが、時彼に利あらず、遂に雄図空しく他界しました。彼は珍しい快男子、実行力の強い人でありました」

北墨鉱業と条勉

 こうして日本人移民によるさまざまな開拓の試みは失敗あるいは中断のままに終わっていったが、逆に、大きく成功したものもあった。その一つは北墨鉱業株式会社だろう。記憶にあるだろうか、ビリャ暗殺未遂事件にかかわった条勉が経営していたもので、出資者はロサンゼルスの日本人有志だった。

 まず、かれはチワワ州チワワの西方約百二十キロのサビナル銀山を十万ドルで買い入れた。すでに採掘済みの旧鉱だったが、偶然だったか、先見があったのか、掘り進めていくうちに良質の鉱脈にあたっている。純度八十パーセントという銀鉱石で、たちまちのうちに株の配当は二百パーセントを超えるようになった。

 こうして、北墨鉱業はたちまち数十万ドルにのぼる利益をあげ、その後、山田時平所有の鉱山やナミキパ銀山なども買収し、最盛期には年間百万ドルの純益をあげるほどになっていた。そのためメキシコ北部では「第一の成功者」と伝えられ、当時の日本の雑誌『キング』にも紹介されたほどだった。

 当時、チワワ州には「ニッポン」と呼ばれるところがあったが、これは同社があちこちに鉱山を買収して採掘をはじめたため、それまでの獣道のような山道が立派な道路になるなど、廃鉱から銀を掘り当て百万長者になった条を意識して村の名前になっている。ただ、条は社長の地位にはあったが、株主からはあまり信用がなかったらしく、経営の実際は当時弱冠二十五歳だった大塚為安があたっていたという。大塚は北墨鉱業が閉山してからはメヒカリに転住。当時、カリフォルニアに遊学していた三木武夫らと親交を結んでいるが、再びチワワ州のナミキパに戻り、農牧組合の組合長や銀行顧問などを務めながら診療所を開いていた。のちに日本に戻ったかれは『望郷の歌』を自費出版し、北墨鉱業の鉱山がいかに優秀なものだったか、このように振り返っている。

「このサビナル鉱山は、日本の大鉱山会社の調査によると、世界一の良質な鉱石を産する鉱山だが、ポケット状に鉱石が点在していて埋蔵量の見当がつかないという。したがって採掘可能な年数の計算もできず、投資は見合わされてしまった。北墨鉱業は独立で掘り進めたが、二ケ月もポケットを見つけるための投資をすると、銀貨以上の鉱石が幅一メートル位にわたって横たわる鉱脈が発見されるのだった。労働者たちは、日本人監視員の目を盗んで、実に巧みに鉱石を脇の下、肛門などに隠す。八時間の労働が終り、更衣室で着替えるときの動作も電光石火で、検査員はついだまされてしまうのである」

 条は一八八七年十二月五日、宮城県遠田郡沼部の生まれ。一九〇六年十二月に大陸殖民の第八回移民としてベラクルス州のオアハケニャ耕地に入ったが、半年ほどでチワワ州ラス・プロモサス鉱山に移り坑夫として働いている。そして、たちまちその手腕を認められたかれは数年後には同鉱山の支配人になっているが、飽き足らず、チワワに出て商店を経営。その後、一〇年頃には北西のマデラで雑貨店を経営すると同時に農園もはじめた。だが、革命ゲリラので商店も農園もやっていけなくなり鉱山経営に転じ、二三年、北墨鉱業を設立したのだった。その背景にはラス・プロモサスでの経験が生きていたが、革命の動乱によって各地の鉱山が荒廃し、休鉱となって廉価に売りに出されていたという、かれにとってはいい時代だった。瀧釟太郎は『大宝庫メキシコ』のなかで、いささか美文のきらいがあるが、条を評している。

「氏に財産はと問ふ人あらば前記『二会社の株主なる外びた一文も無し』と、喜色に満ちた顔を上げ愉快げに談笑する快濶の人である。氏の一言りんとして威風あり、自然とそなわれる豪傑風の人なり。氏の弁舌態度才識等すべての点に於て、世界的実業家としてごうも遜色なきは衆人の等しく認識する処なり。(略)海外万里功成らずんば死すとも帰らざるの大決心と大望を抱いて渡航したる移住民の多くは、牧草を追ふ羊の如く、水流に従ふ浮草の如く、転々として常住の地を定めず百年の計を建つるものほとんどど無き時に、英才なる氏は逸早いちはやくも土着的に変じ、昔日の移民は今日二大鉱山会社の総支配人になり、一九二四年度には六十万ドル余の純益を挙げ、又一九二五年には百万ドルの純益を挙げたりと。(略)条氏の如きは墨国に於ける邦人の貢献の跡を残す時、その筆頭として墨人に示し恥ずかしからざる人物なりと称するも過言にあらざるを証するものなり」

 余談だが、一九二六年十二月に刊行された同書は七百ページを超える大部のもので、メキシコの政治、産業や地理の詳細のほかに各州の情況を述べながら日本人移民の略伝を収録している。ねらいはそうした移民の紹介にあったのではもちろんなく、おそらく投資を誘う目的でメキシコの現況を日本に紹介しようとしたのだろう。だが、発刊資金が不足していたため、表だってではないが各地の日本人移民に暗に寄付を請うことも少なくなかった。そのためか、取り上げられた日本人移民の記述は成功談義にかたよっているが、青山正文とともに二年の歳月をかけてメキシコ各地を訪ね歩いた結果としての同書は、のちに同じくかれによって著わされた『メキシコ国情大観』(メキシコ新報社、一九六八年)とともに、当時、各地で活躍していた日本人移民の様子を伝える貴重な史料になっている。史料はその背景もいっしょに読まないと深みにまってしまうことになる。

 もう一つ、同書について興味深いのはその序文についてで、瀧はその発行に際して、公使古谷重綱と代理公使越田佐一郎に序文の寄稿を求めている。しかし、公使館筋ではかれをかなり胡散臭い目で見ていたらしく、一九二六年三月二十二日付で越田は日本の外務省宛に次のような公信を送っている。

「既往十年間当国に於ける同人の商業がことごとく失敗に帰し且つ諸方に負債あり。評判不良なるに鑑み、最初は強硬に断わりたるも、屡々しばしば懇請したるのみならず、右刊行物其の者は多少世人の参考資料たることを得べきを思ひ、別に右案内を保証又は推薦することなく、だ通り一遍無害の序文を与へ、日本人に対しとくと注意を加へ置きたるも帰国後万一之を悪用して誇大の広告を為し、又は巧言令色を以て世人を欺瞞し墨国事業投資、又は商取引を勧誘し自ら之れが媒介者となり私利を図るが如きことあるときははなはだ遺憾なるに付、同人に関し民間其の他より本省へ問合せあるときは金銭又は物資の信用貸等に付ては十分慎重に考慮し誤魔化されざる様用心方特に御注意相成る様致度いたしたく為念申進す」

 メキシコでの瀧の行動には不明の点が少なくないため序文を書くのは差し控えたい。しかし、あまりに何度も要請するのであとに問題が残らないよう、ただ「通り一遍無害」の序文を与えておいたというのである。いかにも官僚らしい手さばきだが、古谷はその序文として二百字ばかりの字句をならべたあと次のように結んでいる。

「予は近々帰朝のはずにして其の出発準備の為忙殺せられ本書の内容を親しく閲読するのいとまなきも著者のもとめそむかざらんが為一言を序すると云爾しかいう

 近く本省に帰る準備のため内容も何も知らないが、瀧に頼まれたから仕方なく書いたという。かなりばればれだが、逃げ道をきちんとつくっている。

 一方、越田の方はどうかといえば、同書のことにはいっさい触れず、「我が同胞よ今や各自の生活の為にも国家の発展の為にも鼾睡かんすいの時にあららず、議論の時に非らず、実行の秋なり、断行の秋なり、蹶然けつぜん奮起せよ、羅典ラテン亞米利加の地到る処青山有るに非らずや、日東男子行けよ海外へ、双腕をともとし運命を奮闘に開拓せよ」とまくしたてている。そして、署名も越田浮雲と外交官としての公式な立場を避けている。

 もちろん、こうした態度はすべての移民たちに向けられたものでもなく、あるいはまた瀧の行動の方にも問題があったのかも知れないが、当時の公使館や公館員たちの移民に対する視点の一端がうかがえて興味深い。

 そして、そのあとの部分では、瀧が日本に行って日本の財界人たちにメキシコへの投資を誘いかけることがあるかも知れないが、財界からのそうした問い合わせが外務省にあったときには注意喚起を促すよう進言している。エスタンスエラ農場の開拓も同じで、いまもそうだが、当時さまざま行なわれた日本からメキシコへの投資にはメキシコ在住の日本人移民が少なからず絡んでいたことがわかる一節でもある。

益子殺害事件

 メキシコ・シティから北西に約二千七百キロ、アメリカとの国境に近いメヒカリは、夏には連日四十度を超える猛暑が続き、灼きついた大地から熱気、熱波がジェット噴流になって吹き上げる、沙漠地帯の果ての町である。

 このメヒカリに益子三郎がやってきたのは一九二五年のことだった。茨城県久慈郡大子町生まれのかれは、東京外語大学スペイン語科を卒業(第二回)したあと熊本移民合資の移民監督として、一九〇七年に北部コアウィラ州のラス・エスペランサス炭鉱に入っている。通訳だったのだろう、何かとその行動が非難される移民監督だが、かれの場合はかなり違っていたように思う。

 一つは、一九〇八年二月二十七日の早朝に起きたコアウィラ州のロシータ炭坑での爆発事故に関してだった。ガス爆発によって約八十人の死者が出たが、うち八人が日本人移民だった。ただ、このロシータ炭坑へは日本からは直接には送られていない。ほとんどがラス・エスペランサスや南部ベラクルス州のオアハケニャなどからの転労者だった。犠牲になったのは熊本県の甲斐留松、三重県の磯部藤一、石川五蔵、福島県の榎内寅蔵、加藤太左ヱ門、安西又治、斉藤安太郎、そして高知県の高芝鉄蔵だったが、かれらはいわゆる逃亡移民で、四人が東洋移民合資、三人が熊本移民合資、そして、残りの一人は大陸殖民によって送られた者だった。このとき、益子はラス・エスペランサスから出張し、生き埋めになった八人の捜索に奔走、埋もれた坑内からのかれらの引き上げにも加わり、野辺送りまでしている(「ロシータ炭坑ノ爆発並ニ邦人工夫死亡報告ノ件」)

 その後、一九一一年にはメキシコ・シティに出て自由人となっていたが、そこでメヒカリの日本人会で幹事を募集していることを耳にしたのだった。当時、棉景気でにぎわっていたメヒカリには、アメリカに密入する目的でやってきて、そのまま居ついた者や、逆にアメリカから南下してきた者など日本人移民がたくさんいた。多いときには千人近くにのぼったといわれ、ほとんどは近郊の棉作耕地で作付けや棉摘みをしていたが、市内で理髪店を経営したり、ジュースなどの清涼飲料水を販売する者も多かった。一時、理髪店は十軒を超えたこともあったという。

 だが、一九二〇年前後からにわかに増加したのが酒場やカジノなどの遊興施設だった。アメリカでは第一次世界大戦前後から全州にわたって禁酒法の動きが活発になり、一七年に上院で可決した酒精飲料の製造販売、輸出入を禁止する憲法修正第十八条が、一九年一月には四分の三の州での批准を経て、同禁酒法は憲法に加えられることになった。もちろん、これには医師から処方箋を受けた者にはアルコールを売ることが許されるなど抜け道があり、結果として密売の組織が膨れ上がっただけだった。そうしたなか、アメリカ人はもちろん、ロサンゼルスで酒場やカジノなどを経営していた日本人移民のなかにはアメリカのアルコールの密造、密輸組織とも関連してメキシコに進出する者も少なくなかった。多かったのは棉景気で急激に人口が膨れあがったメヒカリで、格好の市場になったのだった。さらになかには日本から形式上、夫婦という形をとって女性を呼び寄せ、売春につかせる者もいた。

 益子事件はこうした女性の入国問題に絡んで起きたという。一九二六年十二月九日、未明のことだった。のちに明らかになるのだが、幹事だった益子は日本人会の事務所で執務中、何者かに後ろから首を絞められ、さらに頭部を鈍器で殴られ殺された。犯行は二人がかりで、犯人たちはぐったりした益子を地面よりも一段高くなった日本人会館から中庭に引きずり下ろし、そこに掘った穴のなかにうつ伏せにして埋めた。

 一方、突然、益子の姿が消えたことに日本人会は大騒ぎになり、三日後に緊急役員会が召集された。ところが、どうしたわけか、その夜、日本人会館から出火、全焼してしまう。放火の疑いが強かった。当時、メヒカリにいた市川米蔵夫人が証言している。

「長男が生まれたのが十二月七日でした。当時の日本人会は役所のようなもので、子どもが生まれると三、四日内に届けることになっていました。ところが、会館に行ってみると益子さんがいないんです。会館が焼けたのはその日の夜でした」

 火災でわずかに残ったのは会館から中庭に降りる階段だけだった。メヒカリ地方の夏は猛烈に暑いため、ほとんどの家は床が地面より一段と高い構造になっている。この階段の裏側に血痕が残っていたのだった。集まった日本人移民のなかに、青年たちに剣道を教えていた内海という者がいたが、かれは日本で警官をしていたこともあり、職業柄、階段に血痕が残っていたことから死体は中庭に埋められていると直感、居合わせた仲間に金棒を持たせ一列に並んで地面を突いていったという。

 ちょうど大雨のあとのことで、作業は容易に進んで、すぐに、うつ伏せに埋められた益子の遺体が発見された。メキシコには、うつ伏せに埋められた死体の犯人は必ず挙がるという言伝えがあるが、日本人会では懸賞金をつけて犯人捜しに躍起になった。その結果、数日後、森下真一と生田喜代次(太平洋)の二人が殺人容疑で逮捕されたのだった。

 森下はメヒカリ日本人会長森下良一の弟で、メヒカリでビリヤードとバーを経営していた。一方、生田は早稲田大学を卒業後、ロサンゼルスの東京クラブに入り、暴力団の地下組織の一員として用心棒に雇われていたアマチュアの力士だった。ロサンゼルスの東京クラブはカジノなど遊興施設を取り仕切っていた日本人組織で、映画館やキャバレーなどを経営する一方、そのカモフラージュとして貧困の老一世たちに炊出しのサービスなどを行なっていた。

 メヒカリ警察は、巨漢の生田が益子の首を絞めている間に森下が後ろから鈍器で頭部を殴打したものと断定した。

 堤重吉氏は当時をこう語っている。

「いつじゃったか。わしの兄の家に益子さんが晩ご飯を食べにおいでになって、そのときはわしもいっしょじゃったが、それから兄と将棋をさして遅く帰られた。翌朝、わしは兄の子を抱いて日本人会館に行った。雨が降って大水が出て、会館の前の道で消防ポンプが水をくみ出していた。それを子どもが喜ぶからと見せに行った。そのとき、森下真一が日本人会館に入ったのをわしは見た。あとから考えれば、何か残っとるのがないか調べに行ったわけやなぁ。あとでわしは裁判に呼ばれて、このことを証言した。そしたら、森下は絶対に日本人会館の方には行かなかったというんじゃ」

 だが、裁判に決着がつかないうちに、生田はメヒカリの刑務所内で心臓をアイスピックで一突きに殺されてしまった。かれほどの男が、と不思議がられたが、犯人のメキシコ人ヘスス・J・トレスには、その後すぐに逃亡罪が適用されたため真相はわからず終いになっている。

 生田の殺害について、メヒカリ警察は刑務所内で囚人仲間とのもめ事からメキシコ人数人に取り囲まれて殺害されたと発表したが、ロサンゼルスの東京クラブから手が回ったのでは、移民たちは噂した。生田の口を封じなければ益子事件との関連が表沙汰になると東京クラブは恐れたのだろう。

 その後、益子事件の裁判はメキシコ連邦大審院にまで持ち込まれたが、証拠不十分、さらに肝腎の容疑者が死亡してしまったこともあってうやむやになり、また、収監されていた森下も一九三九年の特赦で釈放されている。

 堤は続けてこう語っている。

「日本人の間で、リンチだとか、後々のことを保証してくれれば俺が殺してやる、などという人もおったが、森下が監獄から出てきたとき、わしはどういうていいものかわからんじゃった。よう出てきたともいえんしなぁ」

 すでに述べたように、事件は日本人女性五人(山口、広島出身者)のメキシコへの入国手続きに絡んでのものだった。メヒカリでの日本人が多くなるのに目をつけた森下は、ロサンゼルスの東京クラブの指示を受け売春クラブを経営しようとしていた。だが、女性を単身メキシコに入国させることは法律上できない。そこで、形式上、夫婦という形をとり呼び寄せという形で入国させようとしたのだった。

 村井謙一は藤吉復から聞いた話だとして『パイオニア列伝』のなかで記している。藤吉は犯人捜査と事件解明のために奔走した一人だった。

「当時アメリカが禁酒制下にあったので、北米より続続南下してメキシカリでどんちゃん騒ぎをやり、邦人のうちにもその方面でうんと儲け、サービスの女性を呼び寄せする都合上夫婦の形をとって入墨せしめ、入国後離別するなどの手段を講じた。その入国許可の証明に幹事益子氏が捺印したため、ごうごうたる非難の声が同氏にかかって、清廉なる氏は自分が黒白をつけて不正入国の女性を送還するといきまいておられた矢先のために、一般では失逃説が多数であった」

 女性の呼び寄せの入国証明をしたとして周囲から非難を受けた益子は、その送還に動きはじめたあとのことだっただけに、周囲は最初、かれが逃亡したと思ったという。おそらく益子は呼び寄せの真相を知らなかったのだろう。あるいは益子が証明したというのは濡れ衣だったかもしれない。森下はメヒカリ日本人会長の実弟だったから、無理をすれば益子の手を経ずとも証明は可能だったはず。いずれにせよ、五人の女性の呼び寄せ手続きに関しては、益子の手をまったく離れたところで進められていたのだった。

 事実を知った益子は激怒、さっそくロサンゼルスの日本領事館にも手配して、すでにメヒカリに到着していたかの女たちの強制送還手続きをとった。当時の日本人会は、慣例的ではあったが、領事館の下部機関として、入国、呼び寄せなど渡航実務も行なっていたのだった。こうしたことからもわかるように、事件の根底にはロサンゼルスの東京クラブとメヒカリの日本人会に代表される日本人移民との対立があった。当然ながら、日本人会の背後にはメヒカリを管轄下においていたロサンゼルスの日本領事館があり、日本領事館はロサンゼルスはもちろん、メヒカリにまで進出していた東京クラブの行き過ぎに手を焼いていた。

 一方、東京クラブ内でも派閥争いが激しく、大和田事件と呼ばれた覇権抗争も起きている。大和田、太田の二派が対立、大和田が両手足を縛られ車のトランクに入れられたままメキシコ側(メヒカリ)に置き去りにされたという事件だった。そのとき、大和田の救助にあたったのが、当時メヒカリにいた芝山宅五郎で、大和田にマサトランの友人ロベルト・清水を紹介。二人の庇護を受けた大和田はマサトランから船でロサンゼルスに戻り、太田派を抑えて実権を握ったのだった。それから数年、日本への一時帰郷の途上、ロサンゼルスに立ち寄った清水は、完全に東京クラブを仕切るようになっていた大和田から大歓迎を受けている。

 現在、益子の墓はメヒカリ市内の市民墓地に残っている。碑文は、当時のロサンゼルスの日本領事が認めたのを静岡県出身の石工風間が彫ったもので、その費用はロサンゼルスの日本領事館と南加中央日本人会が働きかけて、アメリカとメキシコの日本人移民から寄付を募った。

 その丈、約二メートルの野面のづら石。表には、

 益子三郎之墓 亡大正拾伍年拾弐月九日 行年四拾参歳

 と刻まれ、裏面には約四百字にわたってかれの人となりが記されている。

追われる中国人移民

 二十年の長きにわたる革命の動乱によってメキシコ農村は荒廃し、農業生産は激減、一九三〇年代後半に入っても一〇年以前の水準を取り戻せなかった。また、各地の鉱山でも動乱のなかで閉鎖が続き、鉱業生産でもメキシコ経済は極度に停滞していた。その結果、農民の多くは村を捨てて都市に流入、あるいは鉱山からのあぶれ者といっしょに北部に移動、アメリカのテキサス州やカリフォルニア州に季節労働者として国境を越える者が続出する。その数は二七年には月十万人を超えるまでになっていた。

 だが、一九二九年の世界恐慌以後は、アメリカの入国制限が厳しくなり、逆に送還者の方が増加していく。一時はその送還費用がメキシコ経済を圧迫するとまでいわれたほどで、三四年のメキシコ経済統計局発表の移出入民動態報告によれば、アメリカから強制送還されたメキシコ人移民の年間総数は、一九三〇年六万九千五百七十人、一九三一年十二万四千九百九十一人、一九三二年八万六百四十七人、一九三三年三万六千五百八人と、四年間で三十一万千七百十六人にのぼっている。また、三二年七月から翌三三年六月にいたる一年間のメキシコへの入国者は十一万千八百三十八人で、出国者は五万八千八百九十七人となっている。しかし、入国者のうち外国人移民はわずかに八百九十人で、ほかはアメリカからの送還メキシコ人だった。こうした送還と、世界恐慌による経済停滞によって一九三〇年代に入るとメキシコ国内での失業者が急増。そのため、外国人移民の入国禁止令が出されるなど、各地で外国人移民排除の動きが激しくなり、日本人移民に対してもさまざまな圧迫が加えられるようになった。

 組織だったものでは、外国人経営の企業体でのメキシコ人の雇用を規定した労働法適用問題や、各地での同業者による日本人移民への活動妨害、排除が挙げられる。ただ、結論として、いずれも、たとえばソノラ州での中国人移民に対する排斥の激しさとは比較になるものではなかった。

 ソノラ州での中国人移民の排斥は一九一七年にはじまっている。商人であり教師でもあったホセ・マリア・アラナが「メキシコ人のためのメキシコ」をモットーに運動を展開、その後、は州政府によっても援護され、二三年には州内の中国人を隔離収容する法案が州議会を通過、メキシコ人と中国人との婚姻も禁止されることになった。ただ、このときは、それを実施すれば、中国人移民の税金によって成り立っていた州財政が破綻することが明らかになったため、いったん棚上げとなっている。だが、三一年八月には、当時ソノラ州知事にあったカイエスによって中国人移民の州外への強制移動が発令され、約三千人の中国人移民がほとんど財産没収の形で州外に追放されている(Leo M. Jacques, Chinese Merchants in Sonora, 1900-1931)

 中国人移民は一九二四年の時点では全メキシコの雑貨店経営の六十五パーセントを占め、そのうち十六パーセント前後がソノラ州に集中、州政府の財政までも左右するほどの経済力を持っていた。一方、日本人移民の場合は、数においても、また、経済力においてもわずかな影響力しかなかったから、個人あるいは同業者ベースでの対立、排除を別にすれば、いわゆる排日として極度の排斥を受けるまでには至っていない。それだけに残された史料も少ないが、一例としてベラクルスでの労働法適用問題とマサトランでの理髪店閉鎖問題、そしてロス・モチスでの排外協会による排斥などを見ておこう。

 まず、ベラクルスの場合だが、一九三〇年代はじめのベラクルスは人口約十万人、メキシコ最大の貿易港として全貿易量の三分の二を占める経済都市になっていた。三二年九月十日付の総領事代理斉田従義の外務省宛公信によれば、当時ベラクルスにいた日本人移民は食料・日用雑貨店経営者十七人、ビリヤード経営者一人、理髪店経営者一人、歯科医一人の計二十家族七十三人だった。松本弥三郎(山口県、食料雑貨店)、菅原紀道(福島県、日用雑貨店)、白木為人(山口県、食料雑貨店)、村上正人(山口県、食料雑貨店)、三宅長一(山口県、食料雑貨店)、林熊吉(福岡県、ビリヤード)、渥美貫志(愛知県、歯科医)などで、松本、菅原、白木のほかはいずれも経営の日も浅く、二七、八年に開業したものだったが、いずれもベラクルスという貿易都市にあったためか、かなり繁盛していたという。

 このベラクルスの日本人商店が、失業したメキシコ人労働者の一団によって襲われるという事件が起きたのは一九三二年九月八日のことだった。同月十日付「東京日日新聞」は伝えている。

「八日メキシコのヴエラ・クルヅで数団に分れたメキシコ失業者が同地の日本人商店を一斉に襲ひ、『おれ達を雇へ』と迫り、或は門前に『この外人はメキシコの搾取者だ』とはり紙をしたりなどして日本商人は閉店のやむなきに至ったのでついに日本公使にこの旨を訴えた」

 ただ、こうした動きは予想されていたことでもあった。それ以前、ベラクルスでは失業者やアメリカからの送還者の救済を目的に「リガ・デ・エンプレアドス」(雇用同盟)という労働組合が組織され、日本人会に対して外国人企業へのメキシコ人雇用を規定した労働法第九条の履行を再々にわたって求めていた。このベラクルスでの労働法の詳細は明かでないが、ソノラ州でのそれは「八十パーセント法」とも呼ばれ、メキシコ人の雇用率を八十パーセント以上にするという厳しいものだった。これに対し他のイギリス人やドイツ人、フランス人経営の商店などは早くからメキシコ人を雇用していた。だが、日本人移民のなかには帰化することによって合法的に逃れる者もいたが、多くは家族の共同出資による組合組織として登録することで巧みに避けていた。そのため、同盟は日本人商店十七店に対し、合わせてメキシコ人三十五人の雇用を要求。各商店や日本人会が応じなかったため、暴力によって、うち二商店を強制的に閉鎖するという実力行使になったのだった。

 その後も何度か、同盟によって強制閉鎖が行なわれているが、日本人会の要請で日本公使館から斉田が派遣され、同盟や市政府との交渉によって、当面はメキシコ人十五人を雇用することで一応の解決を見ている。

 次はマサトランの場合だが、一九二六年当時のマサトランの人口は約三万人、「墨国ソノラ、シナロア及ナヤリット三州ニ於ケル在留邦人情況」によれば、三十六家族六十一人の日本人移民がいた。医師六人、歯科医二人、医師通訳四人、理髪店経営者五人、日用雑貨店経営者三人、店員八人などで、商店としては長尾商店が太平洋岸地域の日本人商店のなかでは最大のものといわれ、中川商店がそれに続いていた。特異だったのは人口の割に日本人医師の多かったことで、メキシコ人医師との間にかなりの軋轢があったという。そのため、過当競争にあったのか、収入もほかの地域の医師たちの月収は平均千ペソだったのに比べて六百ペソ前後と水準も低かった。理髪店については営業状態もよかったようで、それぞれ二、三人のメキシコ人を雇っていたという。

 そうした繁栄が反感を買ったのだろう、日本人経営の理髪店に対し、閉鎖を要求する請願書がマサトランの理髪師組合によって連邦衛生官に提出されている。一九三〇年八月十五日のことで、その内容が同月十八日の「クロノス」紙に公表された。「メキシコ人理髪師、日本人理髪師を追放」という二段見出しで次のように記されている。

「当市に最近設立された理髪師組合はアジア人への攻撃キャンペーンを開始、連邦衛生官に対して、トラコーマに感染している外国人同業者の排除を要求した。その請願書は次のような内容である。日本人や中国人などのアジア人が伝染病に感染していることはよく知られていることで、世界中の文明国ではかれらを隔離し、その生活を限られた一定の地域に限定している。また、もっとも文明化した国家としてのメキシコにおいても同様で、各州知事はアジア人の排除に専心している。バハ・カリフォルニア北部州知事タピア将軍もその一人で、最近、メヒカリにモンゴリアン地区の設定を完了した。また、隣のナヤリット州でも連邦衛生官は中国人と日本人の理髪店ばかりでなくレストランに対してもそれを追放する指令を発した。ただ、ソノラ州とシナロア州に対しては理髪店と他の営業を許可していたため、かれらの伝染病が広がり公衆衛生は重大な危機に瀕している。さらに、当港での日本人所有の理髪店は衛生に対して次のような罪を犯した。六月末、メルチョル・オカンポ街三百十七番地の日本人ミゲル・ヤナギ所有の理髪店『東京』では顧客用の道具で依頼があった犬の毛を刈った。また、P街の日本人Kは地域医療においては不治の病とされている梅毒に犯されている。そして、危険な病気として知られているトラコーマに冒されていない日本人はいない。(略)民族のため、祖国のために、まだ既述の伝染病に冒されていない人びとに接触させないためにも理髪業界において日本人に営業させないことを命令されることを連邦衛生官に対し懇請する」

 あまりにも酷い内容であり、のちにはこれらすべてが事実無根であったことが組合側からも謝罪公表されるが、ここでは伏せざるを得ないほど、梅毒云々についても記事中にはその氏名と住所がはっきりとあげられている。

 組合というのは、一九三〇年八月三十一日付外務大臣宛マサトラン領事春日廓明の公信によれば、同年四、五月頃にマサトランの理髪業者約九十人によって組織されたもので、そのなかには日本人移民の経営者八人も加わっていた。しかし、組合幹部にはメキシコ人からもかなり信用を疑われていた者が多かったようで、まもなくメキシコ人の会員も十七、八人が脱退し、月一ペソの会費を納めていた者は二十人にも満たず、組織維持に四苦八苦していたという。そのため、会費の払い込みを滞納した日本人会員が標的にされ、前記のような新聞公表となったのだった。

 そして、春日は次のように述べている。

「其謂ふ所の荒唐無稽なる到底当局官憲の一顧をもち得ざるは勿論、一般に対しても格別注意を喚起することなく何等影響を及ぼすものにあらずと認めたるも、当沿岸地帯は他の地方に比し支那人排斥の風潮強く、往々無知の徒には日本の実状を理解せず、亞細亞人なる通称(中南米西海岸にては普通亞細亞人なる語は支那人を意味す)の下に本邦人をも混同し侮蔑の意を表するものあり。今回の本邦人理髪師排斥も或は他の地方に於て誇大に軽信せられ之を悪用する輩出でざるなきをし難き次第なるに付、不取敢在留本邦商人中の首位を占め特に墨人間に知己多き中川晶郎及久保田寛二の二人に旨を含め大略下記の如く弁駁べんばく文を漏れなく各新聞紙上に公表せしめ、其効果如何により更に日本人会もしくは領事館自身表面に出動することとなしたり」

 実際は、組合内部のごたごたであり、領事館が事態の解決に動かなければならないほどのものではないが、日本人を中国人と同様に考えられては困るので中川晶郎と久保田寛二の二人に反論を新聞各紙に掲載させたという。

 そして「弁駁文」発表と同じ日に領事館は約二千人のメキシコ人市民を招待し、日本映画「震火災復興」と「御大礼記念観艦式」などを上映、市内でも続けてそれらを公開したという。その結果、「支那と混同し半開国視し居りたるものも絢爛けんらんたる文化の実況を目撃しひとしく驚異となり嘆賞となり、諸新聞又筆をそろへて大々的に賞賛を浴せ掛くる有様にて、マサトラン上下民衆の日本観は之を機会に断然一大好転をなしたるを確信する次第」となったという。

 一方、組合の方は、その後もさまざま日本人理髪師の排斥運動を計画していたが、資金不足のためにまもなく活動も停止せざるを得なくなり、組合そのものも崩壊してしまった。

 春日や日本領事館が敏感に反応したのは日本人理髪師への侮蔑や排除に対してではなかった。それを通じて「大日本帝国の威厳」が中傷、侵害されているととったのであり、むしろ逆に、マサトランの日本人移民たちは春日から、日本人が誤解されるような行為は慎み、理髪業が競合しているのなら「独創的なる他業」に転職しろとまで「訓示」「勧告」を受けている。個人ベースでの中傷や対立、排除なども、それに国家がからんでくると深刻な「排日」となる。

 そして、もう一つ黙視できなかったのがメキシコ人の「アジア人」という観念だった。日本人が中国人と見誤られることによって日本という国が中国と同一視、あるいはそれ以下に見られることを恐れたのであり、日本人移民の排斥とは少しも受け取っていなかったことがわかる。

 ただ、排斥される側にもそれなりの原因はあった。一九二六年のマサトラン領事館の調査では日本人理髪業者数はソノラ州二十八、シナロア州十三、ナヤリット州五と、北部西海岸諸州に多く、マサトランでも人口に比べて日本人理髪業者の数が多かったため、メキシコ人同業者との間にかなりの競合、対立状態にあった。また、排斥の理由の一つにあげている日本人経営の理髪店の衛生状態については、残念ながらメキシコ人経営のそれも同様だったようで、先の「弁駁文」も「理髪師の衛生問題に関しては吾人は当局官憲により国人と友好国民との別なく平等に其取締法規を適用せらるべき筋合なりと思考す」と述べ、また、マサトランのミゲル・ベルトランもこの問題に対して「デモクラタ」紙に発表した「マサトランと外国人」という論評のなかで次のように述べている。

「現在の時点での衛生上の問題は衛生官憲の責任によるものである。当局はその解消につとめてはいるものの、残念ながら完全なものとはなっていない。毎月やってくる観光客がマサトランの衛生状態を最悪のものと思っているというが、それがほんとうかどうかを知りたければ公設市場をぶらっとのぞいてみれば事足りる」

 現在もそうだが、当時もマサトランにはアメリカ西海岸からの観光客が多く、日本人移民に対して中傷したのと同様のことが、かれらの間からメキシコ人への侮蔑として行なわれていたのだった。

 そしてもう一つ、マサトランの少し北のロス・モチスで起きた排外協会による日本人移民排斥の動きも、同地の日本人理髪業者に対するメキシコ人同業者の反発が原因だった。一九三二年十二月のことだった。数日後に排外協会の主催で排日大会の開催とデモ行進が計画されるというので同地の日本人会アオメ・モチス共和会は慌てたが、連絡を受けた公使館が排外協会本部と接触した結果、クリアカン在住の岡村清兵衛などが排外協会と直接折衝にあたったことから、日本人を対象からはずすということで問題は難なく解決している。

 排外協会のねらいは中国人移民の排斥にあった。リーダーの一人エスピノサには『メキシコでの中国人問題』という著書もあって、中国人移民の排斥にこの上なく先鋭的な人物だった。すでに北部メキシコでの中国人移民排斥運動はソノラ州を中心にシナロア、ナヤリット両州にまで拡大していたのだった。

 このようにメキシコでの日本人移民に対する排斥はほとんど運動としてまとまった形では起こっていない。数としても、経済力の点からもほとんど対抗力とはならなかったからだが、それに比べて中国人移民の方は一八九九年に当時の清国政府との間に移民協定が結ばれて以来、入国数はもちろん、歴史も長く、また、アメリカを追われたあと、かなりの数がメキシコに入っていることもあって、一九二〇年代初期にはメキシコ北部を中心に確固たる基盤を築いて中国系の銀行まで進出していた。それだけに排斥も厳しかった。ただ、興味深いのはメキシコでの中国人移民の排斥とメキシコ革命との関係だった。それがメキシコ革命のなかで起こっているということ、そして、排斥の完了が、革命の動乱がほぼ一段落しメキシコがPRM・メキシコ革命党によって「制度化」された国として出発していくのとほほ時を同じくしているのは単なる偶然ではないだろう。中国人移民は資産を凍結されたままに排除、追い出されている。その資産はどこに行ってしまったのだろう。

各地の日本人

 では、一九二〇年代後半から三〇年代前半にかけての日本人移民はどのような情況にあったのか。「墨国エンセナダ方面に於ける本邦人の発展状況」(一九三二年)、「墨国ソノラ、シナロア及ナヤリット三州ニ於ケル在留邦人情況」(一九二六年)、「墨西哥ヴェラクルス、オアハカ及チアパス三州ニ於ケル在留邦人情況調査報告」(一九三〇年)の三つの報告をもとに、形成期にあった各地の日系人社会の様子を北から順に追ってみよう。

 まず、バハ・カリフォルニアの情況だが、漁業関係やメヒカリでの棉作についてはすでに述べたので、ここではエンセナダでの農業を中心に見ておこう。

 アメリカとの国境の町ティファナからカリフォルニア半島を南に約百キロ、太平洋に面したエンセナダは、いまでこそメキシコ遠洋漁業の基地としてバハ・カリフォルニアではメヒカリにつぐ大きな町となっているが、一九二〇年代には人口三千人そこそこの漁村に過ぎなかった。ティファナとの間の道路もまだ整備されておらず、定期バスは一日二本、そして海上の定期航路も夏期のアメリカからの遊覧船をのぞいてはいっさいなかった。もちろん、日本からの漁業移民も、すでに見たように、ただここを基地の一つとしていただけだが、トードス・サントス湾を北西に望む南側には広大な平野が開け、温暖な気候が農業を有利にしていた。中心はマネアデロだった。

 エンセナダの南約二十キロ、マネアデロの農業用地はほとんどがアメリカ人に所有されていた。一九三一年の時点で日本人農園は十五あり、アメリカ人からの借地を中心に六百エーカーを超える土地を耕作し、チレ、ガルバンソ(豆)、アスパラガス、玉蜀黍などを栽培していた。在留者数は三一年末で、男性三十四人、女性九人、子供十八人の計六十一人でカリフォルニアから移転してきた者が多かった。主な農業者と耕作面積(単位、エーカー)は次の通り。

 尾林政市・卯一(七十七)、高橋四郎(三十九)、藤村修・内藤繁雄(三十六)、上野平三・松井浪三郎・大原新助(三十七・五)、藤本安三郎・重松貞信・重松清蔵・山越覚右衛門(八十六)、久代芳郎(五十九)、野崎清太郎(十八)、鈴木元吉・為吉(四十)、平瀬平三郎・平瀬四郎吉(四十八・五)、福島幸一(十六)、山下実恵・棟羽茂十郎・藤本勇一(三十四)、西国雄(四十二)、鈴木玉之助・岡本儀平(十八・五)、二階堂員雄・稲田積蔵(四十一)、曽我祐之・正夫(二十三)

 このように日本人移民による農業が発展したのはアメリカと比較して借地料が格段に安かったからだった。だが、潅漑が難しく、地下水は二十メートル前後と深かったためアメリカから専門の鑿井職人を雇って潅漑用の井戸を掘っている。一つの井戸で五十エーカー前後の潅漑ができたが、二千ドルから三千ドルの費用が必要だった。

 農作物のうちチレ、ガルバンソ、アスパラガスの市場はほとんどがロサンゼルスを中心としたカリフォルニア州南部で、価格はよかったが、アメリカの関税が高率だったうえに価格変動が激しかったため、大きく儲かることもなかった。

 一方、日本人移民のなかには日本人経営の農園で働く者も多く、日給は一・五ドルから二ドル前後、また、メキシコ人労働者の場合は一ドルから一・五ドルで雇われていた。経済的にはアメリカ経済圏の延長にあったため、通貨はドルとペソが半々で通用していたが、もちろんドルの方が有利だった。だが、労働者にはペソで支払われ、そのうえ一部は食料でまかなわれることも多かった。商店にはペソでの支払いを拒否するところも少なくなく、日本人農業労働者はもちろん、メキシコ人労働者の暮らしはさらに厳しかったという。

 その他、商業関係者はエンセナダと周辺に四十人、井沼常五郎(食料雑貨店)、染川彦一(同)、野中弥之助(クリーニング店)、山城米三(理髪店)、伊藤昂(同)、福田覚治(養鶏業)がいたが、商品のほとんどをアメリカからの輸入に頼らざるを得なかったため、利益は生活費に足る域を出なかった。

 次にソノラ州だが、一九二五年の時点で日本人移民は二百九人、家族を合わせて四百四十九人だった。エルモシージョ四十四人、ノガレス三十人、カナネア二十七人、ナボホア二百七十七人、ティグレ二十四人、ピラレス・デ・ナコサリ十五人、グァイマス九人、ナコサリ七人、アグア・プリエタ六人、アルタル五人、その他十五人で、職業別にみれば、もっとも多かったのは日用雑貨店経営の三十五人、ついで清涼飲料水販売三十二人、鉱山労働者二十九人、理髪師二十八人、農業十二人、店員十人、一般医師・歯科医師八人、製粉業七人、乳業六人、アルコール販売六人、大工職人五人、その他三十一人となっていた。清涼飲料水販売についてはほとんどが露天での販売だったがソーダ水などの製造者も含まれている。また、製粉業というのはトルティーヤの原料の玉蜀黍を粉(マサ)いて販売していたもので、そのうち年間の取引高あるいは製造、収穫高が一万ドルに達していた者が二十五人いたという。約十二パーセントにあたる。

 当時、ソノラ州で農業がもっとも発展していたのは一級河川ヤキ川とマヨ川が流れるナボホア周辺だった。一九二六年の時点で潅漑用の運河が完成し、もう一つが計画されている。主要作物はガルバンソと米だった。ガルバンソはほとんどが国内用で年間六百万ペソを生産、米はソノラ、シナロア、ナヤリットの三州の需要をまかない、さらに他州に移出できるほどの生産を誇っていた。

 一九二五年当時のナボホアの人口は約一万五千人。在留日本人移民はナボホア市内に十五人、周辺に十人で、ほとんどが商業あるいは農牧業に従事し、ほかに理髪店、レストラン、アルコール販売、清涼飲料水販売、医師などがそれぞれ一人ずつで、商店の一つには、メキシコ西海岸ではマサトランの長尾商店と並んで大きかった犬飼徳十郎の経営する犬飼商店があった。玉蜀黍や米などの主食穀物の卸販売と食料雑貨販売を中心としていたが、二五年には近隣の日本人移民とメキシコ人実業家とともに、北西に約七十キロ離れたエスペランサに発電所と製氷会社を設立するなど広範に活動していた。ただ、かれもアメリカからやってきた一人で、その当初は準備してきた資金も食いつくし困難な生活を強いられている。そのためアメリカにいた実兄は何度も戻るよういってきたが、「一度此地に踏み来り資を失ふは自らの失敗にして墨国に望を絶つは富を得たる策にあらず、飽く迄墨国を研究しし食ふに物無きに至りし時は援助を求む」と兄に伝えてナボホアに居を定めたという(『大宝庫メキシコ』)

 その他、かなり堅実に経営していたのは中島辰平のレストランと棚田幸太郎の酒店で、そのほか商店のほとんどは中国人経営のものだった。

 エルモシージョは人口約三万人、同州の政治上の中心地として、また、当時の大統領カイエスの出身地でもあったことから公共投資も大きく発達していたが、ここでも商業活動の大半は中国人移民が握っていて、その数約千人、それだけに北のノガレスとともにかれらに対する排斥運動が激しかった。日本人移民は市内に七十四人、付近に九人で、数においてはメキシコ・シティとタンピコにつぐものだった。清涼飲料水販売八人、理髪店五人、農牧業二人、レストラン二人のほか、雑貨店、一般医師、歯科医、清涼飲料水製造がそれぞれ一人で、農牧業には安部亮吉、片瀬浅次、清涼飲料水製造に尾花伴吉、レストランに中村喜之助、ビリヤードに畑田芳太郎、理髪店に福永正美、伊佐敷寅男などがいた。

 ノガレスはエルモシージョの北二百五十キロ、アメリカとの国境の町だっただけに日本人移民も多かった。ソノラ、シナロア、ナヤリット各州とアメリカとの交易の町で、一九二六年の時点で人口約二万人、在留者数は三十七人、市街はアメリカ領とメキシコ領に二分されていたがアメリカ側には日本人移民はいなかったという。理髪師五人、歯科医、清涼飲料水製造、製粉業各二人、アルコール販売、パン製造、清涼飲料水販売それぞれ一人となっていた。

 そして、もう一つ日本人移民が多かったのがノガレスの南東約七十キロの銅山の町カナネアだった。第一次世界大戦まではひじょうに繁栄したため、一時は一万人を超える労働者がいたこともあり、日本人労働者も八十人前後と多かったが、戦後の銅価格の下落で事業縮小が続いて、一九二六年の時点では日本人移民も約三十人とかなり寂れていた。坑夫として働いていたのは一人もなく、会社付属の病院や事務所に七人のほか、市内では理髪師八人、店員五人、ビリヤード経営二人、雑貨店、清涼飲料水製造、製粉業それぞれ一人となっていた。

 その他、国境の町アグア・プリエタやカリフォルニア湾に面したグァイマスにも比較的在留者が多かったという。

 次にソノラ州の南のシナロア州だが、一九二五年当時には百三十一人の日本人移民とその家族百三十八人がいた。マサトラン三十六人、ロサリオ二十八人、ロス・モチスと周辺に二十四人、クリアカン十五人、ナボラト九人、その他十九人で、職業は農業が四十人と圧倒的に多く、雑貨店経営十七人、医師・歯科医十六人、理髪師十三人、店員八人、清涼飲料水販売四人と続いている。うち年間の取引高あるいは製造、収穫高が一万ドルに達する者は二十五人(約十九パーセント)。もっとも大きかったのは長尾商店で、メキシコ西海岸最大の日本人商店といわれていた。

 ソノラ州とともに日本人移民に特徴的だったのは理髪師と歯科医師が多かったことで、前者についてはマサトランとその北のクリアカンに多く、マサトランではすでに述べたように日本人理髪師に対する排斥運動も起きていた。後者についてはほかの外国人移民も同じだったが、日本とメキシコの間には一九一七年に、互いに公式の免許あるいは学位があれば自由に医師営業ができることを定めた「医師自由営業協定」が結ばれていたが、日本人移民にはメキシコ政府公認の免許を持たない者が多かった。ソノラ、シナロア、ナヤリットの各州ではいずれも医師法といったものがなかったため、営業許可の許容範囲もちがっていたからで、一時、取り締まりも厳しくなったが、簡易学校や俄か仕立ての試験制度によって免許をとったことでほとんどがそのまま営業を続けている。

 マサトランについてはすでに述べたので省くとして、次に日本人移民が多かったクリアカンを見てみよう。

 一九二五年当時のクリアカンは人口約三万五千人、シナロア州の政治上の中心都市だったが、マサトランに比べると日本人移民は十五人と少なかった。職業別にみれば、理髪師三人、一般医師二人、レストラン経営二人のほか、歯科医、清涼飲料水販売、パン製造それぞれ一人となっていた。医師としては岡村清兵衛、森山繁忠などがあげられるだろう。しかし、同市郊外のナボラトやコロラドには雑貨店経営十人のほか農業六人、医師二人などがいて、中園晨や近藤伊祐などはそれぞれ医院、マッチ工場を経営するかたわら百エーカーを超える農地を所有して果樹園も経営していた。ほかに雑貨店経営に河村真明、田辺清一郎、武田亀吉がいる。

 一方、農業上からみてもっとも発展していたのはソノラ州との境に近いロス・モチスと、その北西約二十キロのアオメだった。ともにフエルテ川の河口に開けたデルタ地帯で、ロス・モチス郊外にはアメリカ資本のユナイテッド・シュガー・カンパニーがあり、周辺に四十万エーカーを超える農地を所有していた。肥沃な土地でしか育たない砂糖黍の栽培が中心だっただけに、トマトや茄子、胡瓜なども品質のいいのが育ち、ほとんどがアメリカに輸出されていた。

 日本人移民はロス・モチス、アオメ合わせて農業十一人のほか、医師、雑貨店経営、理髪師など二十五人前後で、アメリカから移転してきた者が多かった。一九一九年にロサンゼルスにいた日本人移民谷越と堀という二人がアメリカの製糖会社の資金援助でランチョ・ラ・フロリダを拓いて、分譲をカリフォルニア州やユタ州の日本人移民に呼びかけた。それに応じて二〇年から翌年にかけてカリフォルニア州とユタ州から五、六人がやってきたという。谷越と堀の二人はもちろん仲介に過ぎず、実際にはアメリカの製糖会社が年賦返済で日本人移民に土地を売却したのだった。最初の土地代金の返済は一エーカー当り百二十五ドル、六年年賦で利子八十八ーセント。トマトのほか、砂糖黍、ガルバンソなどを栽培し、メキシコ人労働者を日給一ペソから一ペソ五十センタボスで雇っていた。なかでもトマトはカリフォルニア州南部と比べて成熟が早く、冬場にもロサンゼルス市場に出荷できるという利点があり、うまくすれば年間純益は三千ドルにもなったという。

 また、マサトランの南西約六十キロのロサリオでも日本人によって五千エーカーの農場が開かれていた。もちろん土地の所有者はアメリカ人で、日本人というのは誰だったのか明らかでないが、一九二六年の時点で三十人前後の日本人移民が入植、うち約二十人が直接日本からやってきた者だった。土地を購入しての独立農ではなく借地での営農で、収穫はアメリカ人の土地所有者との間で折半し、もし日本人移民が帰化権を取得できるようになれば分譲も予定されていた。

 しかし、最初の日本人移民としてはもう少し遡る。一九二六年当時、岡村清兵衛の語った記録「シナロア州ニ於ケル邦人発展ノ歴史」によれば、同州にやってきた最初の日本人移民はカリフォルニアからの「知識階級」で、ほかの州では日本からの契約移民が在留者の最初になった例が多かったが、「当州に於てはいささか趣を異にし有識階級に属する者を以てパイオニア」としているという。もちろん、かれ自身がその一人だったから、これをもってすべてとするわけにはいかないが、アメリカでの将来を危惧した日本人移民が、メキシコを新天地としてやってきたのが嚆矢のようだった。ただ、すでに述べたようにアメリカからの南下は二〇年代になってはじまったのではなく、すでに紳士協約が成立した前後からアメリカを見限って転航している者もいたのだった。

 当時、かれはロサンゼルスで医師免許を得ようと準備していたが、同じく農場を経営していた中園晨と、旅館経営をしていた谷次郎が、シナロア州に広大な土地をもっていたアメリカの土地会社の援助を受けてシナロア州を視察、その後、日本人移民をシナロア州に入植させることを目的にロサンゼルスにシナロア拓殖会社を設立したためそれに加わり、ともにロサンゼルスの日本人移民にメキシコへの転航を呼びかけていた。しかし、「其当時の在米日本人社会にとっては排日問題は台頭当初のことでありいまだ有形無形の苦痛を感ずるに至らず、従って他国への転住と云ふが如きは未だ一部の有識者を除き全般には問題とならず、(略)メキシコ、南米等他国の有望なるを口にするは全然禁物でメキシコの宣伝の如きは夢にも出来なかった」というありさまで応募者がほとんどなかった。そこで一九〇七年にロサンゼルスを切り上げ、ともにメキシコにやってきたのだった。

 その後、先のアメリカの土地会社の土地を買収して農場を経営しようとしたが失敗。中園はナボラトにあったアルマダ製糖会社との契約でその農地の開拓に、谷は近隣のギリシャ人から農場を買収してその開拓に、そして岡村は医師開業の準備にとそれぞれの道を進んでいる。

 さて、もう一つ南のナヤリット州だが、一九二五年の時点で日本人移民は二十一人、その家族十人と、ソノラ、シナロア二州に比べればかなり少数だった。ツスパン六人、アカポネタ五人、イストラン四人、テピック三人、その他三人で、職業別にみれば、理髪師五人、一般医師・歯科医五人、雑貨店経営三人、農業、店員それぞれ二人など、うち年間の取引高あるいは製造、収穫高が一万ドルに達する者は二人しかいなかった。わずか十パーセントに過ぎない。

 人口約二万人のツスパンには雑貨店経営に巽白夫、理髪師に末永喜次郎、医師に本田義春がいて、人口約二万五千人のテピックには、歯科医土屋国一、そして人口約一万人のアカポネタには医師に山元覚蔵、理髪師に神崎勘三郎がいた。

 では南部はどうだったのか。ベラクルス、オアハカ、チアパスの三州について見てみよう。

 まず、在留者数だが、一九三〇年には「帰化」した者やメキシコ人家族を含めてベラクルス州三百五十三人、オアハカ州四十一人、チアパス州二百七十六人の計六百七十人だった。ベラクルス州ではミナティトラン百二十九人、プエルト・メヒコ五十二人、オアハケニャ五十人、ベラクルス三十五人、サンタ・ルクレシア三十人、コルドバ二十四人、オリサバ十三人、オタティトラン十人、コソラパ四人、フランシスタ四人、ハルチパン二人、また、オアハカ州ではフチタン十三人、サン・ヘロニモ十人、サリナ・クルス八人、リンコン・アントニオ四人、テピック二人、イスウァタン二人、ウニオン・イダルゴ一人、サンタ・マリア・チマラパ一人、そしてチアパス州ではタパチュラ九十九人、エスクィントラ九十人、ウィストラ六十二人、ノビジェーロ八人、モトシントラ四人、アカペタワ四人、サン・イシドロ三人、トナラ二人、ウエウエタン二人、アリアガ一人、ツストラチコ一人となっていた。

 職業別にみれば、ベラクルス州では食料雑貨店四十一、農牧業十三、店員九、日用雑貨店七、薬店五、漁業五、一般医師・従業員四、歯科医・従業員四、運送業二、清涼飲料水販売二、清涼飲料水製造、ビリヤード、製粉業、大工職、技師、クリーニング店、カフェテリアそれぞれ一、その他二十。一方、オアハカ州では日用雑貨店五、薬店五、食料雑貨店、一般医師・従業員、歯科医・従業員、店員それぞれ一、その他一。そしてチアパス州では農牧業二十八、店員二十五、食料雑貨店十六、薬店九、日用雑貨店六、大工職三、一般医師・従業員二、清涼飲料水製造二、アルコール販売二、技師二、ビリヤード、左官職、理髪師、電気業、クリーニング店、倉庫業、時計商、写真店それぞれ一、その他二だった。

 うち年間取引高、収穫高が一万ドルを上回っていた者はベラクルス州四十一人、オアハカ州八人、チアパス州二十八人で、全体の割合からみれば、それぞれ三十四パーセント、五十三パーセント、二十六パーセントとなり、ソノラ州の十二パーセント、シナロア州の十九パーセント、ナヤリット州の十パーセントと比べればいずれも比率が高く、とくにオアハカ州は在留者数の割にその事業の規模が大きかったことがわかる。

 では、各都市ごとの情況を見てみよう。

 まず、ベラクルス州のプエルト・メヒコ。この町はいまはコアツァコアルコスと呼ばれ、テワンテペック地峡の大西洋側にあり大西洋側ではベラクルスにつぐ港町として栄えている。メキシコを南北に走るシエラ・マドレ南端の山岳地帯から流れ出たコアツァコアルコス川を河口から遡ること約二キロのところで、一九三〇年当時も人口約一万五千人の貿易港として、また、太平洋側のサリナ・クルスに向かうテワンテペック鉄道の基点としてアメリカやヨーロッパとの交易が盛んだった。十九家族五十二人がいて、食料雑貨店では志山美鳥、西崎豊次、赤志仙太郎、日用雑貨店では仮屋園喜三次、漁業では福村喜代三、製粉業では上野亥之作がいた。福村は自ら漁船を数隻所有、食料雑貨店も経営し、年収は二万ペソにも達していた。漁業には比較的朝鮮人移民が多く、十三人が従事していたという。すでに述べた大韓殖民の取り扱いによってやってきた残留者だったろうか。福村、上野は大陸殖民による移民で、ほかに本田義雄、西崎与一郎、西崎権之助、井出喜作、山崎鶴喜、相原博、西村長太、成松三造、宮本小市、安沢平次、秋田岩間、長藤幸作、出島富弘がいた。

 さらに、コアツァコアルコス川を四百四十キロほどさかのぼるとミナティトランだった。当時、人口は一万五千人でプエルト・メヒコとの間に一日一回の定期便があり、増水期には一万トン前後の船舶も航行できたという。栄えたのは石油の町としてだった。イギリスのロイヤル・ダッチ・シェル系のアギラ石油会社があり、約二千人が働いていた。日本人移民は一九二〇年代当初には五十人を超えていたが、当時はわずかに七人だけで、労働監督一人、大工二人、工場労働者四人だった。

 ほかに三十五家族千百二十九人がいて、アルコール販売をも含めた食料雑貨店の経営が安藤兼次、水野松三郎、行徳浪造、島袋貞栄、清川義之、高木隆猪、田場太郎、渡久平山戸、山岡繁次郎、中村恵林、中村恵仁、田場真佐、大方繁市ともっとも多く、薬店経営の福島太市郎、朱雀雅、レストラン経営の山城増栄、農業の中園由平、阪本孫一、そして店員として岩崎光、岩崎大記、上野清がいた。

 フランシスタはミナティトランからさらに二十キロばかり遡ったところで、アギラ石油会社の油井があったが、一九〇六年に大陸殖民の移民としてやってきた平田金福ともう一人小幡順平の二家族だけだった。ともに食料雑貨店を開いていた。

 そして、さらに遡ればオアハケニャだった。かつてはアメリカ資本の製糖会社とその砂糖耕地があり、一九〇六年から七年にかけて大陸殖民の取り扱いで五千人を超える日本人移民が入っているが、メキシコ革命の動乱のなかで荒廃し、当時、同耕地と周辺に在留していたのはわずかに十三家族五十人だけだった。雑貨店経営に上原満茶、新垣次郎、食料品製造に玉那覇牛のほか、ほとんどが農牧業あるいはその労働者で、久保田蒲戸、島袋武雄、山之端可多、大島貞喜、白石仁八、羽野市右衛門、池上才八、両角三吉、横田晋太郎がいた。オアハケニャ最盛期にはプエルト・メヒコとの間に定期船が頻繁に往来し交通の便もよかったが、当時はほとんど隔絶された状態で自給自足に近い暮らしだったという。

 また、サンタ・ルクレシアはオアハケニャからさらに遡る。テワンテペック鉄道によって開けた町で、オアハケニャ全盛時代にはそれへの商品供給地として栄え、日本人移民経営の商店も多かったが、当時は十家族三十人が在留していたに過ぎなかった。清涼飲料水製造の小島保雄、ドイツ資本の材木会社の船本末松のほかはすべて食料雑貨店経営で祖慶良守、祖慶慶太郎、平田善十、吉崎惣平、浦野弥四郎、村上辰次、奥村藤平がいた。

 そのほか、プエルト・メヒコからテワンテペック鉄道で約五十キロ南に下った人口約二千人のハルティパンには医院、薬店のほか雑貨店も経営していた広沢冶次がいた。

 一方、北部メキシコ第一級の貿易港ベラクルスには、すでに述べたように十五家族三十五人、そして約八十キロ内陸に入った人口約二万五千人のコルドバには九家族二十四人がいた。歯科医には市原真次、日用雑貨店に中島やす、山部信治、食料雑貨店に宮城文八、農業に町田勇吾、クリーニング店に比嘉真保、そして機会修理に井上良吉と薬店に照井亮次郎がいる。照井はチアパス州エスクィントラの日墨協働会社がメキシコ革命の動乱で打撃を受けて解散したあと、オアハカ州のリンコン・アントニオ(現、マティアス・ロメロ)に移って薬店を経営していたが、それを渡辺忠次にまかせ、コルドバに出て高橋熊太郎の薬店を譲り受け、薬品販売の傍ら診察も行なう薬店経営をしていたのだった。だが、規模が小さかったことと、同業者が多かったためそれほど繁盛していなかったという。

 オリサバはコルドバの少し西、メキシコ・シティとベラクルスとを結ぶ要衝の地にあり、当時の人口は約四万五千人。郊外にはビール醸造工場や製糖工場、紡績工場があり、ベラクルスにつぐ商工業の町だった。ただ、その繁栄に比べて日本人移民は少なく、歯科医の横山玉亀のほか、中西弥太郎、村井謙一、山根音吉、渡辺吉兵衛、板山美智衛など六家族十三人だけだった。

 また、コルドバからそれほど遠くないコソラパにはただ一人高橋熊太郎がいた。榎本移民の一人で、その崩壊後は日墨協働会社の設立に活躍し、日用雑貨店を開いたが革命の動乱で経営が成り立たなくなったのだろう、メキシコ・シティに移って医師をしていた。その後、コルドバで薬店を開業、さらにそれも照井に譲ってコソラパに隠遁していたのだった。

 そして、もう一つ、ベラクルスの南約百キロ、現在のシウダー・アレマンに近い小さな町オタティトランには六家族十人がいた。農業に厚井憲道、前田四男、井上文治、大工職に緒方仁平、運送業に浦野十一などである。

 続いてオアハカ州だが、ここでの在留者数はそれぞれほぼその人口に比例していたといってもいい。

 テワンテペック鉄道の一方の基点で太平洋に面したサリナ・クルスは人口約一万人、メキシコ全体から見ればそれほど大きな町ではなかったが、少し内陸に入ったテワンテペックの外港として、また、太平洋岸の最良港として発展していた。だが、当時は海流とテワンテペック川が運ぶ土砂の堆積によって港内が浅くなり閉鎖された状態が続いて、東洋汽船の定期航路も寄港していなかった。そのため一九二〇年代には多かった在留者数も次第に少なくなり、当時は二家族八人のみ、ともに十年を超える商店として安定した経営を続けていた野口長治と竹村進一の二つの日用雑貨店だけになっていた。野口は兄四市郎の呼び寄せ、竹村はシアトルからの転航だった。

 サリナ・クルスから約二十キロ内陸に入ればテワンテペックで、歯科医の荻田政之助と高木六七八がいた。高木はメキシコ陸軍大尉として四十四人の部隊を率いて駐留していたという。

 サン・ヘロニモはテワンテペック鉄道沿線、サリナ・クルスから約五十キロ北の町で、チアパス方面に伸びるパン・アメリカン鉄道はここを基点に一九〇八年に完成している。三〇年当時の人口は一万二千人。在留者は小橋橙吉と中川末吉の二人と家族を含めた十人だった。小橋は一八九八年、アメリカから岸本槌彦とともにチアパスに入り、一時、漁業を手がけたあとエスクィントラで小橋岸本合名会社を設立、牧場経営とコーヒー栽培に成功したが、革命の動乱で経営不能になったため、一時、フチタンに避難したが、そこでも同様の被害にあい、さらに移転してサン・ヘロニモで日用雑貨店を開いていたのだった。一九〇九年にメキシコにやってきた中川は加藤商会の清水の紹介でサン・ヘロニモに入り医院と薬店を開いていた。

 同じくテワンテペック鉄道沿線の人口約五千人の小さな町リンコン・アントニオには照井亮次郎と共同経営にあった渡辺忠次の薬店があり、家族を含めた四人がいた。

 フチタンはサン・ヘロニモの東南約二十キロのパン・アメリカン鉄道沿線の町で、人口約二万人と太平洋沿岸では比較的大きな町だった。在留者は四家族十三人。小橋岸本合名会社から独立し雑貨店をはじめた長田泰治、また同様に小橋岸本合名会社から独立して薬店を経営していた飯島穣、そしてキューバから転航してきた押野甚吉とアメリカからの転航で医院を開業していた高橋武男がいた。

 そのほか、同じくパン・アメリカン鉄道沿線の町で、フチタンの西約二十キロのウニオン・イダルゴには薬店経営の千葉直市、さらに約四十キロ西のイスウァタンには農業の中村良雄と山本俊平、そして、サンタ・マリア・チマラパには農業の植田源吉がいた。

 そして、最後は一番南のチアパス州だが、パン・アメリカン鉄道沿いにずっと見ていこう。

 まず基点のサン・ヘロニモから約百五十キロ離れた人口約三千人のアリアガには岩瀬輝男が一人だけ、日墨協働会社で働いたあと一九一九年から薬店を開いていた。

 その南約二十五キロのトナラは人口一万人を超える町だったが、在留していたのはわずかに薬店経営の高橋喜一郎とその家族だけだった。

 ただ、郊外にはウィストラの有馬永谷商会が所有していたペルムタ農場があった。すでに触れたが、一九〇四年、チアパス政府はそれまで農民が入会地としていた各地の農村共有地を払い下げと称して売却に出したとき、日墨協働会社はそれに応じて旧榎本殖民地内の所有地周辺の土地を購入した。だが、農民たちは共有地は自分たちのものだとして政府の払い下げ政策に反対、日墨協働会社にも土地の返還を求めたが、州政府がこれに応じなかったため近隣住民との間にいざこざが続いていた。だが、一四年になって州政府との間にトナラ郊外の官有地(ペルムタ農場)との交換が成立し、同地が日墨協働会社の所有地になっていた。そして、二〇年に同社が解散したとき、有馬、永谷、照井、渡辺の四人がそれぞれの資産の一部としてそれを引き継いだが、照井と渡辺がチアパスを離れたため有馬永谷商会が買い取っていたのだった。面積四千九百十五ヘクタールという広大なもので、玉蜀黍、砂糖黍のほか、タバコ、カカオ、バナナ、米なども栽培、また、牧場として三百頭近い牛を飼育していたが、すべてまだ実験段階で入植者を募集している情況だった。

 このトナラから約百五十キロ南に行くとアカペタワだった。パン・アメリカン鉄道に沿った小さな町で、在留していたのは薬店経営の蓬田佑一と家族四人だけだった。

 しかし、その北約四キロのエスクィントラには、かつて榎本殖民地があっただけに周辺部も含めて九十人がいた。うちエスクィントラにいたのは、牧場経営の中村善平、日用雑貨店と清涼飲料水製造の清野三郎、薬店経営の水野房一、精米・製粉業の都築磯吉、コーヒー園経営の岸本カイ子のほか、その家族含めて三十人。中村、清野は榎本移民、水野、都築は元日墨協働会社員で、都築は同地にはじめて水力利用の発電機を導入し自家用のみならず町の街路や学校の電灯に利用したことで知られている。岸本カイ子は小橋岸本合名会社を創設した岸本槌彦の未亡人だった。

 エスクィントラ周辺では南約八キロのプエブロ・ビエホで玉川栄吉が食料雑貨店を経営していた。一八九一年ハワイに移民、三年でグァテマラに転航したあと、メキシコにやってきたのだった。

 また、エスクィントラ郊外約二十四キロのところには岸本未亡人の経営するファレス・コーヒー園があった。イギリスの土地会社から購入した四百ヘクタールを超える農場で、約二十万本のコーヒー樹が植えられ、常時四十人前後が働いていたが、収穫時には三百人近くのメキシコ人労働者を日給一ペソで雇い入れていた。その家屋や専用の売店までも備えていた本格的なコーヒー園だった。ブラジルでのコーヒーは平坦地での栽培が多かったが、メキシコでは丘陵の斜面を利用し、また、十メートル前後の間隔で立つ大木の間にコーヒー樹を植え、日光の直射を遮っていたという。同農場にいたのは竹内駒雄、山本仙吉、堀田墨夫とその家族三人だった。

 そして、どこよりも在留者が多かったのはエスクィントラ北方のアカコヤワだった。人口千五百四十五人に対し山本浅次郎、堀田常喜、布施常松、田中安太郎、西沢豊蔵、竹村四郎、松田英二、松居猪三郎、渡辺辰衛、中村馨、桑原専之助、勢登利之助など十二家族五十二人で、山本は日墨協働会社の解散のあとその農場の一部を配分され、牧畜と同時に日用雑貨店を経営していた。堀田、布施、松居はいずれも榎本殖民地を継承した藤野農場に関係していた。堀田は同農場に医師として入り、当時は医師開業と同時に農場も経営。布施は同農場に監督として入り、その後、その一部を譲り受けて独立、牧畜とコーヒー栽培を、そして、農場監督として入った松居も独立して牧畜を行なっていた。また、松田は藤野農場にいた高田正助の農場を買い取り、エスペランサ農場として牧畜とコーヒー栽培を手がけ、竹村は小橋岸本合名会社の農場で働いていたが独立して牧畜とコーヒー栽培を行なっていた。

 さらに、パン・アメリカン鉄道に沿って約三十キロ南のウィストラには十八家族五十五人がいた。人口約一万人の大きな町でドイツ人などのコーヒー園も多く、南のタパチュラとならんでコーヒーの集散地として栄えていた。榎本移民の一人で、日墨協働会社にも加わった有馬六太郎は、東洋移民合資の移民としてコアウィラ炭坑に入り、その後、日墨協働会社で働いていた永谷安太郎とともに有馬永谷商会を設立、薬店、雑貨店のほか清涼飲料水製造や農業も手がけていた。そのほか、医師には柴庄作、歯科医には梅原馨、農業には市村市助、金山嘉造、雑貨店経営には熊谷健三郎、そして、有馬永谷商会の店員として鉄本一三、柴山恭平、新実清一、高須熊雄、近藤勇吉のほか、伴沢運吉、辻勇、広石晴彦、望月晴夫、飯塚幸益、内藤広吉などがいた。

 一方、ウィストラ周辺にも在留者は多く、北西の山岳地帯に約三十キロ入った人口二千人のモトシントラには雑貨商の福井惣一、上田健次、薬店経営の那須野順一、左官職の松本為吉が、また、約十五キロ鉄道沿いに南下すればウエウエタンでその郊外には薬店経営の七条篤慶がいた。そのほか、サン・イシドロに雑貨店経営の大関捨三、さらにドイツ人経営のサン・クリストバル・コーヒー園とサンタ・ロサリア・コーヒー園には、それぞれ雑貨店経営の加藤忠雄、熊本岩吉が、また、その他のコーヒー園に橋口知行、吉川義一、佐藤美喜治、佐竹栄、鈴木益三などがいた。

 そして、最後はメキシコ最南端の町タパチュラだが、人口二万五千人を超えるチアパス州最大の町としてドイツ人、イギリス人、アメリカ人、スペイン人経営のコーヒー園や農場が続いていて、ウィストラをはるかに凌ぐコーヒーの集散地になっていた。在留者数は二十六家族九十二人、清水銀吉、辻愛子、内田喜太郎、本田武夫、今津久次郎、長野三次郎、長野政登、加藤卯右衛門、宮下文平、山崎磯吉、八島博、松井諄、古川常吉、大野寅雄、島貫彦蔵、押田重蔵、伊藤義明、目黒栄太郎、梶山敏雄、三井久吉、田中久、市川清八、小松信行、井上京太郎、井上満、藤井茂行がいた。

 辻愛子は辻真の未亡人で夫のあとを継いで日本商店を経営。古川常吉は日墨協働会社の日本人小学校の教師として入り、同薬品部に勤めたあと独立して薬店を経営していた。長野三次郎は大陸殖民によるオアハケニャ移民で、同耕地を出たあと近くのオハパで農場経営をはじめたが革命の動乱で断念、ウエウエタンに移って再度農園をはじめたがこれも失敗、その後、タパチュラに入ってコーヒー園経営、ホテル経営、農場経営と続けたが、いずれも短期に終わって、当時はバーとビリヤードを経営していた。

 八島博は日墨協働会社に勤めていたが、その後、有馬永谷商会にもかかわったあと独立して日用雑貨店を経営していた。清水銀吉は藤野農場で働いたあと日墨協働会社の薬店部に入り、その後独立して薬店を開業、また、松井諄も同薬店部から独立して歯科医を開業、加藤卯右衛門も日墨協働会社から独立して時計店を開いていた。そのほか、内田喜太郎、本田武夫は食料雑貨店経営、目黒栄太郎、梶山敏雄は日用雑貨店経営で、宮下文平はクリーニング店経営、井上京太郎は理髪店経営、藤井茂行は写真店経営で、井上満は大工職、伊藤義明、山崎磯吉は機械工、また、田中久、市川清八、小松信行は辻商店員で、大野寅雄、島貫彦蔵、押田重蔵は古川薬店員、そして今津久次郎、三井久吉は野菜栽培を行なっていた。

 そのほか、タパチュラ周辺のコーヒー園には、グァナファトに清野勘五郎、サン・ファン・エチャラスに梶原喜重郎、コバドンガに河野栄太郎、梶欣市、イダルゴに長島一郎、キエン・サーベに大伴太市、そして、サン・アントニオには松井良太がいた。いずれもコーヒー園の付属店舗での食料雑貨販売だった。

日本人会と日本人学校

 一九二〇年代後半から三〇年代にかけての、各地での日本人社会の様子を走り見てきたが、そうした日本人社会と切り放せないものとしてあったのが日本人会だった。一九三九年に日本政府外務省の指令で実施された「日本人会並邦人実業団体調査」の報告から見ておこう。すべて三九年当時のもの。

 まず、バハ・カリフォルニア州ではメヒカリに十団体、ティファナに一団体、エンセナダに二団体の計十三団体があった。

 メヒカリ日本人会(Asociacion japonesa de Mexicali, B.Cfa., mexico. Avenida Madero #609, Mexicali)は創立一九一七年五月、会長横山信一、会員約三百人。バハ・カリフォルニア州では最大の日本人会として独自の日本人会館を持ち、専任の幹事もいた。幹事としてよく知られていたのが二六年に殺害された益子三郎で、日本人会館はそのとき全焼したが、その後、会員の浄財を集めて再建されていた。ただ残念なのは火災によって貴重な記録の数々が消失してしまったことだった。日本人移民に対する当時のバハ・カリフォルニアの管轄はメキシコの領事館ではなくロサンゼルス領事館にあったため、同日本人会はかなり深く領事館事務にもかかわっていた。創立の時期も早く、また、アメリカとの間に往来の激しかったメヒカリだっただけに活動範囲も広く、墨都日本人会とともにメキシコの日本人会の代表ともいえる存在だった。

 メヒカリ日本人農会(Asociacion Agricola Japonesa de Mexicali. Avenida Madero #609, Mexicali)は創立一九二八年五月、会長知里口和六、会員約百五十人。メヒカリ日本人会の農事部ともいうべきもので、独立会計で農事関係全般の実務を行なっていた。創設されたのは、前年の二七年に農事法が成立、それによって日本人移民の農地没収が続いたことから、それに対処し、一致団結して代替地獲得運動を進めるためだった。当時も運動は続行中で、首尾よく解決すれば日本人農家を統合した大農場をつくる計画もあったという。

 メヒカリ日本語学園(Escuela japonesa de Mexicali. Avenida Madero #609, Mexicali)は別名メヒカリ学園維持会とも呼ばれたもので、日本人会の付属機関として日本語学校を経営していた。創立一九二五年五月、理事長星子伍八、会員百十九人。三九年三月の卒業者数は、尋常科十人、高等科三人で、うち一人がアメリカのハイスクールに、一人がメキシコ、一人が日本のそれぞれ中学に、そして六人が日本の女学校に進学している。また、将来計画として生徒たちの寄宿舎の建設と巡回文庫を予定していた。

 メヒカリ婦人会(Mexicali Fujin-kai. Avenida Madero #609, Mexicali)は創立一九二九年一月、会長貴志エイ、会員約三十五人。これもメヒカリ日本人会の婦人部と考えていいもので、在留者間での慶弔時の手伝いのほか、料理、裁縫などの講習会を定期的に開いていた。

 そのほか、メヒカリの県人会には次のようなものがあった。

 熊本県人会(Kumamoto Kenjin-kai. Avenida Madero #609, Mexicali)、創立一九二〇年二月、会長知里口和六、会員六十五人。

 メヒカリ福岡県人会(Mexicali Fukuoka Kenjin-kai. Calle Altamirano #131, Mexicali)、創立一九二八年一月、会長芝山宅五郎、会員約四十人。

 鹿児島県同志会(Kagoshima-ken Doshikai. Avenida Madero #609, Mexicali)、創立一九三〇年三月、会長山崎甚吉、会員十七人。

 メヒカリ広島県人会(Mexicali Hiroshima Kenjin-kai. Avenida madero #436, Mexicali)、創立一九三一年三月、会長横山信一、会員五十人。

 防長海外協会メヒカリ支部(Bocho Kaigai kyokai, Mexicali Shibu. Calle Mexico #210, Mexicali)、創立一九三三年二月、会長石津兵蔵、会員二十二人。

 沖縄県人会(Okinawa Kenjin-kai. Avenida Lerdo, Mexicali)、創立一九三四年一月、会長宮城與整、会員三十二人。

 一方、ティファナには一九二二年九月創立のティファナ日本人会(Asociacion Japonesa de Tijuana. Apartado Postal #12, Tijuana)があった。会長安原宗、会員六十二人で、独自の会館を持ち、二千五百ペソを超える基金を持っていたという。

 また、エンセナダには、日本人会としては一九二六年四月創立のエンセナダ日本人会(Asociacion Japonesa Ensenada. Apartado #71, Ensenada)があり、会長藤村修、会員百十人で、若干の不動産も所有していた。県人会としてはエンセナダ鹿児島県人会(Sociedad de Kagoshima-kenjin de Ensenada. Apartado #6, Ensenada)だけで、会長染川彦一、会員十九人で、一九三六年の創立だった。

 次に中央部に移って、連邦区、メキシコ、モレリア、プエブラ、イダルゴ、ケレタロ、グァナファト、アグアス・カリエンテス、ハリスコ、コリマ、ミチョアカンの各州を見ておこう。在留者数は一九三九年の時点で二百九十五家族九百六十七人だったが、ほとんどはメキシコ・シティとその周辺部だった。

 もっとも大きかったのは墨都日本人会(Circulo Japones de Mexico, D.F. Calle de San Borja 758, Colonia del Valle, Mexico, D.F.)で、創立一九二五年、会長松本三四郎、会員二百二十五人。中央部各州の在留者の約七十六パーセントを占めていた。資産としてはこの前年度に四万ペソで入手した約七千平米の土地と六百平米弱の専用会館があり、本格的な日本人会として会計、学芸、体育、共催、庶務、実業、業務の七部から成っていた。会費は月二ペソ、主な活動として、会館の維持、日本語学校の経営のほか、特異な存在として「メキシコ時報」の発刊があった。また、将来計画として、日本人共同墓地の購入や地方からやってくる就学児童や旅行者のための宿泊施設の建設も考えられていたようだが、現実には会館とその用地購入のための負債を七千五百ペソもかかえていて、さまざまな形で日本政府に補助金を要請しているという情況だった。日本政府は同会を日本人会の中央組織とするために肩入れし、年間千円の補助金を交付している。

 そのほか、メキシコ・シティの日本人団体としてはメキシコ・シティ日本人貿易組合(Union de Exportadores e Importadores en Mexico. Avenida 20 de Noviembre #66, Mexico, D.F.)、墨都日本人同志会(Club Deportivo Nippon. Plaza Santa Degollados #28, Mexico,D.F.)、墨都在郷軍人団(Calle San Borja #758, Colonia del Valle, Mexico, D.F.)、墨都日本青年会(Asociacion Juvenil Nipo-Mexicana. Calle San Borja #758, Colonia del Valle, Mexico, D.F.)があり、メキシコ・シティ日本人貿易組合は創立一九三四年三月、会長加藤平治で、会員に貿易商社十八社が加入、貿易振興会としての活動のほか、前年度は日本政府から五千円の補助金を受け時局宣伝も行なっていた。墨都日本人同志会は一九二二年に日本人自動車運転士組合として創立されたもので、その後、三二年に改称、対象を日本人全体に拡大しスポーツ親善の交流会として活動していた。会長渥美新一郎、会員八十五人。墨都日本青年会は一九三九年五月に発足したばかりの墨都日本人会の青年部ともいうべきもので、会長ホセ・ルイス・原田、十二才以上の二世四十人から成っていた。特異な存在だったのは墨都在郷軍人団で、メキシコ・シティ在住の日本人在郷軍人からなり、辻信次郎(陸軍少尉)を会長に天長節祝賀会や武道会の開催のほか、墨都日本人会とともに日本への愛国飛行機献納運動を指揮していた。大陸では蘆溝橋での衝突のあと本格的な軍事行動がはじまっていた。

 ほかに日本人会としてはハリスコ州にグァダラハラ日本人会(Sociedad Japonesa de Guadalajara. Avenida Colon #572, Guadalajara)とコリマ州にマンサニージョ日本人会(Sociedad Japonesa de Manzanillo)、サン・ルイス・ポトシ州に福岡県海外協会メキシコ支部(Esq. Fuente y Zaragosa, San Luis Potosi)の三つだけ。グァダラハラ日本人会は創立一九三三年四月、会長中川晶郎、会員十八人。マンサニージョ日本人会は創立一九三六年十二月、会長中村熊吉、会員十三人。福岡県海外協会メキシコ支部は一九二六年十一月の創立で、会長馬場藤吉、会員二十五人だった。グァダラハラ日本人会では日本語学校や共同墓地の購入なども予定していたが、いずれも専用の会館もなく小規模なものだった。

 次にソノラ、シナロア、ナヤリットの北西部三州だが、ここでの在留者数は百七十四家族五百四十人。日本人会は十一団体となっていた。

 実体としてあったものではなかったが、墨都日本人会とならんで連合会としての性格を持っていたのは西北部連合日本人会(Confederacion de Las Sociedades Regionales-Japonesas del Noroeste de Mexico)で、ソノラ、シナロア両州の日本人団体の連絡機関として、ソノラ州では犬飼徳十郎、シナロア州では岡村清兵衛が代表として隔年交替で実務にあたり、当時は岡村が会長になってクリアカンに本部を置いていた。一九二五年に設置されたマサトラン領事館は一九三五年に閉鎖されたため、連絡機関が必要になってつくられたもので、墨都日本人会同様、日本政府は北西部各地の日本人会をまとめるためのものとして注目し連絡を密にしていた。といっても、補助金もなく、各日本人会からの会費は月五ペソという少額で、どれほどの活動ができたか明らかでない。

 そのほかの日本人会としては次のようなものがあった。

 ソノラ州在留日本人代表者会(Sociedad General Japonesa en Sonora. Hermosillo)、創立一九三一年八月、会長岩本正太郎。ソノラ州全域の日本人団体の連絡機関としてあったというが、会員数や所在地も明らかでない。

 カナネア友愛会(Cananea Yuai kai. Apartado 16, Cananea)、創立一九三二年八月、会長飯田実、会員十二人。鉱山労働者が多かったため、その生活救済が主な活動になっていた。

 アグア・プリエタ共栄会(Agua Prieta Kyoei kai. Apartado 28, Agua Prieta)、創立一九三二年四月、会長古賀龍作、会員十一人。会費は月一ペソだったというが、詳細な活動は明らかでない。

 ノガレス日本人会(Asociacion Japonesa de Nogales. Avenida Obregon #12, Nogales)、創立一九二七年、会長北条隆一、会員二十七人。ソノラ州では唯一の日本語学校だったリオ・マヨ日本語学園への経営支援のほか、アメリカとの国境の町だったことからアメリカとの往来の日本人移民が多く、その仲介に北条は個人的支援も惜しまなかったという。

 エルモシーヨ日本人会(Asociacion Japonesa de Hermosillo. Apartado 22, Hermosillo)は創立一九一九年十二月、会長岩本正太郎、会員十五人。会員数は比較的少なかったが、創立の歴史は古かった。

 シウダー・オブレゴン日本人会(Sociedad Japonesa de Ciudad Obregon. Apartado 179, Ciudad Obregon)、創立一九三一年三月、会長佐川孝之助、会員二十三人。

 リオ・マヨ日本人会(Asociacion Japonesa de la region del Mayo. Calle Pesquerra 78, Navojoa)は創立一九二九年十一月、会長柳原平一、会員四十四人。ナボホアと周辺の日本人移民からなる組織で、近くを流れるリオ・マヨからその名をとっていた。一九三二年、約三万五千ペソで用地を購入しリオ・マヨ日本語学園を創設、維持会を設置し、その経営、維持を主な活動としていた。創設に努力したのは犬飼徳十郎、家田耕三を中心としたメンバーで、ソノラ州だけでなく、シナロア州からも子弟を受け入れていた。

 アオメ・モチス共和会(Ahome Mochis Kyowa kai. Apartado #80, Los Mochis)は会長中井成太郎、会員三十七人。ロス・モチスとその北西のアオメにいた日本人移民から組織されたもので、独自の日本人会館設立の計画はあったようだが、詳細な活動や創立年も不詳。

 クリアカン日本人会(Sociedad Japonesa de Culiacan)は創立一九三五年四月、会長岡村清兵衛、会員四十二人。ほかと比べても会員数は多い方だったが、歴史も浅く、独立した事務所もなかった。おそらく岡村の自宅を連絡場所にしていたのだろう。

 マサトラン日本人会(Sociedad Japonesa de Mazatlan)は創立一九一五年一月、会長脇田稔、会員二十六人。会員は少なかったが、シナロア州の中心地として、また、北行移民たちの通過ルートでもあったため早くから日本人移民が多く日本人会が成立するのも早かった。

 次に北部に移って、チワワ、コアウィラ、ヌエボ・レオン、タマウリパス、ドゥランゴ、サカテカス、サン・ルイス・ポトシの各州を見てみよう。もっとも在留者が多かったのはコアウィラ州で百二十六家族四百五人、ついでチワワ州の百三十六家族三百九十八人、サン・ルイス・ポトシ州の四十七家族百四十人、タマウリパス州四十七家族百十九人だった。日本人会は全部で十団体だが、ドゥランゴ州、サカテカス州にはなかった。

 もっとも規模が大きく、一九一三年の創立と歴史の古かったのがシウダー・ファレス日本人会(Sociedad Japonesa de Ciudad Juarez. Calle Ramon Corona #412, Ciudad Juarez)だった。次第に激しくなりつつあったメキシコ革命の動乱による被害から身を守るために共同組織としてつくられたのではないか。会長は長谷川常三郎で、会員七十人。将来計画として日本語学校の設立も予定していたという。

 次に大きかったのがチワワ日本人会(Sociedad Japonesa de Chihuahua. Calle Pino Juarez #2506, Chihuahua)で、会長鈴木源八、会員五十人。

 州別にみれば、まずコアウィラ州では、ピエドラス・ネグラス日本人同志会(Asociacion Japonesa de Piedras Negras)が創立一九一七年一月、会長大櫛敬吾、会員十三人のほか、アジェンデ日本人会(Sociedad Japonesa de Allende)が創立一九三四年七月、会長植田徳之助、会員八人。また、コアウィラ日本人会(Sociedad Japonesa de Coahuila)が創立一九二六年一月、会長小山田団四郎、会員四十五人で、パラウ日本人交友会(Palau Nipponjin Koyokai)が創立一九二五年、会長平木円蔵、会員四十五人だった。いずれもコアウィラ北東部の町で、コアウィラ日本人会はクロエテにあった。

 そのほか、ヌエボ・レオン州では、モンテレイ日本人会(Sociedad Japonesa de Monterrey. Calle Morelos #546 Oriente, Monterrey)が創立一九三九年一月、会長辻真、会員十三人。タマウリパス州では、タンピコ日本人会(Sociedad Japonesa de Tampico. Esq. Altamira y Aduana, Tampico)が創立一九一五年十一月、会長岡精一、会員四十五人。そして、サン・ルイス・ポトシ州では、サン・ルイス・ポトシ日本人会(Sociedad Japonesa de San Luis Potosi. Calle Zaragoza y Fuente, San Luis Potosi)が創立一九一四年二月、会長馬場藤吉、会員三十五人で、バイエス日本人会(Sociedad Japonesa de Ciudad de Valles. Calle Morelos #5, Ciudad de Valles)が創立一九三六年八月、会長木津與平、会員十人だった。タンピコ日本人会やサン・ルイス・ポトシ日本人会の設立が早かったのは北部炭坑移民の移動があったからで、前者は会員も多く、日本人学校の建設が計画されていた。

 そして最後に南部諸州のゲレロ、オアハカ、ベラクルス、タバスコ、チアパス各州だが、実際に日本人会があったのはチアパス州とベラクルス州だけだった。在留者がもっとも多かったのはチアパス州で、六十二家族二百二十八人、ついでベラクルス州の百十七家族百七十九人だった。

 チアパス州では、エスクィントラ日本人会(Sociedad Japonesa de Escuintla)が創立一九三八年二月、会長中沢三次、会員二十一人。ウィストラ日本人会(Sociedad Japonesa de Huixtla. Apartado #23, Huixtla)が創立一九二八年五月、会長熊谷健三郎、会員二十九人。そして、タパチュラ日本人会(Sociedad Japonesa de Tapachula. Apartado #42, Tapachula)が創立一九二八年十一月、会長目黒栄太郎、会員二十二人となっていた。

 ベラクルス州では、ベラクルス日本人会(Sociedad Japonesa de Veracruz. Avenida Miguel Lerdo #32, Veracruz)、創立一九二一年六月、会長渥美貫志、会員二十八人。オリサバ柏木倶楽部(Kashiwagi Club. Calle Norte 2, #48, Orizaba)、創立一九二三年十月、会長玉川音作、会員十人。ヘスス・カランサ日本人会(Sociedad Japonesa de Jesus Carranza. Calle Hidalgo #27, Jesus Carranza)、会長小島保雄、会員十一人。プエルト・メヒコ日本人会(Sociedad Japonesa de Puerto Mexico)、創立一九一五年二月、会長志山美鳥、会員十二人。ミナティトラン日本人会(Sociedad Japonesa de Minatitlan. Apartado #2, Minatitlan)、創立一九三一年十月、会長瀬尾平次郎、会員二十七人など五団体だった。人数は少ないがプエルト・メヒコ日本人会の設立が早かったのは、ベラクルス各地の砂糖耕地に入った者が流れたからで、三〇年代に入ると貿易港の町ベラクルスと商業の町ミナティトランに在留数が移動していることがわかる。また、ミナティトラン日本人会では同市の赤十字病院や道路修理費として同市に少額だったが毎月寄付行為も続けていたという。

 以上、一九三九年当時の日本人会を中心とした日本人団体は、連合日本人会二、日本人会三十三、県人会八、貿易組合、在郷軍人会、同業者組合から発展したスポーツ交流会、青年会、農会、婦人会、独立日本語学園各一、計五十団体となっていた。このうち、日本人学校については、実際に独立して日本語学校を運営していたものは墨都日本人会とリオ・マヨ日本人会だけだった。そのほか、南部では小さな寺小屋式のものはいくつかあったが、比較的組織だっていた日墨協働会社による日本語学校はすでになかった。

 地域別にみれば、北西部地方あわせたものが全体の七十パーセント近くを占め、創立年代別にみれば、一九一〇年代の創立が八団体、二〇年代が十七団体、そして三〇年代が二十団体となっている。ただ、一〇年代と二〇年代に創立されたのはほとんどが北西部地方のものだった。当時、在留者の多くは北部に集中し、また、革命による動乱が北部に厳しかったからで、身を守るために連絡機関としての日本人会が欠かせなかったのだろう。

 一方、一九三〇年代も含めた二〇年代後半以後の創立は七十パーセントを超え、会員数からみれば、三九年の時点では、バハ・カリフォルニア州を除いた在留者家族総数は千百九十家族だったのに対し、バハ・カリフォルニア州以外の日本人会会員総数は約千百人だった。つまり九十パーセント以上の家族がこれらの団体に加わり、なんらかの形で組織化されていたことになる。メキシコの日系社会形成とその時期を示す一つの指標とみていいだろう。ただ、そうした背景にも日本政府による海外在留者に対する継続的な働きかけがあったことも見逃せない。三〇年代に入ると、日本軍の大陸侵攻が激しくなったことから日本人会への戦争正当化の喧伝も強くなり、愛国機献納運動や慰問袋運動なども半強制に近いかたちで盛んに進められていて、それに応える形で創立が早められた日本人会も少なくなかった。

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